何が当たり前か、で見えてくる

2006-07-29 10:51:52 | 教えない
先日、T君からコメントをもらってました。
当ブログの存在をこちらから連絡した数少ない一人ですのでご返事
をきちんと差し上げねばならないのですが、難しい問題で・・

仕事とは悩むと同義語かもしれません。
作業ならば悩みは少ないでしょう。

悩めば揺れます。当たり前ですね。
ただ、揺れる場合に、ベクトルが見えていれば、そして大きな逸脱
がなければ、揺れることは構いません。
いや、揺れるべきかもしれないのです。

「揺れない仕事」=「恋愛のない結婚」・・・ン?

悩んで方向性もなくただバタバタするのがまずいのです。

教える、教えない、は相反することではなく、程度の違いとも言え
そうです。正しいアプローチは似てくるものです。
トルシエもジーコも同じ事を言おうとしていたのかもしれません。


「教えない」世界を知らない子の多くは、これくらい、という問題
でもワカランといいます。すぐにワカラン。「分かるように説明し
ないそっちが悪い」と思っているようです。
大人もいけませんね。「そうか、ワカランか。ぼくの今の教え方が
悪かったね、え~と、どう言えば分かってもらえるかなあ」
優しい方ばかりですね。
結果が最悪、にむすびつく「優しさ」かもしれないのに。

「教えない」やりかたでは、意識して救いません。
聞いてこなければ絶対にこちらからは教えない、と分かってもらう
必要があります。こちらも意思を強く保たねばなりません。
けれども相手への接し方は厳しすぎてはいけません。

繰り返しますが、ある程度の信頼関係があって出来ることです。
どうして「教えない」のか予め一定の説明も必要です。
ただ、それで納得してくれているかどうかは難しい。
ご家庭での何気ない一言も効き目があると思います。

教えない、に慣れてきた段階での話ですが、生徒が間違えた場合に
「ちがう」の一言しか言わないときもあります。それ以外の説明は
せず、やり直させます。次にまだ違っていても「違う」の連発。

「教えない」ということで反発してくれれば、成功です。
今の子供は反発することすら内にこもりますから。
でも、さすがにどうしようもなければ、そこから少しずつヒント。

◎以下、羅列になると思いますが、

安易に褒めてはいけません。
褒めるならば当人も納得できるタイミングでなければ、メリハリが
効きません。甘くなりすぎることをおそれましょう。
逆に褒めるべきところは小さな事でもキチンと褒めましょう。
褒める段階をいくつ持っているかが、教える側のスケールの大きさ
を示すことになるでしょう。

普段褒めない人にほめられると嬉しいものです。
ただ、世の中がみなオオゲサに褒める時代になっています。時代後
れの感がある私はどうもやりにくい。

(またエイギョウに反することを書いていますね)


キミならこれはできるよね、という「教えない」もあります。


教えなければ、行き詰まると必ず質問してきます。
そこですぐ教えてしまわない。
できれば、何処まで何をどう考えたか、訊きます。
もちろん、ほとんどが上手には答えられませんが、聞いてゆく中で
こちらにその子がよく分かってきます。
逆に「そう考えるか」と勉強になることもあります。

よく聞けば相手の行詰まりが分かる事も多いので対策を打てます。
すぐに教えてしまうと、解決すべき問題点がうずもれてしまう恐れ
があります。


目をつぶってマルという「教えない」もあります。教えすぎない!
大体あってるけれど、できれば言っておきたいこともある、という
ことはよくありますね。

相手の状況により、指摘したいことには目をつぶり、マル!

小さな例で、漢字が苦手な子がいるとします。やっとおよその形を
覚えたのにトメハネが不正確、こんなときはマル。トメハネで違っ
ていても言及しない。つまり人により状況により採点基準が変わる
のです。
やっと覚えたのにトメハネまで煩く言われたらまた「やる気」が失
せるかもしれません。混乱が直らないかもしれません。
目をつぶって「マル!よくできた」というべき時もあるのです。

いまその子がどういう段階か、それによって優先順位をいれかえ
ダメ出しも時により変化させるのです。

目をつぶった「出来た、マル」は大きな声になってしまいますね。

(「当たり前」の話、次回に続きます)

当たり前、は家庭から

2006-07-28 11:19:01 | 教えない
勉強を進めて行くときに大切なことの一つに、その人には何が
「当たり前」であるか、ということがあります。

その大元は家庭教育にあるようで、兄弟を見ていると共通している
ことがよくあります。多分保護者の方も「当たり前」と思っている
ことなのでしょう。
それでご家庭では兄弟でも違いのほうに目が向くのですが、そちら
よりも、この「当たり前」の感覚が大きいのです。

これは保護者、親戚など周りが教育するのですが、「当たり前」の
ことだけにほとんど無意識にちかい感じで教えているのです。
親の背中で教える、のもそんなところでしょう。

「当たり前」の違いとはどのようなものかと言いますと
ある生徒が「宿題はしなくてはいけないもの」と思っていれば
別の「宿題は適当に」という生徒とは力の差がついてきます。
シンドイ時があっても「当たり前」だから宿題をやるのです。

「計算は合うのが当たり前」の子と「けっこう合わないもんだ」と
では集中力が違ってきます。
漢字でも、いったん習ったものを忘れて「まずい」と思うかどうか
で定着率が違ってきます。

塾や学校でも気をつけているはずですが、言葉で教えて、では心に
届き難い。ましてや、渋々しかたなく、などでは当たり前の反対。

結構タイヘンなことでも、当人にとってそれが「当たり前」であれ
ば心理的な負担が少ないので、努力できるのですね。

進学塾では「受験生ならこれくらいは当たり前」という気持になる
ようにもっていきます。集団でそうなれば強いですね。個人塾では
それがやりづらいので、受験においては、正直なところ、弱いです
ね。それを別の所でカバーできるかが、塾の力の見せ所ですが・・
ここから先はマル秘。第一志望校に通っていない子もいますから
大したマル秘でもないのですが、いずれ機会があれば書きます。

それはさておき
「教えない」も「当たり前」になればよいのです。
生徒にとっては、大人が思うほどシンドイことではありません。


近年、家庭でほとんど料理をしなくなった人が増えたように、家庭
での教育が少なくなった、という話を聞きます。
それが当っているかどうかは、私に確認できることではありません
が、家庭の教育観が多様化していることは間違いないようです。

家庭の教育力について、これも狭い範囲の見聞きだけの話ですが、
少なくとも、私の塾のような、ハナからシンドそうな塾に行こうか
という生徒やご家庭では問題はないでしょう。
「勉強だから、多少シンドイのは当たり前」と思っていらっしゃる
ハズですから、そこからスタートすれば、ご家庭の教育観にそって
進めていかれて問題は出てこないでしょう。

冗談ですが、次のキャッチコピーはどうでしょうか?
「井上に行く気になれば大丈夫」
ちょっと誇大広告になりますか?ええ?逆効果・・そうかも。

ところで
塾を始めた頃はさすがにイマヒトツというご家庭もありました、
「塾にお任せ」と、あり難いお言葉ですが、家庭では何もしない
ということだったのです。そのケースでは。
結局、数ヶ月しか続きませんでした。私も反省です。

もしかして「子供の自主性を尊重する」という言葉での責任放棄
もあったかもしれません。
大切な考えですが、正しい実行が難しいものですよね。
でも難しいといっても皆様にお願いしていることでもあります。
私が知るおよそのご家庭ではうまくいっていますので、あまり
神経質になられる必要はありません。
上記は私が以前出会った極端なケースですから。




いったん、まとめ

2006-07-27 10:14:24 | 教えない
「教えない」は現代向きではない?
う~む、そうかもしれません。

でも、逆にそういう時代だからこそ必要ともいえます。
differentiation(差別化)にもつながります。

とある時代の教育のあり方は、その前の時代の影響を色濃く残して
いるハズです。時代が変わったといっても人間は引き続き、生きて
いってますから。

明治になって日本が西洋に追いつけと発展する要因のひとつに人々
の教育レベルの高さがあります。それは江戸時代の寺子屋教育のレ
ベルの高さを地盤にしたものであったはずです。

きちんと勉強する姿勢があったところへ、人々を平等に教える社会
の仕組みができあがり、封建社会から解き放たれた明るさがエネル
ギーを与えたのです。

もう一つ、それに似た発展期が第二次世界大戦後の日本です。
戦前からの、勉強の姿勢としては地に足がついたものとして完成し
ていたところへ、学校制度が改革されてより多くの教育機会が与え
られ、そこに戦後の自由な希望に満ちた社会の空気が上昇気流を
生んだのです。これが現在の日本の経済繁栄に直結しています。

私は戦前の教育の軍事的な部分や、儒教的な抑圧の強い空気は苦手
ですが、戦前の教育の全てが悪かったとは思いません。

むしろ、その影響が薄らいでゆく80年代以降に問題が多く出てき
たことを考えるべきでしょう。遺産を食いつぶした感があります。

私たち団塊の世代やその下の世代までは、戦前からの教育の長所と
戦後教育の長所とを合わせて受けた世代ではないでしょうか。
そして、遺産を食いつぶした世代でもありそうです。

もちろん、両手を上げて戦前バンザイではありません。江戸時代も
明治から昭和前期も教育に問題はありました。
クールに見れば良いところ「も」あったと思うのです。

昔からのものは古臭くて現代には役立たない、ということはありま
せん。連綿と受け継がれ磨き上げられてきた考え方、やり方には
宝物が沢山埋まっています。食いつぶしかけている遺産を見なおし
時代へ繋ごうという意識が「教えない」なのです。
(大きくでましたね)

明治の初期、大学の講義は外国語で行われ、当時の学生の語学力は
素晴らしいものがあったそうです。先達は英語でベストセラーを書
いていますよね。その彼らの学力の礎が素読に代表される古来の
学習だったのです。
漢文の勉強をしたから英語ができる!
文法の共通点、などというより勉強の姿勢づくりが大きかった。


「教えない」は姿勢作りを重視しますが、それ以外にも長所があり
ます。
苦労して勉強する分、つかんだ内容を脳に刻みこめるのです。

本当に理解できているか、納得したか、使いこなせるか、自分から
応用にすすめるか、、こんなレベルをしっかりさせるのです。

すぐに教える方が、取り敢えずは解決が早いでしょう。
ただ、自分できちんと刻み込んでおかないと、混乱、剥落・・・
暫くたってみると、結局何も出来ないという人も多いのです。

一見、時間がかかりそうな「教えない」が結局早いのです。

中学生で塾に週2回くる子であれば、学校より先にゆきます。
古いけれど「急がばまわれ」かなあ。

ピンチを救うのは

2006-07-26 08:33:50 | 教えない
8/22に塾とは、学校サイドのエラーで得点している
存在かもしれないと申し上げました。
内緒話ですが、○○学校は教え方がうまくないから
ウチは飯が食えてる、なんて話も聞きます。

でも昨今補習塾が流行らないということは学校が盛り
返してきたのかもしれないですね。
塾あやうし!

生徒人口の減少、指導要領の変更、学校の手厚い指導
体制、教育法の進歩、など学校も進化しているのは
事実です。

また地域の経済情勢や、業界のあり方、などから塾も
経営において、勝ち組・負け組がはっきりしてきつつ
あるのですね。

塾に限らず、たとえばレストランなどでも良心的な店
で苦戦しているところが増えているそうです。
従来は、良い仕事さえしていればお客さんは来てくれ
たのに今はそうならなくなってきた、と言われます。

塾の話に戻りますが、学校が盛り返してきたならば塾
も自分の利点を活かして勝負しなければなりません。
学校にできないことをするべきですね。

(以下、希望もこめて)
学校教育に出来ないものが
「個別指導」と「教えない」なのです。
私は塾が取り組むことはこれだと思います。

小人数指導はいずれ学校でも普通になるでしょう。
個人指導も同じで、個人別の受験対応も可能です。

言葉は似ていますが「個別指導」はどうでしょう?
人によって学習進度が違うのは、学校のタテマエに
あいません。従来の進度でいうと何学年も違う勉強に
は対応できません。習熟度別でお茶を濁すくらい。
(話をハショリます)

「教えない」はさらに無理でしょう。
教育原理に関わることですから。

受験請負、ということの中で大きくなった「塾」です
が受験だけでなく教育の可能性を膨らませてきたのです。

明治から始まる近代的学校教育に対し、塾が持ちうる
手段として長い歴史を持った物を持ち出すのです。

これは「古ぼけた昔の方法」ではなく
「伝統に裏付けられた方法で、現代の教育の効率優先
に欠けていることを補うもの」です。

ただ、「教えない」は現代の日本では難しい手法なの
です。例えば・・

厳しく接することとイジメることが混同されそうです。

能動、受動、両者の場合で言えそうですが
厳しく接しているつもりでも、じつはイジメになって
いたり、反対に厳しく接しられた生徒がイジメられて
いると感じたり、という恐れがあります。

信頼関係ができた上で「教えない」を始めるのですが
それでも難しいところがありますね。
むやみにはお勧めしづらいところです。


はじめまして

2006-07-06 10:40:10 | 塾あれこれ
広島市、自宅の一室で超ミニ塾を開いています。

この地域では名の知られていた進学塾で20年近く働いていました。
その前はふつうのサラリーマンです。

気がつくと結構よいトシになっており、あえなくリストラ
何も出来ないので、自宅で塾というナサケな~いパターンです。
おもてむきには「したいことがあるので独立」なんて言ってますが
どーだか。

それがガラにもなくブログというのは
超ミニ塾だからこそ言える「ホンネに近い話」があるだろう、と
思うからです。完璧なホンネではありません。それはヒ・ミ・ツ。

まずは「教えない」ということから少しずつ書きます。
お暇なときにでもお読みくださる方が、もしも居てくだされば、
幸せです。