塚本博士頌寿記念会編『塚本博士頌寿記念仏教史学論集』(1961年2月)所収、同書416-430頁。
島田先生は「体」は「身」(根本的・第一性なもの)、「用」は「身のハタラキ」(派生的・従属的・第二性なもの)であり、両者の関係は「相関的に(お互いを)意味すべく用いられている」(429頁)とされた。なるほどこれであれば、私自身の理解(後述)ではやや捉えきれない「中体西用」も、きれいに説明がつく。 現代以前の漢語――というより朱子学における――「体」と「用」との各々は、「本質」と「現象」という説き方をされることもあるが、そういう面もあるものの、より近くは、「形相(因)」「結果」ではないかと私は考えている。「原因」「結果」とすれば、「作用因」を先ず第一に原因とみなす私を含む現代人の耳にはなじみやすいが、体と用には必ずしも時間の観念は介在していない。例えば「中体西用」のごとくである。ただこの場合、中国的なるものが形相因で結果が西洋製の武器や物品というのは話の辻褄が合わなくなるが、島田先生は、根本的―派生的・従属的、第一性―第二性の、西洋式の本質―現象に囚われない枠組みを持ち込むことによってこの問題を解決された。時間の観念が乏しいのは仏教(論理学)由来であると考えれば納得がいく。
島田先生は「体」は「身」(根本的・第一性なもの)、「用」は「身のハタラキ」(派生的・従属的・第二性なもの)であり、両者の関係は「相関的に(お互いを)意味すべく用いられている」(429頁)とされた。なるほどこれであれば、私自身の理解(後述)ではやや捉えきれない「中体西用」も、きれいに説明がつく。 現代以前の漢語――というより朱子学における――「体」と「用」との各々は、「本質」と「現象」という説き方をされることもあるが、そういう面もあるものの、より近くは、「形相(因)」「結果」ではないかと私は考えている。「原因」「結果」とすれば、「作用因」を先ず第一に原因とみなす私を含む現代人の耳にはなじみやすいが、体と用には必ずしも時間の観念は介在していない。例えば「中体西用」のごとくである。ただこの場合、中国的なるものが形相因で結果が西洋製の武器や物品というのは話の辻褄が合わなくなるが、島田先生は、根本的―派生的・従属的、第一性―第二性の、西洋式の本質―現象に囚われない枠組みを持ち込むことによってこの問題を解決された。時間の観念が乏しいのは仏教(論理学)由来であると考えれば納得がいく。