書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

福惠全書 - 中國哲學書電子化計劃

2017年11月08日 | 東洋史
 http://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=281633&searchu=%E4%BA%B2%E9%AA%8C

 「親驗」という言葉がC. W. フーヘランド著/杉田成卿訳『医戒』(杉本つとむ解説、社会思想社 1972年1月)に出てくる。杉田氏はこれをおそらくは諸橋『大漢和辞典』に拠って『福恵全書』の「親験ハ則チ目を経テ分明ナリ」からきている「蘭学者の愛用語」とされる(同書48頁)。そこで『福恵全書』原文をこの語で検索してみた。
 「親験ハ則チ目を経テ分明ナリ」のくだりは『電子化計画』のテクストでは(38)に見られる。
 杉田氏によれば、蘭学者はこの語を「親しく実験すること」という意味で用いたという(同書同頁)。この杉田成卿訳『医戒』でも、この意味で、オランダ語翻訳からの本重訳の訳語彙として用られている(同書20頁第11行)。
 しかし、ここで検索の結果集められた『福恵全書』における「親驗」の使用例は、「担当者もしくは責任者が実地に現実、原物・現場にあたって調べること」であり、実験の意味はほとんどない。なぜなら、これは“頭の中で勝手な予見を持たずに”という前提に立つ語彙だからである。実験は観察のうえに仮説を建ててそれを検証する行為を指すが、この「親驗」は、まずは現実を見ろ、調べろという意味であり、観察のほうの意味が主である(そしてそれば検証を兼ねる。なぜならここには仮説を立てるという過程がないから)。『医戒』の「親験」は――ひいては蘭学者における――は、本来の語義とは意味がずれている。