出版社による紹介。
数多くの使用例を自らの記憶に蓄積し、そこから原理もしくはルール(つまりその言語の文法)を帰納し、さらにそれを、みずからが「これはどうか」とあらたな語彙を使用して演繹し、実地に使用して周囲により正否を検証されて、新しい使用例を作り出してゆく(=一般化する)という、「当たり前だろ。それ以外どういう手がある」と、言いたくなるような、語学学習の平明な過程と事実とが、いかめしく再確認され、constructionist approachesという大仰な名のもとに、理論として提示されているとしか思えない。
(Oxford Scholarship, Feb. 2006)
数多くの使用例を自らの記憶に蓄積し、そこから原理もしくはルール(つまりその言語の文法)を帰納し、さらにそれを、みずからが「これはどうか」とあらたな語彙を使用して演繹し、実地に使用して周囲により正否を検証されて、新しい使用例を作り出してゆく(=一般化する)という、「当たり前だろ。それ以外どういう手がある」と、言いたくなるような、語学学習の平明な過程と事実とが、いかめしく再確認され、constructionist approachesという大仰な名のもとに、理論として提示されているとしか思えない。
(Oxford Scholarship, Feb. 2006)
「書誌詳細|国立国会図書館サーチ」。
これは仏語で書かれた、ギリシア以来の西洋と西洋語(とりわけ仏語)の修辞学(弁論術は本来その一部)の歴史と現状である。それ以上でもそれ以下でもない。
(白水社 1986年9月)
これは仏語で書かれた、ギリシア以来の西洋と西洋語(とりわけ仏語)の修辞学(弁論術は本来その一部)の歴史と現状である。それ以上でもそれ以下でもない。
(白水社 1986年9月)
「書誌詳細|国立国会図書館サーチ」。
これは英語で書かれた、ギリシア以来の西洋と西洋語(もちろんとりわけ英語)の修辞学の歴史と現状である。それ以下でもそれ以上でもない。
(研究社出版 1975年2月)
これは英語で書かれた、ギリシア以来の西洋と西洋語(もちろんとりわけ英語)の修辞学の歴史と現状である。それ以下でもそれ以上でもない。
(研究社出版 1975年2月)
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=3&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwiJ0fCg2eTTAhVHvrwKHSm8DBsQFgg6MAI&url=http%3A%2F%2Fwww.l.u-tokyo.ac.jp%2F%7Eslogos%2Farchive%2F30%2Fujikawa2006.pdf&usg=AFQjCNEYt8X2zwwBgUgAhURx1XqOhMqjBw&sig2=lyk5SGyphujKPxMSRWPrvQ
氏の論考を、カイム・ペレルマン『説得の論理学 新しいレトリック』(三輪正訳、理想社1980/5)を読むうえで導きの糸とした。同著の読後感は、要は西洋世界(広く取っても近代化社会)の「普遍的聴衆」にたいする西洋語(とくにフランス語)の「新しいレトリック」論と「説得の論理学」であるらしいというもの。
氏の論考を、カイム・ペレルマン『説得の論理学 新しいレトリック』(三輪正訳、理想社1980/5)を読むうえで導きの糸とした。同著の読後感は、要は西洋世界(広く取っても近代化社会)の「普遍的聴衆」にたいする西洋語(とくにフランス語)の「新しいレトリック」論と「説得の論理学」であるらしいというもの。
「書誌詳細|国立国会図書館サーチ」。
1985年1月刊の第2刷を読む。原題は"English Prose Style"であり、しかも対象は英語全般ではなく「イギリス散文文体」である。著者は、自分はこの著書でその特質を探究するのであって、これから自分が提示するのは“文体”という言葉以外すべて個別具体な例の検討結果である、まちがっても抽象的概念や普遍的法則ではないと、序文の差書に言明している。個別例の具体的な検討に徹しているからこそ、「〈換喩〔メトニミー〕〉は特別な形式の紆説法である。ある観念と結びついたあるものを、その観念の表現に役立つように作り出すのである」という説明(62頁)が、また「〈提喩〈シネクダキー〕〉はいまでもかんたんな紆説法のもう一つの型である。物の一部で全体の表現に資するようにするのである」という説明(同上)が、では日本語におけるそれらに当たると見なされるもの、あるいは類似していると見受けられるものはどうかという思考への、発条かつ一助となりえるわけであるし、そしてゆくゆくは、白砂糖を作るための黒砂糖ともなり得るのではないかとも思える。
(みすず書房 1961年12月)
1985年1月刊の第2刷を読む。原題は"English Prose Style"であり、しかも対象は英語全般ではなく「イギリス散文文体」である。著者は、自分はこの著書でその特質を探究するのであって、これから自分が提示するのは“文体”という言葉以外すべて個別具体な例の検討結果である、まちがっても抽象的概念や普遍的法則ではないと、序文の差書に言明している。個別例の具体的な検討に徹しているからこそ、「〈換喩〔メトニミー〕〉は特別な形式の紆説法である。ある観念と結びついたあるものを、その観念の表現に役立つように作り出すのである」という説明(62頁)が、また「〈提喩〈シネクダキー〕〉はいまでもかんたんな紆説法のもう一つの型である。物の一部で全体の表現に資するようにするのである」という説明(同上)が、では日本語におけるそれらに当たると見なされるもの、あるいは類似していると見受けられるものはどうかという思考への、発条かつ一助となりえるわけであるし、そしてゆくゆくは、白砂糖を作るための黒砂糖ともなり得るのではないかとも思える。
(みすず書房 1961年12月)
出版社による紹介。 3rd editionを読んだ。まさにItroducingな内容である。さらにはタイトルをEnglish Translation Studiesとすべきであろう。
(Routledge, Feb. 2012)
(Routledge, Feb. 2012)
ルターは新旧の聖書翻訳において、”じゅうぶん理解されること”を根本原則に、いくつかの諸原則を明らかにしているが、そのなかに、「ドイツ語にうまく対応する語がないギリシア語やヘブライ語」は「削除」するというものがあった(「第2章 西洋における翻訳の伝統」同書21頁)。彼が現実の自身の翻訳においてこの原則をどこまで忠実に実践したのかは私には明らかでないが、これですむなら翻訳者は誰も苦労はしないとは、極東の同業の後進のして思うところではある。
(開文社 1972年3月)
(開文社 1972年3月)
原題:张少康编『文心雕龙研究』。
CiNiiによる紹介。
ざっと看てとりあえずは返却することに。のちのち要るやもしれず。巻末「20世紀《文心雕龙》研究论著目录索引」そのほか。
(湖北教育出版社 2002年8月)
CiNiiによる紹介。
ざっと看てとりあえずは返却することに。のちのち要るやもしれず。巻末「20世紀《文心雕龙》研究论著目录索引」そのほか。
(湖北教育出版社 2002年8月)