何度目になるのか、王希傑『中国語修辞学』(好文出版 2016年3月)を読む。嘘偽り無知ゆえの言い間違いや勘違いその場しのぎのデタラメああいえばこういうの減らず口まですべて修辞と包括するその立場は、本書を漢語の枠を超えて人間の言語一般の“修辞学”をすら指向せしめている。
そのなかで、“倒喩”とは、レッテル貼りのことだろう(本書404-406頁)。「本体と喩体を逆にする」、つまり通常「本体→比喩語→喩体」となる思惟の順序が、この倒喩では「喩体→比喩語→本体」となる。比喩は未知の事象を既知の事象に擬えて理解しようとする試みの思惟なのだが、これでは最初から結論が決まっていることになる。ほぼ思惟していない。つまりレッテル貼りである。これも修辞だというのである。ここまで来ると修辞とは何であり何のためにありいつどう使われるかということを根本から考え直す必要すら感じさせる。
そのなかで、“倒喩”とは、レッテル貼りのことだろう(本書404-406頁)。「本体と喩体を逆にする」、つまり通常「本体→比喩語→喩体」となる思惟の順序が、この倒喩では「喩体→比喩語→本体」となる。比喩は未知の事象を既知の事象に擬えて理解しようとする試みの思惟なのだが、これでは最初から結論が決まっていることになる。ほぼ思惟していない。つまりレッテル貼りである。これも修辞だというのである。ここまで来ると修辞とは何であり何のためにありいつどう使われるかということを根本から考え直す必要すら感じさせる。