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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

国立国会図書館デジタルコレクション - 五十嵐力『新文章講話』

2017年05月07日 | 人文科学
 https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwiQ6-uP-drTAhWEi5QKHdwfAisQFggnMAA&url=http%3A%2F%2Fdl.ndl.go.jp%2Finfo%3Andljp%2Fpid%2F864974&usg=AFQjCNFp_kfUUlvQbyDdI1qqZ_dFNl3rpg&sig2=tGXtsVSesq4z5l9H9vOhOg

 中国・日本には断片的修辞論ありて体系的修辞学なしとて採用する方法は西洋の修辞学、その対象は日本語全般、古今東西の韻文散文、つまりは和歌俳句謡曲はもとより漢文訓読体も仮名文も和漢混淆体も江戸時代の戯作文もむろん明治後の新文体も西洋翻訳調もということで、一視同仁こきまぜて、時間空間の区別なく、もう滅茶苦茶である。さらには個人的意見を言うならば、漢文訓読体は漢文、すなわち漢語の一種で日本語ではあるまい。それももし日本語というならば(私もその部分があることは否定はせぬが)、その場合、漢語と日本語の修辞論のひっぱがしが必要になろう。

(早稲田大学出版部 1909年10月)

鍋島弘治朗 『メタファーと身体性』

2017年05月05日 | 人文科学
 出版社による紹介。

 メタファーは基本的に人類あるいは諸言語に普遍な概念であり精神作用であり具体的な発現のプロセスを取るらしい。文中、理論は、古代ギリシアから西洋語(主として英語)におけるそれであり、日本における研究は、その継承と発展である。例文は、基本的に英語ついで日本語のそれである。
 日本語におけるメタファーのありかたについては独自にケーススタディとして照明を当てられたりもするが、それはギリシア以来の西洋出自の理論が異言語でも通用するという証明、また例証の発掘でしかない。
 この著の記述するところを観るかぎり、日本語世界における特有のものはなにもないようだ。理論の枠組みにあてはまらないものはとりあげていないという可能性もあるが。

(ひつじ書房 2016年9月)

Holger Diesell, "REVIEW ARTICLES Language, usage and cognition. By JOAN BYBEE”

2017年05月05日 | 人文科学
 https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=7&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwiMuIj82dXTAhVNPrwKHcZfBWEQFghRMAY&url=http%3A%2F%2Fwww.personal.uni-jena.de%2F%7Ex4diho%2FBybee%2520Review.pdf&usg=AFQjCNGL46lZLtarY61fFzV2wAmvN_0Gog&sig2=wRMortAibfGsUsxF-VxZUg

 原著を読んだ。このレビューで紹介・評価されているとおりの本です。

Michael Tomasello, "Constructing a Language: A Usage-Based Theory of Language Acquisition"

2017年05月05日 | 人文科学
 出版社による紹介。

 自分の外国語学習の経験から、そうだと思います。語彙・表現・文実例の蓄積→どうしてそうなるのかの帰納、意味の推定や文法構造の推定→さらなる実例との突き合わせ(もしくは辞書・文法書での確認)による推定の検証→ではこの使い方はどうだという新しい仮説の設定→実際の使用による可否の検証。ここには普遍文法の概念と存在は必要でない。これをトマセロはa usage-based theory of language acquisitionと呼んでいる。

(Harvard University Press, March 2005)

P. イボットソン/M. トマセロ 「チョムスキーを超えて 普遍文法は存在しない」

2017年05月05日 | 人文科学
 『日経サイエンス』2017年5月号掲載、編集部訳、同誌52-58頁。出版社による要旨。
 チョムスキーの普遍文法はもともと、この論文の表現を借りれば一つの“見方”、つまり仮説である。つまり実在を証明できていない。だからSTAP細胞と同じで、「あります」と言っても何の意味もないし、さらにはこれもここで簡潔に概観されるように、議論そのものもそもそも不備(論理的に)なのだが、それでも根強い支持者がいるのは、「年老いた学者が古い方法にしがみつく傾向がある」、つまり信念か面子かほかの何かによるのであって、とにかく研究者の大勢は従来の説の旗を下ろせない。その一方で「それ以外のものがある」ことを示す証拠が新説ともども挙がってきているというのが私の手による要約である。
 一読、「ない」ことを証明するのは無理だから、将棋はよく知らぬが、いわゆる千日手というやつになっているようにも見受けられる。

速水博司『近代日本修辞学史 西洋修辞学の導入から挫折まで』(有朋堂1988/9)『レトリックの歴史 近代日本』(同1995/5)を読む

2017年05月04日 | 人文科学
 明治以前の日本には“レトリック”の概念もその研究の伝統もなく(西洋語の西洋起源のものだから当たり前だが)、明治後の修辞学は、ときに伝統的な漢文の“修辞”学(漢語におけるそれに類似した存在)と折衷させようという努力がみられるものの、総じて西洋のそれの導入と当てはめに終始し、つまり日本語のレトリックもしくは修辞を分析研究しようという見地を欠いたまま、大正時代に至って沈滞するも、昭和の敗戦後、日本語の文法研究方面からの進出、およびあらたに発展をみた文体研究分野の一環として復活するという見取り図。速水博司『近代日本修辞学史 西洋修辞学の導入から挫折まで』(有朋堂1888/9)、および同じ著者による同書の抄出・改訂版『レトリックの歴史 近代日本』(有朋堂1995/5)から得たところの。

王希傑著 修辞学研究会訳 『中国語修辞学』 (再読)

2017年05月01日 | 人文科学
 2017年03月12日同名項より続き。

 面白い。まず文言文と白話文の区別をしないところが面白い。新渡戸稲造の『武士道』を読んでいるかのようである。また、地口の類い(「品詞転換と返源及び蔵語としゃれ」)や、漢字を分解するほかの文字遊び(「拆字と拆語及び釈語と析語」)を、中国語における正規の修辞技法の一つとして数えているところも面白い。さらには、ああいえばこういう式の減らず口やその場しのぎの言い逃れ(「頓跌と曲説」)も、無知ゆえあるいはわざとの誤用や、知ったかぶりのマラプロピズムやデタラメ(「擬誤と存誤」また「象嵌と偏取」)も、立派な修辞技法であるとして数えているところが、とても興味深い。だが一番興味深いのは、弁証法を学ぶことが言語学ひいては修辞学を学ぶうえで最も大切だと総括しているところである(「結語 修辞学と弁証法」)。

 2017年5月11日追記。
 あれからひとつ判った。この書が取り上げる対象として文言文(古代漢語)と白話文(近・現代漢語)の区別をしないのは、文言文は中国の伝統的な修辞論、白話文は外来の西洋(語)修辞学の適用と、大きく二つに分断されている学問世界の情況を反省して、一貫しかつ漢語の内在的な論理と実際に即した漢語の修辞学を打ち立てようとするこの分野の研究者の意思の現れなのであろうと。

(好文出版 2016年3月)