goo blog サービス終了のお知らせ 

書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

陸凌霄 『越南漢文歴史小説研究』

2017年09月05日 | 地域研究
 原題:陆凌霄『越南汉文历史小说研究』

 『百度百科』による紹介

 「自序」で越南漢文小説の書かれた言語たる漢語を「漢文化の貴重な歴史文化遺産」「東洋人(東方人)の智恵」(3頁)と表現しているところで続く本体部分の内容に危惧を覚えたが、実はそうではなく、別の、「矛盾」が弁証法的な意味(辞書でなら毛沢東の『矛盾論』の用例が例として示されるであろうところの)で、また単なる「対立」(階級間、民族間のそれ)の意味で、頻繁に使用される種類の論旨であった。そのゆえに当然と言っていいのかどうか、どうも「漢文は漢文」ということで、文体論や語彙表現構文の特徴の有無(あるのだが)に対する言及や分析はない。また『平呉大詔』を取り上げながら(104頁)、この「呉」は何を指すか、なぜ「呉」なのかの説明がないが、この叙述上の基本的な疎漏は専門家としての配慮、専門書就中概説書ならば概説書としての水準を疑わせるものである。

(北京 民族出版社 2008年8月)

小松謙 『「現実」の浮上 「せりふ」 と 「描写」 の中国文学史』

2017年08月08日 | 地域研究
 出版社による紹介

 漢語における書記言語――文言文、その可能不可能を双方含意しつつ象徴的に「描写」と呼ばれる――と、口語文学――同じく象徴的に「せりふ」――の、それぞれ本来の性質とその変遷のダイナミクスとメカニズムのとらえ方は、当然のこととして私とは異なる。だがそれ以上に教えられる部分が大きい。非常に参考になった。

(汲古書院 2007年1月)

2017年7月7日 「七七事変」80周年で日本の右傾化を批判――今日の『人民日報』で中国新政治が読める

2017年07月21日 | 地域研究
 http://blog.livedoor.jp/zzmzhchina/archives/1066965308.html

 (10面)鐘声「歴史の中から未来に向かう精神力量を汲み取る」と題する「七七事変」、いわゆる盧溝橋事件80周年に関する論説が掲載されている。
 ー「回避してはならないことは、今日人々が『七七事変』を祈念することであり、現実の側面に憂慮がないわけではないことである。」
 ー「しばらくのあいだ、日本の政治生態の右傾化が次第に強まり、戦争の歴史を粉飾する勢力がたえず台頭している」
 ー「歴史の否定を急ぐのは、目下の日本が未来に対する焦燥感を表している。安倍政権が平和憲法の改正を急ぐことはその心態の明白な表現である」
 ¶「七七事変」から80年なのだが、その表現が「爆発80周年」となっているのが気になる。「勃発80周年」の意味だが、今まで公式の言及で中国語で「爆発」と言っていたのだろうか。私は見た記憶がないので目についた。ことさらに大げさにしようとしているように感じられる。
 しかしその内容は歴史問題よりも安倍政権批判になっている。安倍政権の右傾化批判がこのように展開されていることからは、日中の政治関係の好転は期待できないように思われる。


 漢語の、こういう主観的で固定したとらえ方に基づく表現は、たとえば私の感覚では「紋切り型」という認識をもたらす。しかしながら同時に、漢語では、たとえば“成語”が、言語また発話におけるpunch lineになるという現象がしばしば見られる。このことから、「紋切り型」という評価――とくにその価値的なニュアンスを伴う判断――は、この場合漢語話者においては共有されない状況を考えることができる。

セルゲイ・フルシチョフ著/ウィリアム・トーブマン編  福島正光訳 『父フルシチョフ 解任と死』 上下

2017年07月07日 | 地域研究
 原著者による原注だけでなく、編者(英語版)がいたるところにはめ込んだ著者への質問とその答えから成る訳注(英訳に際しての)を合わせて、史料である。その質問が正面から、あるいはまったく答えられなかった個所とその事実をも含めて。

(草思社 1991年11月)

ジョレス/ロイ・メドベージェフ著 下斗米伸夫訳 『フルシチョフ権力の時代』

2017年07月07日 | 地域研究
 出版時にまず最初に読んだもので、このたび用あって、じつに久しぶりに再読することになった。当時読んだソ連関係の和書には、志水速雄『日本人はなぜソ連が嫌いか』(山手書房 1979年3月)もあったが、後者がのちのちまで印象強烈だったのに、この前者の読後感が一貫して薄かったのは、たんに私の不学のせいだったことを、いまひしひしと感じている。

(お茶の水書房 1980年7月)

高崎直道/木村清孝編 『シリーズ・東アジア仏教』 5 「東アジア社会と仏教文化」

2017年06月16日 | 地域研究
 中国人は原典あるいは原意に即してその教理を理解するのではなく、インド仏教思想とは思想類型のまったく異なる中国独自の伝統思想に基づき、あるいは中国古典との類比によって理解しようと試みた。あるいはそれが必然であった。このような解釈法を「格義」といい、それに基づいた仏教を格義仏教という。 (丘山新「序章・漢訳仏典と漢字文化圏――翻訳文化論」 本書24頁)

 中国の場合に限らず、外来の思想・宗教あるいは広く文化一般に接し、受容する際には、自国の伝統的文化に基づいて解釈し受容することは必然の道である。白地の布が染料に染められていくのとは異なり、受容する側にはすでにその国・民族の色彩がある。そしてそこには常にその国・民族独自の受容の仕方があるのである。中国の場合、仏教を受容するにあたり、翻訳にせよ、インド仏教の教理解釈にせよ、あるいはさらに自己の教理構築にせよ、明白な漢字文化・中国文化意識に基づき、それに引き寄せ、あくまでのその土台の上で解釈し受容する、と要約されるようなきわめて独自の特色があきらかであることは、不十分にせよこれまでの論述から理解されたであろう。 (丘山新「序章・漢訳仏典と漢字文化圏――翻訳文化論」 本書31頁)

 “外来の思想・宗教あるいは広く文化一般に接し、受容する際には、自国の伝統的文化に基づいて解釈し受容する”ことが“中国の場合に限らず”なのであれば、その中国が、“仏教を受容するにあたり”、“明白な漢字文化・中国文化意識に基づき、それに引き寄せ、あくまでのその土台の上で解釈し受容”したこともまた、“独自の特色”とはいえないのではないか。

(春秋社 1996年2月)

賦 - Wikipedia

2017年06月01日 | 地域研究
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A6

 賦(ふ)とは、中国の韻文における文体の一つ。漢代に形成された。抒情詩的要素が少なく、事物を羅列的に描写する。事物の名前を列挙することを特徴とするので、日本では古来、かぞえうたと称された。『漢書』芸文志に「歌わずじて誦ず、これを賦と謂う」とあり、漢詩が歌謡から生まれたのに対し、賦はもとより朗読されるものであったと考えられる。


 これに関連して、同じだがただし英語のWikipediaの"History of fu poetry" 項を見たが、私が知りたいある一点は書かれていない。日・英・中・露の「賦」項もそうだったけれど、賦について考えて“あれ”を不思議に思わず、またそれについて書いて触れないでいて不自然とは思わないのか。


段莉芬 「最早出現繋辞「是」的地下資料」

2017年05月28日 | 地域研究
 『中國語文通訊』1989年1月第6期掲載、同誌19-21頁。

 漢語で「是」を繋辞copulaとして使う最古の用例は戦国時代末期にあるそうだ。睡虎地秦簡に見える「是是~」の2番目の「是」が、いまのところ最初期の例であるとのこと。「これは~である」。ということは、仏教経典の漢語翻訳の影響(つまりサンスクリット語やパーリ語からの影響)ではないわけだ。古代漢語は一種暗号文のような性格があって、本人や当事者関係者が解ればいいという意識のもと(それだけが理由ではないが)、その範囲内の大まかなルール(もしくは共通の理解)に従って省略可能な語はたとえそれが言語としては文法的に不可欠なものであっても書記においてはぶいた可能性があるから、本当に戦国時代末以前の漢語に(史料のほぼ残っていない口語だけでなく文語であっても)繋辞が存在しなかったどうか、断定しにくいところがある。

井上正美 「『格義仏教』考」

2017年05月26日 | 地域研究
 高崎直道/木村清孝編『シリーズ・東アジア仏教』3「東アジアの仏教思想Ⅱ」(春秋社 1997年5月)所収、同書293-303頁。

 日本の中国仏教史家のみが用いる用語「格義仏教」とは、中国の東晋時代に、仏教の教理を解釈するおりに仏家たちが「格義」という方法を用いた」という「風潮」、もしくは「方法」ないし手段にすぎず、実態として「格義仏教」などというものは存在せず、当時「『格義』という方法が流行した」だけの事実であるという議論。

なぜモスクワは「第三のローマ」なのか - ロシアNOW

2017年05月16日 | 地域研究
 2017年3月24日 オレグ・エゴロフ。

 中世時代の帝国の首都というステータス以外に、モスクワとローマの間に共通点はそれほどない。ロシアの首都とローマでは建築も全く違い、気候もローマより遥かに厳しい。そんな中、数少ない共通点の一つがモスクワはローマと同じように7つの丘の上に立っているとされることである。
 一方、モスクワを研究する歴史家のアレクサンドル・フロロフは「7つの丘の上に立つ都市」という表現は事実とは合致しないと指摘する。年代記では傾斜の緩やかな小さな隆起が「丘」に数えられているが、実際にはそれを丘と考えるのは難しく、唯一「丘」と呼べるのは現在クレムリンがあるボロヴィツキー丘だけだというのである。フロロフは、それ以外は美しい伝説であり、ロマンティックな人々の想像の産物であるとしている。「彼らはモスクワを何としても第三のローマと呼びたかったのでしょう」 

 フィロフェイのこの言葉は岡倉天心の「アジアは一つである」同様、かくあれかしという願望あるいは悲鳴のようなものと理解していたが、違うのか。