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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

山田孝雄 『日本文法論』

2016年10月16日 | 人文科学
 語論の要旨は従来西洋文典の範疇を以て説明したる一切の文典を否定せむとて説を立てたり。語性の異なれる国語を西洋文典の範疇によりて支配せむことの非理なることは吾人の研究の結果之を証せり。 (「序論」本書10頁、原文旧漢字、以下同じ)

 句論に至りては直接に人間思想に根柢を有す。人心の現象に大差なしとせば、東西又大差あるまじ。然れども吾人を以て見れば、西洋文典にてはなほ語と文との関係頗曖昧なるものあり。これが故に新に心理、論理等の学に参酌して之が整理を企てたる所あり。 (11頁)

 前段に就きては真に間然するところなきが、後段に就きては所謂血で血を洗うがごとしと謂えずや。心理又論理の学また此西洋の産なり。東西人心の現象の実に大差なからんか。

(宝文館 1908年9月初版、1970年8年復刻版)

蘭千壽/外山みどり編 『帰属過程の心理学』

2016年09月23日 | 人文科学
 帰属過程attribution、あるいはさらに溯って因果関係の認識が、人類普遍の思考様式であるのかどうか。またそうであるとして、ここでの”原因”がもっぱら作用因であることについて、なぜそうであるのかの説明はない。
 前者についてはNisbettによる反証井筒俊彦による反論(こちらは近代以前の非西洋文化圏における)があるし、後者においては中村元の通時的な全否定がある(インド仏教論理学においては作用因ではなく質料因もしくは形相因が原因として認められていること等)。

(ナカニシヤ出版 1991年3月)

張洋 『新疆漢語方言与維吾爾語比較研究』

2016年09月23日 | 人文科学
 原書名:张洋『新疆汉语方言与维吾尔语比较研究』
 百度百科の説明

 「第二章 新疆语言大观园中的奇葩——汉语方言」の、”第一节 新疆汉语的历史足迹”および、”第二节 新疆汉语方言的形成及分片”を、もっぱら読む。  

 第一節の要旨:前漢時代から新疆では漢語が話されるようになり、南北朝をへて唐宋時代には彼の地の藩王ですら漢語を使用するようになった。元明時代になるとこの傾向はますます拡大深化の傾向を進めるが、それを受けた清朝はこの地方での言語政策に意を用い、統治者の言語の通用と同時に現地語の存在にも留意した。この過程において、現地の漢語にウイグル語からの影響(借用語)が見られるようになった。
 第二節の要旨:こうして現在、新疆地域で話される漢語は①蘭銀官話北疆片、②中原官話南疆片、③北京官話片の三種に分類できる由。新疆における漢語話者は867.88万人、全人口の44.03%。最も話者が多いのは①である。

(乌鲁木齐 : 新疆人民出版社 2009年8月)

良心 ― 維基百科

2016年08月25日 | 人文科学
 「良心 - 维基百科」 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%89%AF%E5%BF%83

  良心或良知,是人類辨別對與錯的能力。由於良心的影響,當人類所作的與價值觀不合時,會感到自責。良心也可以視為人類在辨別對與錯時,作為判斷基準的價值觀。

 良知はconscienceか。まあそうだろう。露語のсовестьにウィキペディアではリンクする。英語でconscienceと訳したらсовестьへと繋がるのは決まり切った話ではある。




心 - Wikipedia

2016年08月25日 | 人文科学
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83#.E6.AD.B4.E5.8F.B2.E6.A6.82.E8.A6.B3

 東洋では陸象山が「宇宙は便ち是れ吾が心、吾が心は即ちこれ宇宙」また「心は即ち理なり」として、「心即理」の宇宙の理やそれと一体化した吾が本心を内観によって把握しようとした。 (「歴史概説」)

 陸象山は「宇宙は便ち是れ吾が心、吾が心は即ちこれ宇宙」と述べ、また「心は即ち理なり」として、「心即理」の宇宙の理やそれと一体化した吾が本心を内観によって把握しようとした。王陽明は、心によって理が発現する、とした。これは、それまで朱子学では理というものが客観的に存在するとしていたのに対して異を唱えたのである。心の能動的で主体的な発用を主張する内容であったため、陽明学は心学と呼ばれるようになった。 (「東洋における心の理解」“心学”)

 この意味での漢語の“心”を、西洋のシノロジストが"mind"と訳したのは、理に適っている。

Thinking, Fast and Slow - Wikipedia

2016年08月25日 | 人文科学
 https://en.wikipedia.org/wiki/Thinking,_Fast_and_Slow#Two_systems

  Kahneman uses heuristics to assert that System 1 thinking involves associating new information with existing patterns, or thoughts, rather than creating new patterns for each new experience.

 というわけで、Kahneman他編の"Heuristics and Biases: The Psychology of Intuitive Judgment"を読んでみた。
 システムが異なるのならば、そのなかで働く論理(logicではない)も各々異なるだろう。システム1にはrationality自体が存在しない(logicとともにシステム2の特性)。ヒューム式のreasonはシステム1にはあるが、この定義に従うとシステム2にはないことになる。理性はまさしく情念の奴隷であるか。
 ここまで読んで、池田信夫氏がシステム1と2について言及されていたのを思いだし、確認してみた。

 『池田信夫 blog』「行動経済学の父ヒューム

 少しのことにも先達はあらまほしき事なりという感想。

児玉 聡 「THE SLIPPERY SLOPE ARGUMENT 有効なすべり坂論法とは何か? 」

2016年08月25日 | 人文科学
 https://plaza.umin.ac.jp/kodama/bioethi

 すべり坂論法が論理学の教科書において説明されることはめったにないが、論理学においてはこの論法は誤謬として取り扱われるのが通例である。しかし、D. Waltonが詳細に論じているように、すべり坂論法はその形式によっ ては、たとえあまり有効な議論ではない(弱い議論である)にしても誤謬とは呼べないものもある。すると、実践的な観点からは、すべり坂論法を分類して誤謬である場合とそうでない場合に分け、そして誤謬でないすべり坂論法がどのていど有効な議論として機能しうるのかを考察する必要があるように思われる。


 というわけで、この引用で言及されているDouglas Waltonの"Slippery Slope Arguments" (Oxford Clarendon Press, 1992)を読んでみた。formal logicのfallacyは形式に関するものであるのに対してinformal logicのそれは内容に関わるものである。そして、このWalton著によれば、slippery slope argumentは、informal logicに属する。ならば、fallacyそのものにも二種類を認めるべきであるということになる。
 さらにいえば、validとinvalidの概念も異なるのであれば、formal logicとinformal logicはそれぞれ全く別のものとして考えるべきではないかということにもなろう。後者は前者の特殊形態とか、あるいは前者の誤謬とかといった、負の評価をもって遇するのではなく。

付記。『大学』の「修身天下治国平天下」は、あれも一種のslippery slope argumentと言えるかも知れない。フェアバンクは「連鎖論法」「前提とは関係なく生まれてくるおかしな推論」と呼んだところのものだが。

付記2。古代漢語にはformal logicもinformal logicもないから(古代中国は古代ギリシアではなく、後者の言語と思考から生まれたlogicの概念は存在しないので、当然ながらそのformalもinformalの分もまたない)、これはあくまで戯れ言の類いである。