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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

加藤繁 「道光咸豊中支那にて鋳造せられたる洋式銀貨に就いて」 「~の補遺」

2017年03月30日 | 東洋史
 和田清編『支那経済史考証』下(東洋文庫 1948年4月所収、同書450-458、459-462頁。

 驚いた。「こういうものがあった。質量はかくかく形状はしかじか」「いつどこで作られた」という内容で、ほぼ論がない。

増井経夫 「銀経発秘と洋銀弁正」

2017年03月30日 | 東洋史
 『和田博士還暦記念東洋史論叢』(大日本雄弁会講談社1951/11)所収、同書625-639頁。

 面白いが、両書とも和訳または大意の紹介で、原文の引用がない。あまりに変格な文言文で難解なのでその価値はないと判断されたか。しかし語学屋には興味がある。
 べつに知識人でもない商人が誤字脱字だらけの古代漢語で“現今”を捉え表現しようとしたその結果は何如と。


白川静 『漢字の世界』 1・2

2017年03月12日 | 東洋史
 反訓に関して、白川氏がそんなものは存在しないという立場であることは知っていたが、この著では、例えば「乱」について、本義は「乱れているものを治める」であって「乱す」とするのは後世の解釈の誤りだとする(「2」、37頁)。

(平凡社ライブラリー版 2003年7月)

付記
 「1」で、清・趙翼の『陔余叢考』巻21に中国史における左右の尊卑を論じた条があることを教えていただく(77頁)。同書を早速閲してみると、「尚左尚右」という項である。ややこしい。時代によって左が貴ばれたり右だったり、また同時代でも冠婚葬祭・平時有事の別によって異なってくる。ややこしい。
 また同じく元・周密『齊東野語』巻10にも論じたくだりがあるとの由、調べてみるに、ますますややこしいかぎり。たださきの趙翼はこの書を覧たうえで自論を組み立てているのか、内容的に重複する部分が多い。
 それから清・銭大昕『十駕斎養新録』巻10についてもこの件に関し言及があることをご教示いただいた。調べてみると「尚左尚右侍左待右」および「左右」の条である。これがいちばんわかりやすいような。宋以後、元代を除き左を上とすることが少なくとも官制においては確定したらしい。
 さらに脱線するが、左右大臣の序列というと私などはすぐ菅原道真の右大臣と藤原時平の左大臣の例を思い浮かべるのだが(時平の左大臣のほうが上)、あの順序はどこから来たのかと思っていたのだが、やはり唐制の輸入だろうか。唐も左を尊んだと『十駕齋養新錄』の「左右」に指摘がある。ちなみに「左遷」は左が右より下にあるという通念のうえになりたつ漢語表現だが、これは『漢書』が初出らしい(巻83「朱博傳」)。漢代は右の方が上だったと『陔余叢考』の彼条に云う。




程樹德 『論語集釋』 上中下

2017年03月10日 | 東洋史
 前項から続き。

 たとえば下冊「憲問」篇で、「微管仲。吾披发左衽矣。」と切ってある。この時代の漢語の句読点の付け方は読点と句点をどちらも“○”で示すが、このことすなわち語・表現と文の区別が曖昧な従来の感覚の表れと見なせる。

(中国 国立華北編譯館 1943年5月)

「井波律子さん『完訳』は謙虚でなさすぎる。『論語』は文学作品ではない。 」 富山マネジメント・アカデミー

2017年03月10日 | 東洋史
 http://blog.goo.ne.jp/toyama0811/e/3f05f4444cb7dd0b948932ae7d5e4f64

 続編ともいうべき「井波律子さん、手抜き工事の第2弾」ともども、おおいに教えられる。ただし100パーセントは同意しない。従来の訓読学(およびそれに習/倣った学風)の、私に謂わせればその最大の弱点であるところの、語・表現のレベルまでしかテキストの読解において注意しない(つまり句読の読までで句〔文〕の切り方については案外無神経な)点を、明確に指摘しているところに留意する。

岡本隆司 『中国の誕生』

2017年03月08日 | 東洋史
 出版社による紹介

 緒論が傑作である。心より同意するという意味においてである。ここで取り上げられる、自身の研究(とその属する分野一般の研究の現状)の抱える問題・不備・矛盾への無関心と無視ぶりという、誰の目にも明らかな知的怠惰を剔抉されるアノニマスな人々は、そこまでの熱意と興味がないのだろうと思う。あればここで実名で挙げられる幾人かの方々のように、何らかの反応(それが支持・批判いずれにしても)を行っている筈だからである。

(名古屋大学出版会 2017年1月)

紺野達也訳 『北京大学版 中国の文明』 5 「世界帝国としての文明<上> 隋唐―宋元明」

2017年03月06日 | 東洋史
 シリーズを通じて、細心かつ最新の編集と執筆内容で、読んでいてとても啓発裨益されるのだが、この巻では、「第四章 科挙制度の発展と新しいタイプの士大夫の出現」の以下のくだりが気になった。

 宋代の士大夫の心の中では、「天下は」すなわち「天下の天下にして、一人の私有に非ざる」(朱熹『孟子集注』巻九「万章章句上」)ものでした。〔略〕その根柢を探ると、彼らのいう「天下」や「天」は実際には「公議」「人心」を指しています。「天下」を胸に抱く士大夫は「天道」や「公議」を旗印に、集団を結集する呼びかけや君主を制約する力として思いのままにみずからの政治的権利を宣言し、国政に参画し、統治しました。 (本書273-274頁)

 本当か? この結論は、宋代士大夫の言行のうち言のみに注意の重心が傾きすぎてはいないか。彼らが口にする理想と彼らの実際が必ずしも一致しないこと、そしてその言も、たとえば朱子によって実際以上にさらに理想化されている事実については、つとに宮崎市定氏の研究がある(「宋代の士風」)。
 そして、この場合、北宋と南宋を一緒にするのは、ことが士大夫に関するから語呂合わせで言うのではないが、議論として大丈夫なのだろうか? いま名の出た朱子(学)以前と以後の彼らの考え方やその基礎となる物事の概念、世界観を同じものと見なしてよいのかということだ。
 そのことに関連するが、彼らの「天下」観や「天」観について、趙汝愚輯『国朝諸臣奏議』を読んでも、彼らの諫言は実際の政治政策上のテクニカルなものばかりであって、皇帝権力の恣意を矯めようとか掣肘しようとかという意図はそこには感じ取れない。そこに、「集団を結集する呼びかけや君主を制約する力として思いのままにみずからの政治的権利を宣言し、国政に参画し、統治」せんとする意欲は感じるが、その理由は彼らの実際的利益の獲得という感がいなめないのである。つまり自分らにも支配者としての権力の分け前をよこせ、振るわせろという話である。この巻が、この箇所で、「天下(天道)」「天」を梃子にしてすこしにおわせるような(もっとも“「天下」や「天」は実際には「公議」「人心」を指しています”と予め断ってはいるが)、万人を、君主すら超越するところの、いわば自然法的な「正義」は、窺うことができないのである。

(潮出版社 2015年9月)

渡辺浩 『東アジアの王権と思想 増補新装版』

2017年03月06日 | 東洋史
 「Ⅳ 西洋の『近代』と東アジア 8 西洋の『近代』と儒学」。
 
 儒学によれば、政治とは、民のために、公共的な「理」をこの世に実現する過程である。 (本書 205頁)

 私の個人的な学術的関心にひきつけてしまったうえでの疑問だが、この“公共”という語について、現代の日本(語)およびその背景となっている近代西洋の概念と、中国・東アジア世界の歴史的な文脈における儒教の(あるいは漢語の)“公共”という語彙のもつ意味とを、より詳しく比較検討したほうが議論が周到になると思うのだが、如何だろう。

(東京大学出版会 2016年12月)