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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

五味文彦/本郷和人編  『現代語訳 吾妻鏡』 1 「頼朝の挙兵」

2018年02月23日 | 日本史
 出版社による紹介

 年月日を日本の年号で記していること、登場人物の官職表記はたとえ唐名を使っていても基本的に日本式であること、さらに登場人物への親疎・上下の感覚が完全に当時の内部関係者である筆者たちのそれであること(これが具体的に現れるのは〔~給〕といった日本語の敬語の使用と、人物称呼の表記法〔~主〕など)から、これは変体漢文それも漢文を書こうと思ったが能力不足で和習が滲み出たものではない種類、と見なせるかとの読後の感想。

(吉川弘文館 2007年11月)


三浦勝也 『近代日本語と文語文 今なお息づく美しいことば』

2018年01月20日 | 日本史
 出版社による紹介

 明治以後の、口語的要素と欧文からの訳語および表現方法(例えば擬人法)を取り入れた近代文語文を、著者は、それまでの文語(一般の用語でいえば和漢混交文であろう)と区別して、「時文」という別の範疇を立てる。

2018年1月21日追記

 三浦勝也『普通文と時文』(『東京都立産業技術高等専門学校研究紀要』 1、2007年3月掲載、同誌137-143頁

 ここでは、三浦氏は、明治以前の文語を「漢文直訳体」もしくは「漢文訓読体」、明治後のそれを「普通文」もしくは「時文」と、分けて把握しておられる。

(勉誠出版 2014年6月)

杉本つとむ/C.W.フーヘランド/杉田成卿『医戒 幕末の西欧医学思想』

2017年12月25日 | 日本史
 2017年12月13日「緒方富雄 「緒方洪庵『扶氏医戒之略』考」」より続き。
『医戒』そのものはフーヘランドの原作(一部)を杉田が翻訳したものだが、それを原典に遡って杉田訳の得失を指摘評価しつつ訳し直し杉田訳にはなかった注釈をも付した杉本氏を含めて、本著は三者の合作とさえ言っていいと思う。
 そしてその内容は、いろいろ面白い。面白いが、原著はドイツ語で、私はオランダ語もドイツ語を知らぬので、その追究にはおのずから限度がある。そのことをわきまえたうえで、楽しむことにする。
 さて、この日本語訳で使われている「親験」という詞の出典が『福恵全書』ときいて、先日電子版で原文を閲したあと今日は佐伯富編『福恵全書語彙解』(同朋舎1975/8)を見てみたのだが、なかった。杉本氏の拠り所は『大漢和辞典』“親験”条だが、諸橋『大漢和』はいかにしてこの出典を得たのだろう。独自にか?
 そして、汲古書院の『福惠全書 附索引』(1973/2、山根幸夫解題/索引編纂)の索引にもない。むろん本文にはある。巻十四、たとえば同書の165頁上
 楽しみは、まだまだ続く。

  (社会思想社 1972年1月)

磯貝淳一 「『東山往来』の文章構造 : 書簡文体と注釈文体とを繋ぐ問答形式」

2017年12月18日 | 日本史
 『人文科学研究』135、2014年10月掲載、同誌49-76頁

 冒頭の研究史整理のところで思ったが、変体漢文の文体論をするときは、筆者が何語を書いているつもりだったかの吟味も必要ではなかろうかと。漢文(中国語)の積りだったのか、漢字を使って変体漢文の文体で日本語を記している積りだったのか。あるいはすでに読み下しの形で日本語が筆者の頭のなかに構想されており、それをいわば元にもどして漢文の語順で書いているのか。この三択は過去の変体漢文研究においてすでに提起されているが、さらに私は、可能性として、「変体漢文(漢文でも和文でも漢文訓読体あるいは和漢混淆文でもなく)」を書いている積りだったといういまひとつの選択肢を追加したい。

『日本教科書大系』1-4『古往来』編

2017年12月18日 | 日本史
 石川謙(奥付にはこの名だけだが扉には石川松太郎のいう名も見える)編纂。

 「道理」というものを、その名を挙げたうえ、さらに「それはこれこれこういうものである。銘記せよ」で終わらず、「ではこういう状況において道理はいかにあるべきか」を、論理の道筋を示しながら同時に読者にもその当否を含め自分で考えさせようとするのは、『東山往来』と『賢済往来』だけだった。後者は、著者は自覚してのことかどうかはわからないながら、結果として、「道理」が導き出される材料を各種並べることで、「道理」とはなにかの本質的な問いにまで、読者がその気があれば誘う作りになっている。

(講談社 1967年2月)

木村尚三郎ほか編 『中世史講座』 6 「中世の政治と戦争」

2017年12月16日 | 日本史
 竺沙雅章「宋代の士風と党争」から。

 台諫の発言が公議を反映するといえば、はなはだ聞こえはよいが、往々にしてそれは恣意的主観的であった、まったくの公正な議論とはいえない。
 (本書119頁)

 そもそも当時の台官諫官に現在の我々が頭に想い描くところの“公正”という概念や“公正たれ”という倫理規範は存在したのか。私は『国朝諸臣奏議』を通読して、どちらのそれも見いだせなかった。
 また、本書には小野和子氏の「明代の党争」も収録されている。出版年から推測されるように、視角も議論も下部構造が上部構造を規定するという大前提枠組のもとにある。つまり社会経済史の変形であって政治史でも政治過程分析でもない。ここに人間はいない。


歴史学研究会/日本史研究会編 『日本史講座』 4 「中世社会の構造」

2017年12月16日 | 日本史
 冒頭「刊行にあたって」に、「〔編集方針〕(1) 社会主義体制の崩壊、市場の暴走、テロや民族紛争・戦争、国際社会の分裂と国際協調の模索、環境破壊など、現代が直面する諸問題の由来を歴史のなかに探ることを通じて、未来に繋がる歴史像の創造をめざす」(iii頁)とある。そして第1章は、「『二〇〇一年九月一一日のニューヨーク等における国際ネットワーク・テロ(所謂「9・11同時多発テロ事件」)は、一大国による世界支配の成立とその意味を問い直させる事件であった」(1頁)と始まる。章名は「『元寇』、倭寇、日本国王」であるにも拘わらずである。中世どころか日本史そのものがおのれ等の主義主張運動のダシであると高らかに宣言しているに等しい。こんな歴史学は衰退したとしても当然であろう。“本気”が感じられないのだから。

(東京大学出版会 2004年9月)