石光真清。
明治元年生~昭和十七年歿
日露戦争のころ日本からシベリアや中国に潜入
スパイとして活動、数奇な運命は人を驚かせます。
石光さんがその人生を手記に残し、子息が整理
出版されたものです。
予め本を考えたものではなく、手記に後から
ご子息が手を加えているということで文として
の弱さがあるのではないでしょうか。
昭和33年龍星閣から上梓、『城下の人』以下4部作
です。
私が購入したのは第6刷、昭和46年となっています。
毎日出版文化賞と帯にありますね。
河盛好蔵、木下順二、中村光夫、臼井吉見、田宮虎彦と
そうそうたるメンバーが推しておられます。
当時はたいへん評判でした。
(写真は箱の背です)
定価が750円、4部作で3000円はしんどい
思いがしました。
大卒の初任給が5万円くらいでしたから。
それでも4部買ったということは面白かったから。
知らない世界を鮮やかな記憶で細やかに再現してあり
興味はつきませんでした。
ところが後年、中公文庫化され、損をしたような
気分になったのは貧乏性からでしょう。
「文庫になるのなら、待っておくべきだったか」
○
4部作め『誰のために』の中公文庫解説が森銑三さん。
それを『明治人物閑話』(また登場です)に載せてあり
本の途中で石光さんに出会って、懐かしい思いです。
『明治~』の中でも石光さんの章の文体は他と違って
います。
当然とはいえ、初出の媒体により文体を変える姿勢は
最近のモノカキに教えたいものですね。
○
若い頃、4部作を読み終えて父に読ませようと
思い立ち、父の元へ小包で送りました。
ずっと激しい喧嘩をしていましたが、社会人となり
東京と広島とに離れて、仲直りを模索していたのかも
しれません。
あるいは単純にシベリアの話が出てくるから親父なりの
読み方もあろう、と考えたのかもしれません。
父親のシベリア体験の厳しさを考えていなかった息子
でもあります。
○
半年後帰省すると、読んでいました。
口もろくにきかない仲でしたが
「お、これ返しとく。
文章は下手じゃなあ」
文章が下手とは思っていなかったし、そんなことしか
言わないのかとムっとしましたね。
今、思うと照れがあったのでしょう。
シベリアのことを思い出したくないのもあったはず。
素直に、面白かった、とかそんな発言ができない世代
だったのですね。
○
久しぶりに本棚の奥から『城下の人』を出しました。
「神風連の騒動が動機となって熊本城下の様子はがらりと
変わった。」
うむ、たしかにそれほど上手じゃありません。
(ほれみい、ワシがゆーたろーが)
○
その年の夏を越しかねて9月、父は亡くなりました。
57でした。(私25)
入院につきそった(別居中の)母を見て、父の子供と
勘違いする人がおられたほど父は老衰に近い容貌だった
ようです。
子供の小遣いまで酒代に代えるような父でしたし
悲しくはありませんでしたね。
○
後年、知り合いが彼の父親と一緒に飲む姿に
一気に涙が出たことがあります。
酒でボロボロになっていたとはいえ
一度一緒に酒を飲んでいれば良かった。
墓に酒を供えても仕方ありませんからねえ。
明治元年生~昭和十七年歿
日露戦争のころ日本からシベリアや中国に潜入
スパイとして活動、数奇な運命は人を驚かせます。
石光さんがその人生を手記に残し、子息が整理
出版されたものです。
予め本を考えたものではなく、手記に後から
ご子息が手を加えているということで文として
の弱さがあるのではないでしょうか。
昭和33年龍星閣から上梓、『城下の人』以下4部作
です。
私が購入したのは第6刷、昭和46年となっています。
毎日出版文化賞と帯にありますね。
河盛好蔵、木下順二、中村光夫、臼井吉見、田宮虎彦と
そうそうたるメンバーが推しておられます。
当時はたいへん評判でした。
(写真は箱の背です)
定価が750円、4部作で3000円はしんどい
思いがしました。
大卒の初任給が5万円くらいでしたから。
それでも4部買ったということは面白かったから。
知らない世界を鮮やかな記憶で細やかに再現してあり
興味はつきませんでした。
ところが後年、中公文庫化され、損をしたような
気分になったのは貧乏性からでしょう。
「文庫になるのなら、待っておくべきだったか」
○
4部作め『誰のために』の中公文庫解説が森銑三さん。
それを『明治人物閑話』(また登場です)に載せてあり
本の途中で石光さんに出会って、懐かしい思いです。
『明治~』の中でも石光さんの章の文体は他と違って
います。
当然とはいえ、初出の媒体により文体を変える姿勢は
最近のモノカキに教えたいものですね。
○
若い頃、4部作を読み終えて父に読ませようと
思い立ち、父の元へ小包で送りました。
ずっと激しい喧嘩をしていましたが、社会人となり
東京と広島とに離れて、仲直りを模索していたのかも
しれません。
あるいは単純にシベリアの話が出てくるから親父なりの
読み方もあろう、と考えたのかもしれません。
父親のシベリア体験の厳しさを考えていなかった息子
でもあります。
○
半年後帰省すると、読んでいました。
口もろくにきかない仲でしたが
「お、これ返しとく。
文章は下手じゃなあ」
文章が下手とは思っていなかったし、そんなことしか
言わないのかとムっとしましたね。
今、思うと照れがあったのでしょう。
シベリアのことを思い出したくないのもあったはず。
素直に、面白かった、とかそんな発言ができない世代
だったのですね。
○
久しぶりに本棚の奥から『城下の人』を出しました。
「神風連の騒動が動機となって熊本城下の様子はがらりと
変わった。」
うむ、たしかにそれほど上手じゃありません。
(ほれみい、ワシがゆーたろーが)
○
その年の夏を越しかねて9月、父は亡くなりました。
57でした。(私25)
入院につきそった(別居中の)母を見て、父の子供と
勘違いする人がおられたほど父は老衰に近い容貌だった
ようです。
子供の小遣いまで酒代に代えるような父でしたし
悲しくはありませんでしたね。
○
後年、知り合いが彼の父親と一緒に飲む姿に
一気に涙が出たことがあります。
酒でボロボロになっていたとはいえ
一度一緒に酒を飲んでいれば良かった。
墓に酒を供えても仕方ありませんからねえ。