アイツと間違うなよな

2012-01-31 19:49:29 | 塾あれこれ
あのねえ、選りによってアイツと俺を間違うか?

とある業者さんが(支店ではエライ人が)
少なくとも十年以上前から私を知っているはずなのに
私を別人と間違えてやんの。

それもイヤミかと思うような間違い。
もしかすると、嫌味、ピンポンかもしれませんねえ。

私は他人には人物譚を言わない主義ですが、
もしかして「いろいでにけり」だったかもしれません。
アイツ大嫌い。
そこで上手に、してやられた・・・


最近、私の塾がモノを余り買わないので冷たくあしらわれて
しまったのかもしれません。

あるいは、当ブログで、そのうち塾をたたむと知り
「なら、煩わしいからチョビっとの注文なんかするな!」
かもしれません。

こちとらヒガミっぽくなってんだから・・
「溺れる犬の頭を叩く」ってやつかなあ。


なぜ嫌いかと言うと、生徒の受験で結果を出せないくせに
いつまでも塾を続けているから。

続いているということは良い処があるのでしょうね。
私なんかよりも人当たりはずっと良いし。

でもね、出来が悪くない(と知る人に言われている)ような
生徒を公立高受験でバタバタ落としてる。

受験だけで金もらう塾も感心しませんが、顧客のニーズとか
その子の将来を考えると広島県の公立高くらいは
通してやってほしいですよね。
いわゆるスベリドメの私立の制服を着てるのを遠くから見ると
可哀そうになります。

いや、公立高が絶対などとは言いませんよ。
人により何が良いかはさまざまです。

しかし多くは公立高に行きたいはずで、それを落としては
いけませんよね。


塾のご事情もおありとは思います。
「それでも収入が必要なんだ」

私に言わせればそれが「生徒を食い物にしてる」って
ことなのです。

だから嫌い。

塾をしている以上、受験生がいる以上、
最低限は、一定程度以上に通さなきゃ。
公立高はおおむね競争率が2倍に達しませんからね。

そんな受験で落とすか。

成績がなかなか上がらず、よく頑張ってでも及ばなかった
なんて子もいるとは思いますよ。
しかし、そうじゃないのが多々いて平気じゃ、ね、困る。


当塾は(前にも書きましたが)今迄の公立高受験で一人だけ
失敗してしまいました。
他は全て合格しています。

伝説が出来る(笑)処をブチコワシてくれたのは、
中学の途中からやってきた生徒です。

どうしても「記念受験」をするというのですね。

学校も止めたと思います。

で、案の定、駄目でした。

威張るほどじゃありません。
若い人の進学塾ならハナで笑うでしょう。

言いたいのは、ラーメン屋で食えるラーメンが出るのが
当たり前なように、塾だと通すのが絶対の前提。

その上での「教育をどうする」。


もしもこの文をお読みの保護者の方がおられましたら
気をつけて頂きたいことがあります。

上記のことを書いているからと言っても
必要以上には合格実績に目をむけないで頂きたいのです。

どういう生徒をどこまで伸ばしたかは当事者でないと
分からないことなのです。

それは言っておかないと、実績ばかりに注意を向ける塾を
礼讃してしまうことになります。

「受験」も「教育」も、『それは当然でしょ』という
スタンスの塾があり、聞けば具体的な話がどんどんと
出てくるような塾が良いのでは、と考えます。

塾と学校

2012-01-30 21:51:22 | 塾あれこれ
おおむね学校と補習塾しかなかった時代が
長く続いたのですが、経済の成長とともに受験も
競争が激しくなり、塾というとまず受験塾が
イメージされる時代に突入します。

私も中学受験のために半年ほど塾に通いました。
昭和30年代後半です。
プレハブに長机を並べ正座して勉強しました。
江戸時代と変わらない景色でしょう。

入試に出る問題をいかに解くか、そこに焦点をあて
学校とは一線を画した授業でしたね。
習字や算盤の塾と似た感覚ではなかったでしょうか。

塾の歴史の詳細な叙述は専門家にお任せするとして
受験技術だけで教育を考えずに済んだ時代です。(多分)
一部の学力が高い生徒が通っていたから、塾も特化できた
のかもしれません。

塾が繁盛するにつれ、受験勉強というものへの視線も
厳しくなります。
また大変に多くの生徒が通うので学校教育と塾の関係が
強く意識され始めます。

昨日述べましたように大きな部分で受験勉強と「教育」が
重なっていますので塾も「教育とは」を考えなくては
ならなくなったのが80年代でしょうか。
もちろん、多くの塾でという話ですから、早い時期から
お考えになっておられた塾もあるとは思います。

学校教育そのものに「制度疲労」が目立ち始めた
時期でもあるようです。

暫くすると学校の一斉授業に問題がありはしないか、と
いう考えが明確に言われるようになります。
西洋から輸入した学校制度は費用対効果を考えて
軍隊式の一斉教育になったからです。
戦後それではついてこれない生徒が目立ち
また逆に伸びる子も頭を押さえられてしまうからです。

家庭教師以外には個別指導がなかった塾の世界に
新しい形が生まれてきました。
(安い家庭教師)と思われたかもしれません。

また、学校でも塾でも同じことを同じ形式で教えるという
非生産的かもしれないありように対する一つの答えでも
あったように思います。


私は「教えない」ということを、どうすれば実効ある物に
できるか、という方向から「個別」に辿り着きました。
塾として使える空間が狭かったのも理由の一つです。


一斉授業にも色々あるように
個別指導にも様々な教え方があるようです。
(近年はマシーンで教える方法も良くなっています)

個別「だから」良い、とか悪いとか
そういう単純な話ではないですよね。

世間では一斉と個別とどちらが良いかなどという
つまらない比較があるようです。

いかにも低いレベルの話で情けない!
多くは自分の塾の宣伝もどきでサモシイ話ばかりです。

受験請負限定?

2012-01-29 15:05:03 | 塾あれこれ
教育でお金儲けをしちゃいけないなら
受験請負で経営を成り立たせる、という塾はどうでしょう。

お金を払う価値があるものを提供し、交換価値(¥)を頂戴します。
文句はなかろう、という話ですね。

できもしない「ひとを大切にします」とか「教育を考える」
などという宣伝文句で客を呼ぶよりスッキリかもしれません。

私なども進学塾に勤めていたころは保護者の方から
「教育?
 そんなものはいいから確実な受験請負を」と言い、
本音は(教育など頼める君らか)とぶつけられました。

私以外にもそんな話を聞いた者もいますし、また保護者の方で
同様の事を考えておられても、仰らない場合も多かろうと思います。

そこまででなくても「まずは受験、差し支えない程度で
教育にも目配り、がありがたい」くらいが多いご意見では
ないかと、勝手に推測しています。

しかしですね、それは、言葉では可能ですが
実際問題としてありうることか。

算数ならば算数の勉強を通して最終的には人間の教育をする
わけです。
算数・数学は数のテクニック、人間教育は別に行うと
いうものではありません。

では通常の教育と受験勉強が切り離せるものか?
それが出来ないとすると「教育」はしないで「受験」を、
というご要望がいかに妙なものか分かります。

重点の置き方が受験教育のほうではテクニックに走り易い
などという違いはあるかもしれません。

そのこと自体が、分離できないという証拠にもなります。

受験請負だから「教育」は考えない、あるいは二の次、とは
言えないのですね。


どんな受験勉強下でも、自らが人間的な成長をなしとげる子も
多くいます。

反対に、証明は難しいのですが、いまひとつ自分の成長を
引き出せなかったように思われる子もいます。
もしかすると受験勉強が足を引っ張ったかもしれません。

受験を一生懸命にトライし、途中であきらめたり
思うほどの成果を得られなかった人の中には
あとあと自己発現に苦労していることも多そうです。

受験請負だから安心して月謝を頂けますか?

目先の受験には効果があるが、できれば止めておきたい
ことを教える、などという局面でどうします?

私にはお金より保護者の思いより、もしも生徒にとって
大切なことがあるならそちらを優先すべきと思います。

お金じゃなかろうと思う次第。

お金を出す保護者に言われて生徒を良くない処へ
追い詰める手伝いはしてはならないのです。

(首つりの足を引っ張る)ことは避けるべきですね。

政治屋?政治家?

2012-01-28 10:14:35 | 塾あれこれ
上になるほどレベルが低い、とも聞きますが
なに、地方議員などでもいろいろいらっしゃるようです。

政治屋でなくても自分自身は土建屋の社長のまま、
一般人を代表するなんて顔で、普段は政治屋の下請け。
「地元説明会」で率先発言したり・・
ゲンパツとか公共工事とか。

こんな社長も一種政治屋の(外延)にあたりそうです。

もちろん政治家にも非常に清廉な方が多くおられ
私が存じ上げる方でも、ただ単にコンプライアンスを
守るだけではなく、李下に冠を正すような真似を一切
されない人も複数いらっしゃいます。

「よおっ」と気取らず言っても本当はエライ先生、
普段は代議士の肩書を一切出さない方とか、
年賀状の端まで一個人を貫く方とか。

反対にすごい例もありました。
(いや大したことではありません、私にはスゴイだけ)

私の同級生のご兄弟が選挙に立候補されました。
選挙運動期間に入る前に事務所を開きますよね。
それが何と我家から数分の場所なのです。

いくら何でも無視できませんから早々に事務所へ
ご挨拶に赴くと、丁度奥様がおられた。
(ヤリテで、有名な方らしい)

「まあ、そこで塾を開いていらっしゃる。
 今後ともよろしくお願いします。
 何年生を?ま~
 そんなご立派な・・これからどんどんご紹介を
 させていただきますわ、ほほほ」

どうやら政治家に近づいておこう、利益でも得よう
というヤカラと誤解されてしまったようです。
もちろん二度と行かない!
馬鹿にするな、ですよねえ。

選挙期間の前とはいえ、あんな発言はOKなのかな?

でも、こんなのが多いんでしょう。

選挙で通りでもしようものなら、名刺から何から
「○○議員、何のたれべえ」を配りまくります。
簡単なメールでも肩書つきです。
(どこがそれほどエライんだか)

またそれを有り難がるヤツがいまして、どこかで
繋がりを持っていたい、それを商売のタネに使いたい
(業界雑誌に寄稿してもらうとか、)
どうもそういう方がこの国では「成功」しやすいようで。

こんなのを書いていたら随分昔の事を思い出しました。

塾長(私が勤めていた塾)が講師一同に、後援会加入の
用紙を配り、表面的で構わないから書いて協力してくれ
と言われるのです。

皆若かったから(30代)一斉に「え~!」

頼まれたと思しき塾長は「カタチだけだから、
塾経営にもイロイロあって・・・」

しかし誰も賛同しないものだから珍しくキレた。

「それくらい協力したってよいだろう。
 もう君らには頼まん」

それでも協力した人はいなかったと思います。
カゲで胡麻摺ったヤツはいるかもしれないけれど。

今の私なら、塾長の気持ちも分からなくはない。
「経営」ということを考えなきゃいけないからね。

自民党系のセンセは「学校はサヨクだ」と思い込み
それに対抗する塾を応援する、という感違いをされている
方がおられるようです。

向こうは商売、塾の側も商売がらみで近づくのがいます。

だから「経営」などに捉われたくないのです。
土建屋じゃあるまいしね。


受験請負の話にまで届きませんでした。
年寄りは話が長いねえ。。

塾が「経営」なんか考えるな

2012-01-27 09:57:32 | 塾あれこれ
教育で金を儲けてはいけません。

子供の人生に関わる仕事をする、そこへ金を
絡めるのは大変に危険だからです。

お金のやり取り=富の移動、は最小限にしておく
必要があります。
お金にひかれて他人の人生を狂わせてはなりませんから。


ここでは叱らねばならないというとき、塾を辞められたら
月謝が減る、という気になり躊躇するかもしれません。
金を一切考えない姿勢が普段から必要なのです。

入試で合格者を増やそうと、本来の教育ではやりたくない
安直な点の取り方を教えるとしましょうか。
その子の将来に響くかもしれないのに自分の利益を優先
させていることになりますよね。

塾のオッサンが自分のために生徒を食い物にする
なんてことがあってはならないのです。

人も雇っているし、やはり経営は少しは・・・という気が
泥沼への第一歩となるでしょう。
人を雇うべきではなかったかも。

もちろんお金だけではありません。
自分の都合、価値観、思想、等を他の人生より優先させては
なりませんね。
自らを厳しく律しなければならないのです。


現代人ですから生きて行くにはお金が必要です。
月謝を頂かないで無償のボランティアをせよという事では
ありません。

何より、無償とすれば教育の厳しさが伝わりません。

低レベルの話になりますが、ただで入試勉強を教わるのと
通常の一定な価格で習うのとは、どちらが成功しそうと
思われますか。


設備などを充実させるには金がいる
経営体としてストックなしという状態はまずい
自分も多少は老後に備えておきたい

・・人情でもあります。

しかし、繰り返しますが、それが他人様の人生よりも
優先させることですか?
第一、世界はこれからどうなるか分からないのです。

足元を一歩一歩生きるだけで十分ではありませんか。
振り返って、続いていればオオモウケ。

「塾は金を無視しましょう。
 それが出来なきゃ、やめちまえ」

座して潰れるのを待つより決断するほうが良いかも。


初めに言うべきことですが、大規模な学習塾は別です。
経営を考えねばならぬでしょう。

だから、教育がいびつになる恐れがあると考えます。
バイトを大勢使いマニュアルで「教育」なのかなあ?

人類が貨幣を発明して以来、一般の人に関わるお金は
八百屋さんで野菜を買う、その程度のものでした。

そんな八百屋さんが「経営」を考えますか?
(入りと出)を見ているだけで十分だった。

そこへ、どんなに小さくても「経営」なんだからと
新しい概念を導入すると、すぐに「経営とはね」と
近代資本主義の世界に引っ張りこまれます。

小さな八百屋さんは別に経営を考える必要はありません。
大根売りながら経営雑誌を読んでどうする?

塾も同じでしょう。
大切なことは目の前の生徒にどう向かうか。

他の塾が何をしていようが、どんな成功例があろうが
チラシがよいのか、ネットか、トレンドは何か
・・そんな知識は不要でしょう。
自分で考え、工夫しなきゃ。
自然に浮かんでこなきゃ「仕事」とは言えません。

業界紙(誌)は好みません。

いや、金に目が向く分だけ有害かもしれませんね。


では、割り切って、受験請負塾ならばどうか?
受験請負で金を頂く、気が楽かもしれませんが。

(文章を削り損ねました。長いね。
 明日、続けます。)

『カーネーション』脚本

2012-01-26 18:37:21 | 見る
『カーネーション』素晴らしいですね。

一つの朝ドラにこれほどコメントをするのは
私としても空前絶後。
控えようとは思うのですが。。。..

今日は脚本を書いておられる渡辺あやさんの話。

とはいえ(私がこう思う)というだけなのですがね。

いやあ、巧い方です。渡辺さん。
これほど面白いドラマが出来あがっているのだから
今更申し上げるまでもないけれど。

例えば、フリンですね。

朝ドラ、それも今回のような、明るくて泣けるもので
「そんな娘いねーよ」ではない普通のオバサンで、かつ
勇気を沢山もらえる、バイタリティーあふれる主人公に
フリン(イメージが暗くドロドロしやすいですよね)
というのは、どんな処理をしてどんな調子になるのだと
期待半分、懸念半分でした。

(以前ラジオでコシノヒロコさんだったかが
 おかーちゃんのフリンについて触れていました)

予想を遥かに上回る展開です。

コミカルに描きつつ、純愛ぽく
現実の重みも踏まえて、なるほどと納得させます。
べたべたしないのが良いですね。

コンドー組合長が重要な役割を演じました。
「生きるということなんや」「それでええんや」
納得できますね。
しかも深刻にならず。

彼がそう言う背景を人物描写として予め振っておかねば
なりませんね。
説明調だと旧来の朝ドラになるので伏線の張り方が
難しい。

遡ると、彼が初めて登場してからずっとあのシーンのための
「組合長作り」であったようにも思われるほどです。

繰り返しますが、脇役の人物描写を下手に細かくすると
妙~に人の良い、甘ったるいものが出来あがります。
ストーリーに上手く組み込まねばなりません。
そのあたりも大変なウデですね。

組み立てているぞ、と感じさせないのです。
自然に話が進みますから。

ほっしゃん。も上手く描かれています。

(後日譚がありそうな気もします。
 そのために「毒気を抜いてある」ような・・・)

「アリだよなー」というのが渡辺さんのすごさです。

ほっしゃん。で言えば毒気を抜かれた朝、目覚めている彼
の傍を子供が走りますね。
腕枕の伸ばした左手の先をばたばたと(遠慮して)走る子。
しみじみと「好」・・でした。


どうも、夫の死が軽めな感じをうけていたのです。
たぶんフリンとの関係なのでしょう。今分かった・・・
(余りに重い死だと、フリンが合わなくなるはず)

こんなところにもバランスのよい構成力が見えますね。


将来は、より突っ込んだ面白いものを書いてくれそうで
今から期待しています。


今から思うのですが、終わったらサビシイでしょうねえ。

テオ・アンゲロプロス、映画の最後の巨匠

2012-01-25 14:31:53 | 映画
たぶんテオ・アンゲロプロス以降には
映画の巨匠は生まれないでしょう。

それほどの大きな監督が亡くなった。

次回作を待っていたのに。


今、自分のブログを見ると昨年の2/3と2/6に彼の作品
『エレニの旅』について書いています。

もし一見難しそうな映画でも構わないと言われる方が
おられましたら、是非、ご覧ください。
そしてできれば井上が、どう書いているか上記を
読んでみてくださいね。

わりと一生懸命書いたのですが(あの程度で・・?)


『旅芸人の記録』を岩波ホールで見たときには
ぶっ飛びましたねえ。

『アレクサンダー大王』『シテール島への船出』
『霧の中の風景』『こうのとりたちずさんで』
『ユリシーズの瞳』・・・

名画ぞろいです。


創造主に(異議申し立て)をしていた、と思えます。
つまりそれほど、信じていた。

人間存在への深い疑念と執着があった人です。
冷酷に真実をみつめ、突き詰め、最後に立ちずさんで
しまった人です。
涙も出ないところから映画を造り始めるのです。

だから我々はどこかで救いを得ます。

カミユの小説を読むように。


ふいに途切れて寂しい。

まるで彼の映画を見ているようです。

出来が悪い知事だね

2012-01-25 10:21:20 | 塾あれこれ
『海知らぬ井戸の蛙がゲロゲロと』

『平清盛』
今まで見た限り期待が持てそうにありません。

悪口でも書こうとネタのストックにしていましたら
どこやらの県知事が妙なことを口走ります。
あれと同レベルに思われるかとケナシにくくなっちゃう。

きっと近隣の知事のマネをして、マスメディアに出たい
そこが的外れになっちゃったのでしょう。
ただ刺激的なことを言えばよい、ってもんじゃないのに。

あまりアホだと兵庫県民が恥ずかしかろうと思うのですが
「よくぞ言った」と思う県民もおられるのかなあ?

もともと政治家には期待していないか?


発言に対する一般市民の反応はごくノ-マルです。

「海が真っ青じゃなきゃ」発言には呆れすぎて
みんな無視をしているようですね。
NHKも言うことがなくて困るでしょう。
湯崎もだまってりゃマシなのに、バカですねえ。

『龍馬伝』のときに三菱が嫌な顔をしたのとは
レベルが違いますね。
あれも、お門違いというか料簡が狭いというか。

しかし県知事が幼稚園レベルには参りますね。
幼稚園生に叱られるか。
「海は真っ青」は幼児なら仕方ないか、程度。

海が青くないから瀬戸内海らしくない???

海を見たことがないのだろうか・・
神戸港のタワーから見た海は青くなかったぞ。
それでも光で移ろい綺麗だった。

マスメディアが面白おかしく、からかっているのにも
気づかないセンスで選挙に勝てるとはねえ。

それとも捻った形のネガティブ・キャンペインかな?


人それぞれですから、とあるドラマがピンとこない
というのはよくある話です。
自分の皮算用と合わなきゃ頭にもくるでしょう。

そこをユーモアあふれる評言で伝えるのが大人ですよね。

実は私も『平清盛』は感心しません。
(『龍馬伝』の安易な焼きなおし)

けれどそれを書くにはハードルが高くなってしまった。

共感力が増す

2012-01-24 18:51:50 | 塾あれこれ
わずか半径3mほどの川の浅瀬あたりに
シロサギ、アオサギ、ウ、鴨、セキレイ、カラス、雀
遠目で見てですから、もっといたかもしれません。

小雪の舞う河原にほとんど動かずにいました。

振り返れば遠山に陽が射し、山のあたり一面に今
パウダーシュガーを振りまいているような景色です。
雪が舞っているのでしょう。

虚子に『遠山に日の当りたる枯野かな』という名句が
ありますね。
冬の低い雲は流れ、絶えず日が射す場所を移ろわせます。
遠山に日が射す瞬間を詠んだものでしょう。

川土手から見る極楽寺山などからカメラを東にパンすると
五月ケ丘の方向になりますが、直接は覗えません。

けれどもその辺りもきっと雪に違いありませんね。
己斐から低い峠を一つ越えるだけなのに(雪国)!

寒がりのオフクロがよく住んでいたものですねえ。


晩年、ニュースなどで可哀そうな人が出てきますと
よく涙ぐんでいました。

確かに可哀そうではあるけれど何百キロも離れたところでの
赤の他人の身の上です。
何も泣くことはない。

ところが近頃私が似てきつつあります。

もともと涙腺は弱い。加齢で、こらえる筋力が落ちている
そういうこともあるかもしれません。

映画館で大泣きする(カミサンの嫌うこと・・)のはきっとそれ。

それだけでなく、遠くのニュースが他人事と思えないことが
あるのです。
もしもそんな立場だったら・・・

しみじみと可哀そう。

老人になると(共感力が増す)ようですね。


老いた母親が娘さんを殺すという事件がありました。
(近頃珍しくもない・・・)

お母さんが80をかなり過ぎ、娘さんが60いくつ。
その娘さんは幼いころから寝たきりだったらしい。

きっと半世紀以上に亘る看病、世話、そして将来への不安
そこからの事件だと思われます。

半世紀、可愛いわが子の世話をし続けて最後に自らが
その命を絶たねばならぬ80を過ぎた母親・・

何という悲劇。
涙なくしては聞けないニュースです。

そんなことに驚かなくなった私たち。
情けない国だとつくづく思うのです。


母が生きていたら涙するでしょう。
そこにいる私もね。


『年寄りてTV見て泣く親子なり』(笑)
・・五七五になってるようだね

政府を信じられるか

2012-01-23 18:27:25 | 塾あれこれ
このところナショジオが面白くなく
DAYS JAPANが快調に思えます。

DAYS 2月号のメインは「原発事故報道・検証」

30頁以上の報道資料が載せられています。
ほとんど活字でびっしりとした構成です。
これで3/11~12の二日間ですから、かなりの量です。

勿論TWITTERやブログにまできちんと目配りされています。
マスメディアの「大本営発表」に比べ私的な情報に
信頼できるものがあったという事実の一端が見えます。

大変な作業と思いますが、これこそがジャーナリズムの
原点と思われる報道です。

野球やお笑いを武器に国民への現状追認の「刷りこみ」を
謀る大新聞社たちとは正反対の立場でしょう。


NHKの日曜深夜のニュースで、原子力災害対策本部の
情報公開を求めた処、議事録を取っていなかったことが
分かった、と報じています。

何を今更、と仰る向きもおありだとは思いますが
ともすれば大本営発表になりやすい「ほぼ国営放送」が
このニュースを流すことに意味があります。

追って、産経新聞も報じているようですね。

深刻な法律違反であるということも重大ですが
一連の政府の仕事を見ていると、どう考えても意図的に
行っているとしか思えません。

千年に一度のことでミスはあるかもしれません。

しかし、それを隠してしまうという(民主主義の破壊)は
自民党政権から延々と続いていることで、つまらぬ政治家の
クビを挿げ替えただけでは事態を悪化させただけだった・・

経済界もマスコミも学者も、会社勤めの(実質小役人も)
みんな固まって泥沼に落ち込んでいるようです。
だから日本がダメなんです。
円高とかウオン安とかは副次的な要因。


毎日新聞によると昨年夏の電力不足の大騒ぎにも
民主党などによる大きな情報操作があったようです。

フクシマを受けた『原発は不要だ』という世論を止めるため
「原発がすべて止まると電力不足で大変だ」という
シナリオを政府などが推し進めていたのですね。

ワケ知りのサラリーマン等が飛びついたのは記憶に
新しいことです。
原発反対派は感情論だ、現実を見ろと。
「原発抜きでエネルギーが足りるなんてタワゴトだ」ってね。

理が全くないこととは思えません。
しかし基本の情報を一手に握る側がこれでは
その理すら怪しげに見えてくるではありませんか。


実はこんなことは昔から山ほどあったハズです。

証拠があるか、などと鉄面皮を決め込んでいたその一部が
上記のように化けの皮が剥がれているのです。

とても大きな事だったから隠しきれないというのが
本当のところでしょう。

つまり、現在、事の推移を見、従来の推察や論理を重ねれば
本当のことが見えるチャンス。ラストかも。

ここで目が覚めなければこの国から民主主義が駆逐されます。

今上天皇が深く哀しまれるに違いありません。