https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwiQ6-uP-drTAhWEi5QKHdwfAisQFggnMAA&url=http%3A%2F%2Fdl.ndl.go.jp%2Finfo%3Andljp%2Fpid%2F864974&usg=AFQjCNFp_kfUUlvQbyDdI1qqZ_dFNl3rpg&sig2=tGXtsVSesq4z5l9H9vOhOg
中国・日本には断片的修辞論ありて体系的修辞学なしとて採用する方法は西洋の修辞学、その対象は日本語全般、古今東西の韻文散文、つまりは和歌俳句謡曲はもとより漢文訓読体も仮名文も和漢混淆体も江戸時代の戯作文もむろん明治後の新文体も西洋翻訳調もということで、一視同仁こきまぜて、時間空間の区別なく、もう滅茶苦茶である。さらには個人的意見を言うならば、漢文訓読体は漢文、すなわち漢語の一種で日本語ではあるまい。それももし日本語というならば(私もその部分があることは否定はせぬが)、その場合、漢語と日本語の修辞論のひっぱがしが必要になろう。
(早稲田大学出版部 1909年10月)
中国・日本には断片的修辞論ありて体系的修辞学なしとて採用する方法は西洋の修辞学、その対象は日本語全般、古今東西の韻文散文、つまりは和歌俳句謡曲はもとより漢文訓読体も仮名文も和漢混淆体も江戸時代の戯作文もむろん明治後の新文体も西洋翻訳調もということで、一視同仁こきまぜて、時間空間の区別なく、もう滅茶苦茶である。さらには個人的意見を言うならば、漢文訓読体は漢文、すなわち漢語の一種で日本語ではあるまい。それももし日本語というならば(私もその部分があることは否定はせぬが)、その場合、漢語と日本語の修辞論のひっぱがしが必要になろう。
(早稲田大学出版部 1909年10月)