書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

紺野達也訳 『北京大学版 中国の文明』 5 「世界帝国としての文明<上> 隋唐―宋元明」

2017年03月06日 | 東洋史
 シリーズを通じて、細心かつ最新の編集と執筆内容で、読んでいてとても啓発裨益されるのだが、この巻では、「第四章 科挙制度の発展と新しいタイプの士大夫の出現」の以下のくだりが気になった。

 宋代の士大夫の心の中では、「天下は」すなわち「天下の天下にして、一人の私有に非ざる」(朱熹『孟子集注』巻九「万章章句上」)ものでした。〔略〕その根柢を探ると、彼らのいう「天下」や「天」は実際には「公議」「人心」を指しています。「天下」を胸に抱く士大夫は「天道」や「公議」を旗印に、集団を結集する呼びかけや君主を制約する力として思いのままにみずからの政治的権利を宣言し、国政に参画し、統治しました。 (本書273-274頁)

 本当か? この結論は、宋代士大夫の言行のうち言のみに注意の重心が傾きすぎてはいないか。彼らが口にする理想と彼らの実際が必ずしも一致しないこと、そしてその言も、たとえば朱子によって実際以上にさらに理想化されている事実については、つとに宮崎市定氏の研究がある(「宋代の士風」)。
 そして、この場合、北宋と南宋を一緒にするのは、ことが士大夫に関するから語呂合わせで言うのではないが、議論として大丈夫なのだろうか? いま名の出た朱子(学)以前と以後の彼らの考え方やその基礎となる物事の概念、世界観を同じものと見なしてよいのかということだ。
 そのことに関連するが、彼らの「天下」観や「天」観について、趙汝愚輯『国朝諸臣奏議』を読んでも、彼らの諫言は実際の政治政策上のテクニカルなものばかりであって、皇帝権力の恣意を矯めようとか掣肘しようとかという意図はそこには感じ取れない。そこに、「集団を結集する呼びかけや君主を制約する力として思いのままにみずからの政治的権利を宣言し、国政に参画し、統治」せんとする意欲は感じるが、その理由は彼らの実際的利益の獲得という感がいなめないのである。つまり自分らにも支配者としての権力の分け前をよこせ、振るわせろという話である。この巻が、この箇所で、「天下(天道)」「天」を梃子にしてすこしにおわせるような(もっとも“「天下」や「天」は実際には「公議」「人心」を指しています”と予め断ってはいるが)、万人を、君主すら超越するところの、いわば自然法的な「正義」は、窺うことができないのである。

(潮出版社 2015年9月)