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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

衣笠安喜 「儒学思想と幕藩体制」

2018年09月04日 | 日本史
 奈良本辰也編『近世日本思想史研究』(河出書房新社1965/2)所収、同書15-54頁。

 朱子の朱子学および林羅山の朱子学を「ヨーロッパの中世自然法――トマス的自然法――に比定することは、今日ではすでに通説となっているといってよい」とある(23頁)。これが現在も通説であるとして、従来どうもよく解らない。衣笠氏は、朱子学についてはともかく、羅山学については、異議を唱えておられる。さらに根本的に、ヨーロッパ中世の自然法を、いわば“あてはめて”そこに類似したものを見出そうとする丸山眞男(朱子学)・奈良本辰也(羅山学)両氏の方法の学問的妥当性についても疑問を呈している。


ウェーバー著 木全徳雄訳 『儒教と道教』

2017年12月27日 | 社会科学
 出版社による紹介

 第六章「第二節 自然法と形式的法論理との欠如」と「第三節 自然科学的思惟の欠如」に頷く。というか、基本的な材料を揃えれば、西洋人ならこのテーマを設け、こういう議論を当然組み立てるのではないかと思える。
 あと、訳者がウェーバーの思想を理解するうえで重要だと判断した術語にはすべて訳語の下に原語を併記する形式が取られている。上級者・専門家をも視野に入れての翻訳スタイルだと思うが、すこし読みにくい。

(創文社 1971年9月)

紺野達也訳 『北京大学版 中国の文明』 5 「世界帝国としての文明<上> 隋唐―宋元明」

2017年03月06日 | 東洋史
 シリーズを通じて、細心かつ最新の編集と執筆内容で、読んでいてとても啓発裨益されるのだが、この巻では、「第四章 科挙制度の発展と新しいタイプの士大夫の出現」の以下のくだりが気になった。

 宋代の士大夫の心の中では、「天下は」すなわち「天下の天下にして、一人の私有に非ざる」(朱熹『孟子集注』巻九「万章章句上」)ものでした。〔略〕その根柢を探ると、彼らのいう「天下」や「天」は実際には「公議」「人心」を指しています。「天下」を胸に抱く士大夫は「天道」や「公議」を旗印に、集団を結集する呼びかけや君主を制約する力として思いのままにみずからの政治的権利を宣言し、国政に参画し、統治しました。 (本書273-274頁)

 本当か? この結論は、宋代士大夫の言行のうち言のみに注意の重心が傾きすぎてはいないか。彼らが口にする理想と彼らの実際が必ずしも一致しないこと、そしてその言も、たとえば朱子によって実際以上にさらに理想化されている事実については、つとに宮崎市定氏の研究がある(「宋代の士風」)。
 そして、この場合、北宋と南宋を一緒にするのは、ことが士大夫に関するから語呂合わせで言うのではないが、議論として大丈夫なのだろうか? いま名の出た朱子(学)以前と以後の彼らの考え方やその基礎となる物事の概念、世界観を同じものと見なしてよいのかということだ。
 そのことに関連するが、彼らの「天下」観や「天」観について、趙汝愚輯『国朝諸臣奏議』を読んでも、彼らの諫言は実際の政治政策上のテクニカルなものばかりであって、皇帝権力の恣意を矯めようとか掣肘しようとかという意図はそこには感じ取れない。そこに、「集団を結集する呼びかけや君主を制約する力として思いのままにみずからの政治的権利を宣言し、国政に参画し、統治」せんとする意欲は感じるが、その理由は彼らの実際的利益の獲得という感がいなめないのである。つまり自分らにも支配者としての権力の分け前をよこせ、振るわせろという話である。この巻が、この箇所で、「天下(天道)」「天」を梃子にしてすこしにおわせるような(もっとも“「天下」や「天」は実際には「公議」「人心」を指しています”と予め断ってはいるが)、万人を、君主すら超越するところの、いわば自然法的な「正義」は、窺うことができないのである。

(潮出版社 2015年9月)

守本順一郎 『東洋政治思想史研究』

2017年01月24日 | 東洋史
「補論一 中国封建社会の法と思想 朱子学的自然法の特質」。

 朱子学が、社会過程の認識と自然過程のそれとを統一的に把握する、一つの自然的な思想体系であるということは、いまは一つの常識となっているであろう。 (本書275頁)

 この朱子の自然法思想であるが、ここでは、自然法則としての物理が、社会法則としての道理に従属しており、さらにこの物理でもあり道理でもある理が、人間=個に本来内在している理性=本然の性としても捉えられている。しかし、この社会法則=理性は、実は朱子学によってはじめから与えられている具体的な内容をもつものであって、それこそ五倫=五常といわれるものであり、さらにそれは、中国の特殊封建的な身分論であったのである。
 (本書275頁)

 これはつまり、理=個に本来内在している理性=本然の性=五倫五常=(自然法則を従属させた)社会法則=中国の特殊封建的な身分論ということである。 
 理性とは中国の特殊封建的な身分論なのであるか。そして、その理性が、「実は朱子学によってはじめから与えられている具体的な内容をもつもの」であるとすれば、そこに、人間がみずからの頭脳において思考する余地はないということになる。そんなものは理性とは呼べまい。少なくとも現代日本語の、あるいは現代日本語を使用しそれによって思考する現代日本人が考える“理性”とは、べつのものである。朱子は人間に限らず動物にも植物にも、万物に性が内在すると言った(『宋元学案』巻48「晦翁学案上 語要」)。つまり守本氏の主張に従えば、朱子はこの世の全ての物に理性があるといったわけであって、これはたとえばこんにちの私には了解しがたい主張である。
 さらに言えばだが、「自然法則としての物理が、社会法則としての道理に従属しており、さらにこの物理でもあり道理でもある」世界の自然はこんにちのnatureを濾過した「自然」と同じものかどうかの吟味から始めなければならぬのではないか。「自然法」であるとしても、それは何如なる「自然」の「法」か。

(未来社 1967年9月)

冨谷至 『中華帝国のジレンマ 礼的思想と法的秩序』

2016年09月25日 | 抜き書き
  主権者が定める準則・命令、成文法を絶対とする、これはいわゆる法実証主義にほかならず、人間の善なる性を前提とする自然法とは根本的に相容れない考えである。性善説に縛られず、また天と人との分離を宣言した荀子、韓非にあっては、立法権を有する君主が定める成文法規のみに依存する現実主義、法実証主義へと傾斜すること、理の当然と言ってもよいかもしれない。〔中略〕さらにこのことを言っておこう。荀子から韓非へ、そして秦漢からはじまる律と令、それはきわめて現実的かつ現世的な法規であり、そこには神明は存在しないとも。 (「Ⅱ 中国古代法の成立と法的規範」 本書133頁。下線は引用者、以下同じ)

 荀子の礼論の背景には、自然 (nature) としての天と、人間の性 (human nature) との相関関係の否定があった。礼は自然に人性に備わっているのではなく、外から規範として人為的に創作されたもので、情欲を抑制し、人間を理性的にかつ善なる方向に教化するものとした。
 それは、荀子の教えを受け継いだ韓非の法理論へと踏襲されていく。韓非の法は、為政者が制定した度量衡的基準であり、それでもって犯罪を測り、決められた刑罰を適用するためのマニュアルであった。荀子や韓非の説く礼と法は、ともに人間の放恣な行動を制御し、社会の安定秩序を目した手段にほかならず、両者の違いは放恣な行動を未然の段階で教化によって防ぐか、犯罪が起こってから制裁という形で処理して、そこから一般予防、秩序の安定をはかるかにあった。しばせんは、それをこう一条で説いている。
  夫(そ)れ礼は未熟の前に禁じ、法は已然の後に施す。 (『史記』太史公自序)
 (「総論」 本書206-207頁)

(筑摩書房 2016年2月)


韓相煕 「19世紀東アジアにおけるヨーロッパ国際法の受容」(一) ―(四)

2016年07月29日 | 地域研究
 『法政研究』74-1~4、2007年7月―2008年3月掲載。

 日本・中国・韓国における研究史の整理((一)から(三))と、著者によるまとめ、今後の課題の提示、附・主要関係著作目録((四))。

 著者による三カ国の研究史の特徴は以下の通りである((一)より。F2-F3頁)。

 ①「日本の場合は『国際法が自然法として日本へ受容されたか』という問題をめぐる議論が長くなされてきた。初期には、『自然法』として受容されたという説が『通説』であったが、その後、『自然法』としてではなく『実定法』として受容されたとの反論が強く唱えられ、現在では、『自然法と実定法双方として』受容されたという折中的な見解(ここではさらに、『自然法』と『実定法』のどちらが優位であったかという問題があるが)が支持されているように思われる。〔後略〕」
 ②「中国の場合は、『中国にヨーロッパ国際法を最初に紹介したのは誰か』という問題と、『丁韙良はなぜ「萬国公法」を翻訳したのか』という問題が早くから提起され、長く論叢の対象になってきた。前者の問題は、1980年代後半から「最初の紹介者は林則徐、体系的な紹介者は丁韙良』という結論が支持されることになって一段落し、その後論争の焦点は後者に移っていく。〔後略〕」
 ③「韓国の場合は、『(国際法の受容に)なぜ日本は成功し、朝鮮は失敗したのか』という問題と、『国際法が最初に伝来したのはいつなのか』という問題が中心に議論されてきた。最初の『通説』では、前者については『朝鮮が示した消極的な態度』がその原因として支持され、後者については江華島条約一年後の『1877年』が支持されていた。それ以後の研究では、江華島条約を基準とし、『それ以前』、『江華島条約』、『それ以後』に時代が区切られ、特に江華島条約以前に国際法が伝来した可能性が示唆されるとろもに、『江華島条約』・『それ以後』に関しては、当時の朝鮮は『積極的な態度』を示していたという(従来の通説とは異なる)分析が増え続けている。」

 
 これを一見してわかることは、「『国際法』がどう訳されたかという」点については議論になっていないらしいことである。少なくとも言及はない。
 これは具体的にいえば「丁韙良(William Alexander Parsons Martin)は『萬国公法 (Henry Wheaton, Element of International Law)』をいかに英語から漢語へと翻訳したか」という問題である。これは以上に挙げられた、三カ国においてこれまで論じられた問題と同様に重要な問題ではないかと思えるのだが、いかがであろうか。
 もっとも、この問題がまったく等閑に付されてきたわけではなく、「いかに受容されたか」の問題意識において取り上げられ、研究がなされてきている。これは特に、日本においてであるらしい。
 この長大かつ緻密な論考の著者韓氏は、(一)の「序論」において、日本での『萬国公法』が自然法として受容されたという過去の『通説』に関する検討のくだりで、この点についても周到に触れておられる。具体的には大平善梧氏の研究「国際法学の移入と性法論」の要約・紹介である(F7-F9)。

 マーチンの『萬国公法』に関して、大平は、「我が国に自然法と国際法とを一共にして、公法論として輸入したのは丁韙良の『萬国公法』である。丁韙良は、マルチンの支那名にて、多年支那に滞在し、東洋の事情並びにその思想も理解していたので、特に公法思想を力説した様に思われる。或いは彼自ら自然法論者であったろう。彼の翻訳と原本とを対照して見ると、原著以上に公法論が力強く表面に出ている。」とする。また、「条理と合意の二元論に立つ所のホイートンの折中的立場も、丁韙良の訳文には、性法〔引用者注・自然法〕論が最先頭に出でて、殆ど性法の一元論の如くに解され」、合意(general consent)は公議と訳されたり、慣習(usuage)〔引用者注・usage〕は常例と訳されたりするという。
 (F8)

 この大平氏の議論が正しければ、もともと自然法思想で訳された(原書はともかく)訳書である『萬国公法』を受容することは、即テキストをそのとおりに読解することであるとすれば、日本のみならず中国・朝鮮においても、国際法が自然法として理解され受容されたことになるのだが、のち日本ではそれに対する反論がおこり、韓氏の研究史概観によれば、少なくとも現在の日本においては自然法としての受容という説は「少数派であろう」(F2)という。この指摘が事実とすれば、非常に興味深い。自然法的な概念・語彙・表現とで書かれたテキストを、日本の読者は実定法的に読解したということになるからである。

余英時 『方以智晩節考』

2016年04月30日 | 東洋史
 方以智の「物理」観(倫理原則と切り離して完全に自然法則として捉えている)の由来について、西洋の学術の刺激によるのか、それとも宋明以来の理学と中国の伝統科学の自律的発展の結果であるのかという問いを自ら立てながら、結局、「これは極めて複雑な理論的問題である(此是一極複雑之理論問題)」として(?)、自身の解答を出していない(「三、晩年思想管窺」84頁)。見ようによっては避けているようにもみえる。

(香港 新亜研究所 1972年9月初版、繁体字)

万国公法 - Wikipedia

2016年01月21日 | 抜き書き
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E5%9B%BD%E5%85%AC%E6%B3%95

 『万国公法』の自然法への傾斜は、法が何に由来するのかといった法源についての説明箇所で著しい。国際法の用語には、「性」・「義」といった儒教的なことばが法と接続して使用され、中国人が国際法をより自然法に近づけて理解しやすい構造となっている。たとえば“Natural law”とは現代語では「自然法」と訳すが、マーティンは「性法」という訳語を与えた。この「性」とは、儒教の根本原理「理」のことであって、万物の根元であり法則とされる「理」が、個々の事物に宿るものが「性」であり、人の場合、それは「五常」(仁・義・礼・智・信)という徳目を意味する〔略〕。したがって、当時の人々が「性法」ということばを眼にした時、近代国際法とは(儒教的)道徳と法とが渾然一体ものとして理解され受容されていくことになった。すなわち本来、『万国公法』をはじめとする近代国際法は、国家間の権利や義務を規定するものであるのに、まるで全世界の国々が遵守すべき普遍的・形而上的な規範として理解されるようになったのである。
 (「4.3.2 翻訳について」)

丸山眞男 『丸山眞男集』 第四巻 「一九四九―一九五〇」

2016年01月16日 | 社会科学
 「近代日本思想史における国家理性の問題」(もと『展望』1949年1月号掲載、本書3-24頁)より抜き書き。

 日本における国際法の輸入の過程についてはすでに吉野・尾佐竹博士以来の研究が明らかにしており、ここに反覆を控えるが、その際、丁韙良(ウィリアム・マーティン〔原文ルビ〕)の漢訳によって紹介されたホイートンの『万国公法』が、やがて「天地の公道」とか「万国普通の法」とかあるいは「宇内の大道」とかいう言葉で通用しはじめたとき、そこにはほとんどつねに儒教の「天道」が連想されていた。そうして、人間の先天的に保有する理性のなかに法の基礎を求めるフーゴー・グロチゥス以来の自然法思想――ホイートンはじめ当時国際法学はまだ実定法学としての明確な自覚を持っていなかったから、その基底は直接自然法に連なっていた――は、聖人の道を一方、宇宙の「天理」に、他方、人間の「本然の性」(性理)に基礎づける宋学と、あたかも照応したのである。(11-12頁)

(岩波書店 1995年10月)

八耳俊文 「幕末明治初期に渡来した自然神学的自然観 ホブソン『博物新編』を中心に」

2015年11月01日 | 日本史
 『青山学院女子短期大学総合文化研究所年報』 4、1996年12月掲載、同誌127-140頁

 この『博物新編』という著、「理」や「気」という語を「自然法則 law of nature」「大気 atmosphere もしくは gases」の意味で、というよりも純粋にその訳語として使っているのだが、これで当時の読者(とくに中国の)は理解できたのだろうか。日本の場合、これらの語彙に関しては、江戸の後半期以降蘭学者や洋学者が同じ使い方をしているから、それほど抵抗はなかったとも考えることができる。ただ、福澤諭吉の『訓蒙 窮理図解』(明治元・1867年)が、少なくとも「理」については注釈もなにもつけないという、全く同じ行き方をしている、そしてそれができた、そのことに関し、『博物新編』がわずかだか先に紹介されて、道をつけた後だったからであるのかどうか。