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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

米盛裕二 『アブダクション 仮説と発見の論理』

2018年06月28日 | 人文科学
 出版社による紹介

 アブダクションとは所謂“アイデア”もしくは“インスピレーション”というものを、「なんでそれを思いついたんかはわからへんけど、それで目の前のこれを説明できるやからそれでええやないか」を、「理屈は通らへんけどそれでええやんありにしよ」と認めることであるということが、ようやく理解できた。「ちゃんと説明できてることについてはきっちり検証して確かめてな」という但し書き付きで。

 付けたり。アブダクションというものは想像力、ひいてはその人の創造力に係わるものでもあると私は考えているが、結局、ある人にオリジナリティがあると認められる場合、そのオリジナリティのメカニズムは分からない、分からないから措いて触れないということかというふうにも、この論旨は理解しようと思えばできる。

(勁草書房 2007年9月)

平川祐弘先生の『デカメロン』解説で、アーサー・ウェイリーが用いた・・・

2018年06月28日 | 人文科学
 平川祐弘先生の『デカメロン』解説で、アーサー・ウェイリーが用いた二つの翻訳手法への言及があり、先生ご自身の同作翻訳と俱に大いに裨益さる。ウェイリーはこの対蹠的な二手法を、おそらく対象の性質によって意識的に使い分けたわけだが、それぞれを方法論的に確立させていたのであれば心強い。


木下彪 『明治詩話』

2018年06月20日 | 人文科学
 出版社による紹介

 江戸時代までならかろうじて写しえたかもしれない伝統的な漢詩の文体は、明治を迎えて、いまだ色濃く残る“江戸”を詠うか、漢字を用いた新語をそれが漢字であるという点に縋って取り入れることにより文明開化の新世界を取り入れようとする。だがそれが結局できずに衰退してゆくのは、同じ漢語でも明治の新造語彙は意味とその新義をもたらす原理(=文明)が異なっていたからだという視座と枠組みで、私は全篇を読んだ。たとえば狂詩は狂詩家が作るからそうなるのではなく、たとえ正詩を作ろうとしても、新語彙が全体のなかで木に竹を接いだような具合になって、どうしても滑稽な肌合いになってしまうと。つまり狂詩である。

(岩波書店 2015年3月)

レヴィ・ブリュル著 山田吉彦訳 『未開社会の思惟』 上下

2018年06月17日 | 人文科学
 “融即”と“前論理(的)”の二つの概念は非西洋世界の、しかも歴史的過去を観るさいには、両方が常に必須かどうかはわからぬながら、観点として極めて重要と思うのだが、この筆者にして完全には脱しえていない――書名を見れば判る――西洋中心主義の自覚と反省が、すくなくとも戦中から戦後すぐ生まれの中国学者は、ついに頭に入らなかった人が少なからずいるようだ。西洋をAとして中国を非A(だから優れている)という考え方は、AをAであるという認識で受容する時点ですでに西洋中心主義である。中国にもAの要素はあった(から西洋より遅れていたわけではない、価値が低いわけではない)という議論などもう論外である。

(岩波書店 1953年9・10月)。

「潜伏キリシタンは何を信じていたのか(著:宮崎賢太郎)を読みました」

2018年06月09日 | 人文科学
 「潜伏キリシタンは何を信じていたのか(著:宮崎賢太郎)を読みました」『UchiyamaTakayuki’s blog』

 私も該書を読んだ。同ブログの筆者氏も最初のほうで似たことを仰っているが、私もよくわからないところがあった。だがブログ筆者氏のそれは一種のレトリックで、後半でいわばその種明かしをされるのだけれど、私のほうは、宮崎氏の解釈(潜伏キリシタンの心中に関わるそれを含めて)に、やはりよく呑み込めないものを感じる。“何を”ではなく、“なぜ”に関して。


和辻哲郎 『初版 古寺巡礼』

2018年05月30日 | 人文科学
 注がない。注がないがゆえに柳田国男すら基本受け付けない私のような者が、それよりも思考の目が粗い――客観性(客観世界への関心と注意度)が低いと言いなおしてもいいかもしれない――こちらに我慢できるはずもない。

(ちくま学芸文庫 2012年4月)。

牧原純 『北ホテル48号室 チェーホフと女性たち』

2018年05月27日 | 人文科学
 人に丁寧で優しく親切だが、それが男でも女でも、誰も決してある一定の距離から中へは踏み込めなかったチェーホフの、その謎めいた胸のなかに踏み込もうとした女性達。オーリガ・クニッペルを含め。クニッペルを資質と才能両方において大女優と賞賛してある(154頁)。わが師の評(“チェーホフの劇に出たから名が上がっただけの二流俳優”)と異なるが、ことは審美に属することゆえ、措いておく。
 
 私がロシア文学好きだからだけかもしれませんが、装幀、内容、さらには行間、あの世界の香りに満ちた、とても良い本です。お薦めします。

(未知谷 2006年3月)