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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

五味文彦/本郷和人編  『現代語訳 吾妻鏡』 1 「頼朝の挙兵」

2018年02月23日 | 日本史
 出版社による紹介

 年月日を日本の年号で記していること、登場人物の官職表記はたとえ唐名を使っていても基本的に日本式であること、さらに登場人物への親疎・上下の感覚が完全に当時の内部関係者である筆者たちのそれであること(これが具体的に現れるのは〔~給〕といった日本語の敬語の使用と、人物称呼の表記法〔~主〕など)から、これは変体漢文それも漢文を書こうと思ったが能力不足で和習が滲み出たものではない種類、と見なせるかとの読後の感想。

(吉川弘文館 2007年11月)


ウィキペディア『古事記』

2017年12月24日 | 抜き書き
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98

 本文は変体漢文を主体とし、古語や固有名詞のように、漢文では代用しづらいものは一字一音表記としている。歌謡はすべて一字一音表記とされており、本文の一字一音表記部分を含めて上代特殊仮名遣の研究対象となっている。また一字一音表記のうち、一部の神の名などの右傍に 上、去 と、中国の文書にみられる漢語の声調である四声のうち上声と去声と同じ文字を配している。 (“1.5 表記”)

 『古事記』の研究は、近世以降、特に盛んとなった。江戸時代の本居宣長による全44巻の註釈書『古事記傳』は『古事記』研究の古典であり、厳密かつ実証的な校訂は後世に大きな影響を与えている。第二次世界大戦後は、倉野憲司や武田祐吉、西郷信綱、西宮一民、神野志隆光らによる研究や注釈書が発表された。
 (“2 研究史”)

齋藤茂ほか訳 『夷堅志訳注 甲志上』

2017年12月20日 | 東洋史
 出版社による紹介

 出版されたときにも冊を開いたが、昨日大学図書館の目立つ展示場所に展示されていたので借りて帰る。原文・校勘・現代日本語訳・訳注というスタイルは、『韓愈詩訳注』とほぼ同じ形式である。その『韓愈詩訳注』では気づかなかったことに1つ、気がついた。訓読を示さぬ場合、訳注が、ものすごい分量にならざるをえない。なぜなら、従来は訓読でいったん不完全ながら日本語に転換された(正確には変体漢文という文言文と中古日本語の中間形態にだが)された段階を抜きにしているので、現代日本語と意味やニュアンスの異なる漢字・漢語はすべて訳注をつけて、その旨を指摘・説明せねばならなくなるからだ。そうでないと、この『夷堅志訳注 甲志上』のように、現代日本語訳が、これは直訳なのか意訳なのか誤訳なのかがわからぬまま、もとの文言文の直解と現代日本語で表された訳解の差異落差の大きさを怪しむことになる。

(汲古書院 2014年7月)

磯貝淳一 「『東山往来』の文章構造 : 書簡文体と注釈文体とを繋ぐ問答形式」

2017年12月18日 | 日本史
 『人文科学研究』135、2014年10月掲載、同誌49-76頁

 冒頭の研究史整理のところで思ったが、変体漢文の文体論をするときは、筆者が何語を書いているつもりだったかの吟味も必要ではなかろうかと。漢文(中国語)の積りだったのか、漢字を使って変体漢文の文体で日本語を記している積りだったのか。あるいはすでに読み下しの形で日本語が筆者の頭のなかに構想されており、それをいわば元にもどして漢文の語順で書いているのか。この三択は過去の変体漢文研究においてすでに提起されているが、さらに私は、可能性として、「変体漢文(漢文でも和文でも漢文訓読体あるいは和漢混淆文でもなく)」を書いている積りだったといういまひとつの選択肢を追加したい。

陸凌霄 『越南漢文歴史小説研究』

2016年08月13日 | 文学
 内容紹介

 一、『皇越春秋』について、『三国演義』あるいはその原型である『三国志平話』の構造にならっているという指摘。(第一、第三章)
 二、だが『皇越春秋』およびここで取り上げられたその他作品の"漢文”(文言文および旧白話文)の文体に関する考察はなされない。それに関連して、古代漢語が正則漢文(文言文)であるか変体漢文であるかを判定する議論はない。(第三、第八章)
 三、『越南開国志伝』の特異な年代表記法(黎朝の元号+干支+元号の年数)についての言及はない。(第五章)

(民族出版社 2008年8月)

峰岸明 『変体漢文』

2016年07月21日 | 日本史
 「第1章 変体漢文の概要」によると、変体漢文は以下の三種に類別できるという。

 ①漢文を書くべく書かれた、漢文体の文章であるが、作成者の能力不足によって、なかに和習を含むもの、
 ②漢文様式を用いて日本語の文章を作成するという作成者の意図のもと書かれたもの、
 ③当初から完成形としての仮名文・漢字仮名交じり文が作成者の脳裏に想定されており、そのための手段として漢文体で記したもの。 (以上、同書16-17頁を要約)

 つまり①は作成者が漢文(中国語)を書くつもりで書いたものであるのに対し、②と③はそうではなく、あくまで日本語として認識され書かれたものだということである。

(東京堂出版 1986年5月)

陳培豊 『日本統治と植民地漢文 台湾における漢文の境界と想像』

2012年10月30日 | 地域研究
 著者の見地と定義によれば、「漢文」とは「伝統的な中国の古文語の文法に従って、作成された文章だけを指」すのであり、「同じ漢字を並べていても文法の異なるもの、例えば、万葉仮名を含んだ漢文及び漢字のみの和式漢文、また日本統治下の」「漢文」などは、「漢文と自民族語が混淆した」「変体漢文」である(「序章 『クレオール化』した漢文への想像と境界」本書27頁)。
 
 従って、本書に現れる「和式漢文」、「中国白話文」、「帝国漢文」、「漢文訓読体」、「植民地漢文」、「台湾話文」、「混成漢文」はすべて「変体漢文」に属する〔略〕。 (同上)

 それぞれが何かを詳しく知りたい向きは、本書を直接に閲せられよ。その手間と時間に見合う価値は十二分にある。
 それにしても、シュメール時代の楔形文字と、それ以降のアッカド語、ヒッタイト語楔形文字との関係を思い起こさせることよ。

(三元社 2012年8月)

『ウィキペディア』「漢文」項 から

2010年03月04日 | 抜き書き
 〈http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E6%96%87

 日本・朝鮮・ベトナム及び中国などの国家・民族は、漢字および漢文を取り入れて俗語の文字記録を開始した。これらの国では、はじめ漢文文明の共通体として書かれているような文法(純粋漢文)で記していたが、漢文とは全く体系の違う自国語の表記にも漢字を利用しようとした。ここで、漢文と自民族語が混交した変体漢文が生まれた。 (太字は引用者)

 20世紀初頭には、中国では魯迅らの働きによって、正則漢文を捨てて話し言葉の文体が試みられた。ここに、現代中国語文が確立した。現代中国語文も、漢字を並べて書くという点では従来の漢文と異ならないが、一種の変体漢文であり、文法的には漢文と大きく異なるようになった。 (太字は引用者)

 ううむ、勇気ある発言だなあ。つまりそれまでの白話文も、変体漢文だってことでしょ? じゃあ、その白話文のさらにもとになった歴代の口語中国語(漢語)は、古典漢文(および文章中国語)とは「全く体系の違う」言語だって認めていることになる。これ、誰が書いたか分かれば、水谷尚子さんのように中国へ入国拒否、強制送還の目に遭わされかねないよ。劉暁波さんなみに危険視されるだろう。