「第三篇第二章 心論」、同書388-407頁。同篇の結論として著者は「意は心の発であり、志は心の之く所であるから、友に心の作用であり、従つて亦性の発動を予想するものであるが、果して性中の何の理から発するものと為すのであるか、此の点については朱子は未だ嘗て何も述べて居らぬのである」(407頁、原文旧漢字)とまでしか言っていないが、そこに至るまでの議論において「心は性情を統ぶ」であり(390頁)、「性」が「太極の理」であり(同頁)「情」が「一切の意識現象」であり(同頁)そして「知覚作用は性中の智の理が動いて起るもの」とある(402頁)。そうであるとすれば、朱子学においては人間に理性は存在しない。ただ同時に、「先知先覚」を「真理の認識(理の存在の認識=道徳的認識)」(401頁)としているところ、人間独自の思考、就中推論能力を、その位置付けは不明確・不十分ながら、有るものとして認めていることになる。先があれば後がある。後知後覚は人間のはからいということになる。
(目黒書店 1937年10月)