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書籍之海 漂流記

看板に掲げているのは「書籍」だけですが、実際は人間の精神の営みすべての海を航海しています。

Adele E. Goldberg, "Constructions at Work: The Nature of Generalization in Language"

2017年05月11日 | 人文科学
 出版社による紹介。

 数多くの使用例を自らの記憶に蓄積し、そこから原理もしくはルール(つまりその言語の文法)を帰納し、さらにそれを、みずからが「これはどうか」とあらたな語彙を使用して演繹し、実地に使用して周囲により正否を検証されて、新しい使用例を作り出してゆく(=一般化する)という、「当たり前だろ。それ以外どういう手がある」と、言いたくなるような、語学学習の平明な過程と事実とが、いかめしく再確認され、constructionist approachesという大仰な名のもとに、理論として提示されているとしか思えない。

(Oxford Scholarship, Feb. 2006)

氏川雅典 「ペレルマンのレトリック論  『普遍的聴衆』論の再検討」 ソシオロゴス NO.30 /2006

2017年05月11日 | 人文科学
 https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=3&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwiJ0fCg2eTTAhVHvrwKHSm8DBsQFgg6MAI&url=http%3A%2F%2Fwww.l.u-tokyo.ac.jp%2F%7Eslogos%2Farchive%2F30%2Fujikawa2006.pdf&usg=AFQjCNEYt8X2zwwBgUgAhURx1XqOhMqjBw&sig2=lyk5SGyphujKPxMSRWPrvQ

 氏の論考を、カイム・ペレルマン『説得の論理学 新しいレトリック』(三輪正訳、理想社1980/5)を読むうえで導きの糸とした。同著の読後感は、要は西洋世界(広く取っても近代化社会)の「普遍的聴衆」にたいする西洋語(とくにフランス語)の「新しいレトリック」論と「説得の論理学」であるらしいというもの。

ハーバート・リード著 田中幸穂訳 『散文論』

2017年05月11日 | 人文科学
 「書誌詳細|国立国会図書館サーチ」。

 1985年1月刊の第2刷を読む。原題は"English Prose Style"であり、しかも対象は英語全般ではなく「イギリス散文文体」である。著者は、自分はこの著書でその特質を探究するのであって、これから自分が提示するのは“文体”という言葉以外すべて個別具体な例の検討結果である、まちがっても抽象的概念や普遍的法則ではないと、序文の差書に言明している。個別例の具体的な検討に徹しているからこそ、「〈換喩〔メトニミー〕〉は特別な形式の紆説法である。ある観念と結びついたあるものを、その観念の表現に役立つように作り出すのである」という説明(62頁)が、また「〈提喩〈シネクダキー〕〉はいまでもかんたんな紆説法のもう一つの型である。物の一部で全体の表現に資するようにするのである」という説明(同上)が、では日本語におけるそれらに当たると見なされるもの、あるいは類似していると見受けられるものはどうかという思考への、発条かつ一助となりえるわけであるし、そしてゆくゆくは、白砂糖を作るための黒砂糖ともなり得るのではないかとも思える。

(みすず書房 1961年12月)

E. A. ナイダ著 成瀬武史訳 『翻訳学序説』

2017年05月11日 | 人文科学
 ルターは新旧の聖書翻訳において、”じゅうぶん理解されること”を根本原則に、いくつかの諸原則を明らかにしているが、そのなかに、「ドイツ語にうまく対応する語がないギリシア語やヘブライ語」は「削除」するというものがあった(「第2章 西洋における翻訳の伝統」同書21頁)。彼が現実の自身の翻訳においてこの原則をどこまで忠実に実践したのかは私には明らかでないが、これですむなら翻訳者は誰も苦労はしないとは、極東の同業の後進のして思うところではある。

(開文社 1972年3月)