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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

何度目になるのか、王希傑『中国語修辞学』(好文出版 2016年3月)を読む。・・・

2018年04月05日 | 人文科学
 何度目になるのか、王希傑『中国語修辞学』(好文出版 2016年3月)を読む。嘘偽り無知ゆえの言い間違いや勘違いその場しのぎのデタラメああいえばこういうの減らず口まですべて修辞と包括するその立場は、本書を漢語の枠を超えて人間の言語一般の“修辞学”をすら指向せしめている。
 そのなかで、“倒喩”とは、レッテル貼りのことだろう(本書404-406頁)。「本体と喩体を逆にする」、つまり通常「本体→比喩語→喩体」となる思惟の順序が、この倒喩では「喩体→比喩語→本体」となる。比喩は未知の事象を既知の事象に擬えて理解しようとする試みの思惟なのだが、これでは最初から結論が決まっていることになる。ほぼ思惟していない。つまりレッテル貼りである。これも修辞だというのである。ここまで来ると修辞とは何であり何のためにありいつどう使われるかということを根本から考え直す必要すら感じさせる。

いったん読了して小一年寝かせていた『中国修辞学通史』シリーズ・・・

2018年04月04日 | 人文科学
 2017年5月3日「李煕宗/劉明今/袁震宇/霍四通 『中国修辞学通史』「明清巻」」より続き。

 いったん読了して小一年寝かせていた『中国修辞学通史』シリーズ(吉林教育出版社)を読み返してみると、巻毎に筆者が違うこともあり、出来の凸凹があることにあらためて気づく。「先秦両漢魏晋南北朝巻」など、古い時代で、史料の不足もあってテキスト自体を十分に読解できないせいもあるけれども、外在的な(=西洋由来の)理解が先行しがちな傾向がある。「隋唐五代宋金元巻」は、「それはなぜかは一歩踏み込んで考えないのか」という個所もあるものの、読んでいてたいへん面白い。隋~宋部分はとくに。史料やテクストのウチノリに沿った丁寧な分析が積み重ねられるのが刺激的である。

大西克礼 『自然感情の類型』

2018年03月31日 | 人文科学
 1980年代に出た、日本文学・比較文学のある碩学の専著に(注)、日本人の自然に対する伝統的感情に関するほぼ唯一の先行研究としてあげられていた。府立図書館に所蔵されているが館内閲覧のみ可のため、中身を確認すべく本日急ぎ行ってきた次第。論の対象は西洋と日本のみで、その対比が全篇の主旨である。中国のそれはまったく取り上げられず、従って分析されることもない。かの碩学は、己の独歩として中国と日本の自然感情の歴史的な対比を行うにあたり、先学の敷いた堅牢な礎石に対し学術的にも礼儀的にも当然の敬意を表したのであろう。

。匿名にしたのはひとえに現在その書が手元になくて確かめることができないことによるもので、他意はない。

(要書房 1948年7月)

中田祝夫/竹岡正夫 『あゆひ抄新注』

2018年03月20日 | 人文科学
 富士谷成章以前の国学者は、そして成章以後の学者も、表記=仮名遣いのそれについてはべつとして、言語そのもの=語法は歴史に変遷するということへの認識にとぼしく(宣長も例外ではない)、たとえば和歌であれば、前後600年の隔きのある二十一代集を同列に扱って用例を引いたりしていると、著者は指摘する。ただし富士谷のみそうでないという(「解説 (四)『あゆひ抄』の記述組織とその語学説 (5)歴史的観察と共時的観察」同書70-76頁)。ではそれはなぜかという問題になるわけだが――。


(風間書房 1960年4月)

井門満明 『「孫子」入門』

2018年03月16日 | 人文科学
 大いに蒙を啓かれた2点あり。

 1)「塞翁が馬」に象徴的に示される(この書では例として使われていないが)伝統的な漢民族の思惟とされる考え方、「正誤善悪はその事物の属性によって決まるのではなくその事物の措かれた状況によって入れ変わると考える=矛盾律の否定」、筆者の表現では「物事には必ず対立的関係をもつ裏があり、表裏は相補作用をなす」(「序説」16頁)という、本書の指摘。
 2) 筆者の『孫子』の世界に対する洞察力。以下のくだり。「孫子は、事に象るべからず、と言って帰納的な理論を排し、度に験すべからずとして法則性を否定した。しかし、人に採ることの裏には、否定した二つの方法が付随しており、それをも含めて見ることによって敵の情を余すところなく知ることができると解すべきである。ここにも表裏相補という彼の基本姿勢は貫かれているわけである」(「序説」29頁)

(原書房 1984年1月)

余嘉錫著 古勝隆一/嘉瀬達男/内山直樹訳注 『古書通例』

2018年03月03日 | 人文科学
 

 古書すなわち中国古代の書物はいかにして成立したか。主に先秦諸子の書物がどのように形成されたのか、その脈絡・環境に即して明らかにする。20世紀の傑出した文献学者のユニークな書。  (出版社による紹介文

 馮友蘭は『中国哲学史』初篇で、「中国の哲学者は実践こそが最重要で、それが叶わぬときに不運のなかでのやむを得ぬ便法として著述をなすのであるから、最初から周到にそれを行うつもりもなければ、他人に懇切丁寧に自説を説こうという気もない。だから論理も行文も不注意となった」という旨の議論を展開している(注)が、本書の余嘉錫はそういうことは言っていないようである。だが、「後人が加筆・編集した部分がある」という余氏の論は、裏を返せば原著者の稿にそれを許容・必要とする疎漏な処があったということを意味する。

 。馮友蘭『中国哲学史 成立篇』(柿村峻/吾妻重二訳、冨山房1995年9月)、同書12頁。馮友蘭の一番最初の『中国哲学史』には鋭い独創的視角と真摯な思索の姿勢がある。

(平凡社 2008年6月)

『科学事典』「帰属過程」項

2018年02月28日 | 人文科学
 https://kagaku-jiten.com/cognitive-psychology/formation/attribution.html

 この項の主題に関連して、蘭千壽/外山みどり編『帰属過程の心理学』(ナカニシヤ出版 1991年3月)を閲読したのだが、帰属を人類普遍の認知機能であると、すくなくとも質・量ともに均質一定のものとして前提してよいのかという疑惑が、この、該書刊行後の研究成果を反映してアプデートされているはずのウェブ事典を見ても拭えない。

「黒い福沢諭吉」をどう理解するか - 池田信夫 blog

2018年02月21日 | 人文科学
 http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/52010280.html

福澤は民権と国権の双方の固有領域とそれぞれ独自の役割を認め、「私」にして「公」にあらざる立国には両方が必要と考えていた。私は福澤全集を平山洋井田進也両氏の研究の導きを受けつつ読んでそう感じ、また認識した。白も黒も(というかそういう価値判断は)、福澤の居るそこには、基本的にない。
 福澤研究の先学の大方が好んで採られる二分法は解りやすいし(論じるほうにも)、俗受けもしやすいだろう。