埴谷雄高の本・比較

2008-05-31 11:10:21 | 塾あれこれ
河出書房新社が1971年から『埴谷雄高作品集』を
刊行しています。
第一回はもちろん代表作『死靈』のうち1~3章
当時大ヒットした本です。

大学の正門近くの本屋でヒラ積みになっていた。
眩しかったのを今も覚えています。
ナカナカ買えないでいると少しずつヒラ積みの高さが
低くなっていきます。
買えない。。

定価1200円はアルバイトまる一日8時間分で
手が出ないのですね。
アルバイトは生活費にしていましたから。


やっと手に入れ一読、内容はアイマイモコ私の頭では
よー分からんのでしたが、それでも良かった。
気分に浸るだけで価値があったのですね。

本の造りがそうなっていました。
暗い宇宙を思わせる装幀、難しい言葉・・・

装本=杉浦康平,印刷者=守安巌,印刷所=東京印刷です。

この作品集は第6巻で終了しました。
評判が良かったのでしょう、78年から続きが出て
結局14巻まで続いています。
この続のシリーズは値段が2倍になっています。

今思うと買う必要もなかったかもしれないのですが
最初の『死靈』のインパクトと社会人の懐で揃えて
しまいました。

続のシリーズは値段が上がったにもかかわらず造り
がウスッペラになった感じがします。
今調べてみると装本は杉浦氏で変わっていません。
色が微妙に違います。
私でも並べてみれば分かります。
ただ、どう違うか説明ができない。
絶対感覚の欠如ですねえ。

前とは印刷者及び印刷所が変わっていました。
深みが無いのは誰の責任か分かりませんので
新しい印刷者の名前は書きませんね。


河出書房新社の正、続のシリーズの間に講談社から
『定本・死霊1~5章』が出ました。1976年。
4,5章は未読だし、定本とはなっているし
買わざるを得ませんね。
1~3章は二重払いになる?

河出の続シリーズも装本は杉浦さんでしたが
講談社の定本は装幀=辻村益朗,印刷所=豊国印刷
となっています。
クロス装ですが重厚感がうすいのです。
黒の箱に黒の表紙というのが河出の作品集の
パクリに見えるからでしょう。

決定的なのは本の題名です。
河出が『死靈』に対し定本は『死霊』と
正字になっていないのです。

この本はイメージも重要であるのに
なぜこうなったのか?


本文を見てみましょう。
「定本」の本文1ページは14行あります。
ここに正字であるべき漢字が25文字もあります。
全て新字、略字になっています。
例えば、囘が回に変わっているとか。
重みを欠きますね。

読みやすさを重視したのかもしれません。

でもそれにしては「じっと見る」でなく
「凝っと看る」とか「軀」とか、定本であえて(?)
難しい書き方にもなっています。

よー分からん『定本』編集。。。


実は河出も正字を使っているのは第一回の『死靈』
だけで、後はそうなっていませんから、5章を書き
足した時点で統一を図ったのかもしれません。

だったら文字使いも変えるべきではないか?
或は雰囲気をつくるため正字で統一ではないか。

昨日触れた内田百全集はほぼ同時期に講談社から
正字、旧仮名で出版されています。

やればできるんですけど・・
誰がなぜどこで妥協したのかなあ。


活字は「定本」が若干見易いかもしれません。
河出版は字が心持ち細いのです。
これは正字を採用した関係もあると思います。

とはいえ河出『死靈』は読みづらくはありません。

逆に「定本」には読みづらいところがあります。
1行48文字の欄外に句読点が打てないのです。
従来ですと欄外に句読点が打てるので
「~聞いたのである。」の「る」が48文字目でも
かまわなかったのですが「定本」ではそのまま
印刷すると次の行の頭に句点がきます。
「~聞いたのである
 。とにかく・・・」
これではブサイクなので前の行を一文字減らし
「~聞いたのであ
 る。とにかく・・・」としています。

「聞いたのである。
 とにかく・・・」とどちらが読みやすいか?

製本を機械の都合にまかせて読者の読み勝手を
あとまわしにしています。

同じ講談社の百全集とえらい違いがありますね。

ということで、本としては河出『死靈』がgood

本来は物理的な本の造リなども書くべきでしょうが
当ブログにしては長くなりすぎています。


さて、買えなかった河出『死靈』
不肖の息子はすっかり忘れていました。
本の裏に私にしては丁寧な字で

「母より、 22才」 とありました。

旺文社文庫と全集とで百は

2008-05-30 11:44:22 | 塾あれこれ
昨年11/16に百の出版について書きました。
例によって調べもせずでしたから不正確でした。
以下で一部修正いたします。


昨12月に母が亡くなりました。
家に預けておいた本を整理し、旺文社文庫での百を
多く持ち帰ることになったので不正確なことが判明。

旺文社文庫は80年代でも旧仮名遣いで出版しています。
作者の新仮名遣いを受け入れない意思を編集者も尊重し
なかなか良心的な仕事だと思います。

編集部註として、旧仮名遣いに触れ、漢字は新字や
略字を使う、但し一部正字を使うこともあると
書いてあります。
方針を示すというだけでもマジメですよね。

ただ、結論から言うと一部正字というのは中途半端で
あったと思います。
折角、旧仮名遣いにしたのですから正字を!

逆に漢字は変えてしまうか、正字のままかどちらかで
統一していたら気持ちがよかったでしょう。

読者のため慣れない正字を避け、但し気分をだすため
一部正字も取り込むという作戦だったのでしょうか。
正字では活字がゴチャゴチャして読みづらくなると
思われたのかもしれませんね。


82年刊の旺文社文庫『戻り道』で見てみましょう。

冒頭の辺り、今なら「東京駅前の広場」と書く処を
当文庫は「東京(驛)前の広場」としてあります。
本来ならば「東京驛前の廣場」です。
講談社内田百全集ではそうなっています。

固有名詞だから東京驛でしょうか?
基準が分かりにくいですね。


『戻り道』で活字を数えました。
1行44文字で18行が1ページになっています。
昨日の『桑の実』より字数は多いのです。

ところが『戻り道』の方がずいぶん読み易い。

活字の違いもあるでしょう。
鮮やかさやインク色の濃さも違うようです。
活字の大きさもさりながら読みやすい工夫がある
ということで旺文社文庫はなかなかgu

印刷は『桑の実』が東洋印刷
『戻り道』は新興印刷です。
ただ印刷所というより時代も影響していたかな?


では文庫と全集ではどうか。

全集は1ページ22行
文庫本より版が大きいのですから当然です。

ページの最初の行から最後までで10.5cmです。
植木算を無視して単純に行数で割りますと
10.5÷22=0.47
同じ事を文庫ですると8.1cm18行ですから
8.1÷18=0.45
ほとんど違いはありません。
(私の計測ですけれどおよそ正しいでしょう)

1行の長さと活字数では?

全集 7.8÷27≒0.289 (全集は2段組)
文庫 12.4÷44≒0.282

活字はほぼ同じ大きさと思われます。

読み易さはどうでしょう。
全集の方が随分と読みやすい。
一字一字がクッキリ(印刷は豊国印刷)

以前は単純に大きい活字が読みやすいと思って
いましたがそれだけではないようですね。

全集の行間が少し広いことも関係ありそう。
更にルビ。

ルビを多く振ってあると、その部分で行間が
狭くなります。
ルビから右隣の字まで1mmもあるかないか。

『戻り道』文庫の第1ページは11行です。
ここにルビが11箇所あります。
ちなみに全集ではこの部分にルビはありません。
(ルビの基準も正字と同様に旺文社文庫には
 ヘンなところが・・)

旺文社文庫にケチをつけていますが、繰り返します、
かなり良心的な出版でした。
百を新仮名遣で読むのはオリーブオイルを使わない
パスタみたいなものです。
味わいが全然違う。

やはり全集が一番良いのでしょう。

名文家が一字もゆるがせにしないで(=遅筆)
書かれた本です。

百読むなら講談社の全集で!!!

字が大きい

2008-05-29 11:54:44 | 塾あれこれ


本でも新聞でも字が大きくなりました。
これは視力の劣化が進む私には有難い。

手元にある去年10月第一刷の文春文庫を見ます。
1行39文字、17行で1ページです。
掛け算すると文字数は最大663文字になりますね。
(欄外の句読点は別)

これが今の文庫本では標準の大きさでしょう。
もちろん、もっと大きい活字の本もあります。

活字のポイントなどが分からないのでこんな
勘定をしなければならない、これが絶対感覚の
ない哀しさです。

以前の文庫本ではどうか?

鈴木三重吉著『桑の実』が手元にあります。
昭和24年発行、昭和42年改版の新潮文庫では
1行43文字、18行で1ページです。
文字数で774文字

単純に663文字と774文字とでは20%に満たない違い
です。

ところが実感では読みやすさが全く違います。
以前の文庫は、字が半分くらいの大きさしかない
と思えるのです。
モーレツに読みづらい。

視力が落ちているので余計にそうなのでしょう。


読み易さは文字数つまり活字の大きさだけではないと
思います。

字の形、線の太さ、これらが活字の大きさで変わって
きます。
紙質やインクの濃さでも違いが出るでしょう。

文字使いやルビなども影響します。

先の『桑の実』などはルビが大変に多いので
活字も線が細くなっているようです。

印刷。
きっとプロの知恵、巧みの技が奥深い世界でしょう。

新聞も活字が大きくなりましたね。


同級生と会うとお互い「目が悪くなった」と言います。
二十年も三十年もディスプレイを見ていればそうなる
でしょう。
眼鏡がいやで本を読まなくなったとも聞きます。

昔の文庫本を天気の良い日に窓際でなら私もまだ
眼鏡ナシで読めるかもしれません。

商品の裏に原材料などを表示してあります。
あれが読めない。
字の大きさや色など業者は考えるべき!と思うのは
団塊世代のクセでしょうか。
行政がいかんね。消費者に顔が向いていない。

モバイル社会が進めば表示も変わるでしょう。

あと十年くらい、つなぎとしてスーパーでは拡大の
表示を読めるコーナーを作るべきですね。
少なくとも郵便局のように眼鏡を常備するとか。

話が横にそれました。
本や活字の話、あと一日お付き合い下さい。

「絶対感覚」

2008-05-28 21:47:32 | 塾あれこれ
たとえば距離感のようなものはほとんどの人は正しいので
目の前にあるコップをつかめます。
ところが昨日の話の音楽などでの「絶対感覚」は
人によりずいぶんと違いがあります。

絶対感覚がある人から見れば当たり前のことが
ない人間には分かりません。
私などから見れば「なんで分かるン?」
と不思議でならないことがしばしばあります。
うらやましくもあり心から尊敬もします。

色彩感覚や立体の感覚でもそうです。

数学。
代数に強い人もいれば幾何に強い人もいます。

そんな「絶対感覚」が私には皆目ありません。
運動も超オンチとしばしば書いている通りです。

そんなことを威張ってどーする、ですけれど
昨日の書道の先生のように出来る人はそれで
失敗をすることがあるのです。
苦手な人のほうが教えるのが上手いことはよくある
と昔から言われていますね。
自分自身へ多少の気休めです。

センスがないほうが良いという話ではありません。
あったほうが、はるかに良いにきまっています。
無い人には想像がつかない世界ですから、努力で
カバーとかいっても。。。


西荻窪の北口から女子大の方へ向かって少し行くと
小さな喫茶店がありオジサンが美味いコーヒーを淹れ
てくれました。(これも昔話)

オジサンは競馬が好きで休日はずっとトランジスタ
の競馬中継が流れていました。
そのラジオは心地よく、ぼんやりとした休日に
買ったばかりの古本と珈琲、最高でしたねえ。

東京ではその辺りの水がよいから店を出したとの
ことで、本当のプロでした。
サイホンでコーヒーを淹れるのですが、そのわけは
ドリップ式より濃さを調整できるからというのです。

なぜ調節するか。
同じ人間が朝夕に店に来ることも多く、その顔色で
調整しないと「味が違う」と言われるのだそうです。

確かに同じものを昼と夜に食べ比べてみると、味が
違います。

夜は疲れているので舌が鈍るようです。
塩分も少し濃くしないといけません。
空腹かどうかは関係ないようです。

私などそんな自分を基準にして味をつければ「絶対
感覚」では大きくぶれていることになります。

こういう人間は、並べて比べるか数値で示すしか
正しい判断ができません。
「実感だから」「体験したから」といっても結構
あやしいことはありそうです。
自信がある人ほど案外ヤバイ。

プロはしばしばトリックをしかけて相手の実力を
見抜いているようです。
決してそのことは相手には伝えません。
恥をかかせることになりますから。


ここまで二日ほどは実は前置きでした。
得意ではない畑の細かい話を明日書きます。
「絶対感覚」がないのでヤバイ。。。


上記の喫茶店話の追加です。
自分のブレンドには自信がある、そりゃそうでしょう。
その自信作を、見ず知らずの若者が来店しブレンドが
何種類であるか、どんな豆かを言い当てたそうです。
サスガに配分が小さいものは間違いがあったとか。

オジサン「結構やるもんだねえ」

ソムリエもそうですが世の中には優れた能力者が
大勢いらっしゃるものです。

スポーツ、学問、商売、バクチ、お笑い、何でも構わ
ないから私にも一つ「絶対感覚」が欲しいですね。

おんち

2008-05-27 22:13:30 | 塾あれこれ

本日撮った写真です。キアシシギでしょう。
小魚を飲み込んだ直ぐ後でごきげんなシギ・・?
魚をくわえた写真が上手く撮れなかった。

さてオンチ。

絶対音感もありません。
先生がピアノの鍵盤を一つ叩き「何の音ですか?」
さっぱり分からなかった。
また、「これがドミソ」
和音なんか何がなんだか。

尾道の学校に小5の初めまで通っていました。
有名になってしまった土堂小です。

そこから広島に転校して驚いた。
音楽がすごい。
私はクラスで一人だけ低レベルでしたね。

土堂小だけか田舎はみなそうなのか
音楽といえばほとんど声を合わせて歌うだけ。

広島では明るいステキな音楽教室があって
音楽の先生までいる、沢山音楽を聞かせてくれる。

給食は土堂小が進んでおり食パンと牛乳でしたので
広島の不味いパンと脱脂粉乳に心底がっくりでしたが、
音楽はカルチャーショックでした。

中学に入っても簡単な音符が読めません。
どこがドでレか時間が掛かること。

尤も、教育がよくても私はダメでしたでしょう。


中学はコールユーブンゲンで試験です。
一人ひとり音楽の清原先生の前に行って歌います。

ゆっくりと読んでいる時間はありません。
それにイノウエは試験の順番が早く来ます。

予め試験のところを全部カナに直し、丸暗記
して臨みました。

♪ソソラソラシドレミ

オンチの丸暗記ではさすがに清原先生もおかしかった
だろうと思います。
それでも点をくれましたね。
苦手をあまり意識しないで済みました。

清原先生は好きな先生でした。
今でも音楽が好きなのはそのセイもあるでしょうね。


反対が書道。
良い先生というので有名だったそうですが
私はダメでしたね。

「ちょっと皆、見てみなさい」
私の字を皆に見せて
「こんな字は書いちゃいけません」

中1のノッケにこれでしたから。

今も書は嫌いではありませんが
自分が勉強する気になれません。
困りました。
(古文書を読みたいのに)

ルービンリキ

2008-05-26 22:04:22 | 塾あれこれ
トラックなどに商品の宣伝が書いてありました。

子供のころその「ルービンリキ」が分からなかった。
そうです。右から読む横書きでした。

戦前は横書きで右から読むものが圧倒的に多かった
ようですね。その名残が戦後にもあったのです。
(戦前は左からの横書きはオシャレだったそうです)

戦後、横書きは英語などと同じように左から始める
ものに代わりました。
ただ通常の日本の文章は上から下です。

(07.7.29に縦書横書のことを書いています)


映画館で私は真ん中より左の席に座ります。
その方が縦書の字幕を読みながら画面全体を捉え易
かったのです。

洋画の歴史物でスペクタクルなんてのが流行りだした
ころから字幕は画面下に横書きが多くなりましたね。

初めは品がなくてイヤでしたが、いつの間にか慣れて
しまいました。

下の字幕を追いながらエクラン全体をとらえるのは
字幕が縦書きのときよりも少し難しいようです。
(トシというより「目」の構造による)

字幕が下になっても日本映画でも席は左側のまま。


字幕というものは邪魔なものです。
ためしに日本映画に英語などの字幕がついているのを
ご覧になると良くわかります。
カメラの美しさがダイナシになることもありますよ。

一度『ロード・オブ・ザ・リング』を吹き替えで見た
ことがあります。
(字幕版と間違えて前売りを買ってしまった)

画面の動きが速いので吹き替え版も具合のよいものと
分かりました。
アクションが多いものは吹き替えで良いのでは?
台詞回しなんかどうでもよいでしょうし。


たまに外出すると、駅のホームに大学生が大勢いたり
します。学校の行き帰りでしょう。
本を手にしていません。
ましてモノを読んでいる者など、居やしません。

いまや電車の中で本を読んでいるのは50代以上の男
ばかりになってしまったようですね。

少なくとも学生くらいは本読めよ。。

ケータイ小説ですか?
読んだことがないのでレベルは分かりませんが
読む気になりませんね。

第一、小説は本じゃな~~い!!!!(家定さま風に)
エンタでしょ。
マンガと同じです。(見下してるのではありません)

スポーツ新聞の変な小説読んでるオッサンが
新聞読んでるとは言えないでしょ?

それでも横書きの小説よりマシかな。

あんたじゃワカラン

2008-05-25 17:36:30 | 塾あれこれ
あんたじゃワカラン、代われ とよく言われました。

サラリーマン時代です。

本社に電話してやる!というクレームですから手強い。
電話の交換手(←懐かしいでしょ)がいた時代です。
「井上ちゃん、お願い」
私より遼かに年上のヒトですから断れません。

東京札幌間の電話代が確か2.5秒で10円の時代です。
10分も話すと2400円になります。
遠距離で10分も20分も話し、それでも怒りは収まらず
上記の「代われ」となるのです。

私も一生懸命に対応申し上げ説明するのですが
なにせ若造が言うことです、説得力がありません。

「代われ」で同じ部署の年配者に頼みます。
彼が再び同様の説明を申し上げますと、収まります。
当時の私はいささか不満でしたけれども。

説得力とは、肩書→年齢→理屈の順に並んでいる様で
若造の理屈だけでは相手の心は動かないのでした。

「社長を出せ」「責任者でてこい」

これを一人で対応できなかった私も未熟でしたね。
「Kさん・・」「あいよ!」
当時は早くトシを取りたかったものです。


塾に勤めていた頃。

塾長が東京出張などから帰ってこられると
会議でヒトクサリあります。
「これからは~に気をつけ○○を考え・・」

なかなか良い話ですが、実はそれは我々がすでに
塾長に話している内容と同じなのです。

皆で一斉に
「塾長それは僕らが言ってきたじゃないですか」
塾の講師は気が強いのが多いので
言いたいことをドンドンと申し上げましたね。

当時のあの塾は特に煩かったかもしれません。

上の塾長の例は、いかに身内の話を聞いていないか
ということですが、これは人間の心理です。

私も同じ事をカミサンから聞くのとTVや本で知る
のとでは信用の仕方が違うようです。
カミサンが言うと瞬間的に「ほんと?」がよぎる。
申し訳ないことです。

(むこうだって私の言うことなんか・・)

ま、何はともあれ権威や肩書きには弱いものです。
賞をとったり著名人が褒めると商品が売れるのも
同様ですね。


子供だってそうなのです。

校長「今日お招きした某さんは世界的に有名な・・」
と持ち上げると一生懸命話を聞いてくれます。
町内の誰それとかPTA会長くらいだと、ね。

もちろん話が上手でなければいくら有名でもダメで
そこは子供の反応はスルドイものです。

私が塾でやろうとして結局できなかったことの一つに
上記の心理と関係するのですが、講師の上下を生徒や
家庭に知らせないというものがありました。
権威付けは便利なものですが、まだそれがない若者は
やりにくいことだからです。

授業の効率にも拘ります。

一見頼りなさそうな先生でも同じ価値の授業として
生徒が受け取るほうが良いと考えるのですが、
どうでしょう?

それを克服する努力が大切といえばそうなのですが。

チェックできないのなら教えてはいけない

2008-05-24 19:01:15 | 塾あれこれ
相手によりチェックの仕方が変わるのは当然です。

繰り返しますが人は様々ですからそれぞれに対応
するチェックができて初めて教えたといえます。
状況にも合わせなければなりません。

いくらご家庭でも機械的に同じ問題をやらせただけで
チェックを済ませたとはいかないでしょう。
パタンだけを覚えているかもしれないのです。

とある学年では、出てきた数字をとにかく掛ける、
掛け算とはどういうものかも分からずひたすら。

そんな対応をしているかもしれないけれども
似た問題をしていれば、立派にできてしまうのです。

だから学年が上がると急に足が止まってしまいます。


問題集の編集が参考になります。
どのような問題の並べ方をしているでしょうか。

A→Bという基本の問題をまず掲げます。

A’→B’と変化させます。

A”→B”と続けた後

B→Aと反対方向の出題もあります。

難A→難Bと発展させ 他と組み合わせて

AC→BCなどもあります。

チェックもこういう手順を踏むのです。
本当に分かっているか、注意深く。


チェックは間隔を置いて行います。
1週間後、1ヶ月、3ヶ月、半年、1年など。

回数も人により状況により異なります。
本当に分かっていればそれ以降はチェック不要です。

こちらがチェックを忘れ、生徒は実は分かっていない
とすると剥落が必ず起きます。
家では難しいこととは思いますが多くの場合教え放し
になって剥落を招いています。


万一、成績の伸びに(おかしいな)と思われる時があれば
日ごろの勉強で(あやしいな)と疑われることがあれば
それは遺伝子や教師に起因するだけのことではないかも
しれません。

今までの家庭のありようを見直すことも
大切ではないでしょうか?


チェックを入れるということは記憶の持続に
役立つことでもあります。

ただ、下手をすると鵜呑みのほころびを繕うだけで
終わる恐れもありますね。


なお、教えるときにはヒントを小出しにして
なるべく考えることをリードしたいものです。

当ブログ、06.8.1の記事ほかに書いております。


チェックなど一切しなくてパっと教えてやって
何の不都合も無い子も多いので申し添えますね。

親が勉強を教えて良い?悪い?

2008-05-23 22:22:11 | 塾あれこれ
勉強を教えてはいけないけれど、教えても良い
・・なんじゃそりゃ?
ですね。

微妙な話です。
細かく書けば書くほど曖昧になりそうです。

人間十色、家庭も様々だから。
更に精神状態とか勉強の進み具合とか条件が
複雑になります。
何か言うと直ぐに反例があがるのです。

A君は家で勉強を教えないで東大
B君は家で勉強を見てやって東大

どちらもあります。
この2例の接し方を反対にしB君は教えないで
通るか、怪しいところです。
けれども反対にしても通りそうなこともあるので
話が大変なのです。
ナンデモアリみたいですが、本当はナンデモナシ
に近いかもしれません。

当人にとっては一回きりの人生ですから他の方法を
試して比較することが出来ないのです。

困りましたね。

我々に可能な事は、沢山の例を踏まえ確率的には~で
はないか、ということです。
結局~となりやすい、とか、~は失敗することが多い
などと。

一人ひとりに何が良いかは、臨床的に判断してゆく
しかないのです。

特定の個人に何がベストか分からないのであれば
確率的な話は知らなくてよいのでしょうか?
そんなことはありませんね。


アイマイモコとした話になりやすいので、できれば
私の過去のブログもお読み下さい。
最初のころは頑張って書いていましたから。


基本的には家で教えないほうがよいと思います。
もちろん教えることもできます。
勉強してくれないよりはよほど良いですから。

教えるならば以下のことを知っておいて下さい。

何事もハンパではよくありません。
危険なこともありうるのです。

家で教えると分かっていないオソレがあります。
プロが教えてもそんなに分かるものではありません。
ましてや・・

子供は分かったと言います、やらせたら出来ます。
でもそれだけでは分かっていないことがあるのです。

暫くすると剥落してしまっています。

コレを繰り返せば分からない、できない、となる!

教えた側は必ずチェックをしなければなりません。
それが出来なければ教えてはいけないのです。
・・言いすぎかな?少なくともリスクを伴うのです。

また学校や塾の邪魔をするオソレもあります。
依存体質の子になるかもしれません。
勉強の場で真剣にならず、家で聞けば、なんてね。

学校や塾の意図が分からずに家で教えて平気ですか?

たとえば自分が分かること、鶴亀算とか、そういう
場合に、教えている学校の意図も分かったつもりと
いう誤解が生まれやすいのです。

意図は?など考えずすぐに教えてしまい易いですね。

失敗して欲しいことだってあるのです。
悪戦苦闘してほしい。

それが簡単に家で教わってオジャンに。。

理科の実験なんて大いにありそうでしょ?

さて、チェックしなければ、と書きましたがチェック
することにいく前に時間切れになりました。
あとは明日・・

妖怪ふわタリ

2008-05-22 22:32:19 | 塾あれこれ
世の中には「ふわタリ」というエラク怖ろしいものが
いるらしい、とは子供のころの記憶です。
掴むと「夜逃げ」ならマシなほうで下手をすると
生きていけなくなる、というのだからこれは怖い!
しかも人間が一枚咬んでいて他人に騙されること
もあるらしいのです。

私はてっきり妖怪だと信じていました。

その間違いが正されたのは中学生のときです。
手形小切手を習って分かりました。
手形小切手の「不渡」だったのですね。
長く抱えていたものですが、オカゲで授業が
興味深いものになりました。

妖怪が御近所でも飛び交っていたのだ・・


子供は大人の会話を耳にして??なのですが
それでも知りたい、覗いてみたい。
身の回りには知らないことや中途半端な知識が
あふれています。

それが一番よい勉強なのですね。
知識の裾野が広ければ積み上げがきくのです。

海の向こうがアメリカ、と聞いて尾道水道を挟んだ
向島をその外国と思っていた。
渡船に乗るには「パスポート」が要るらしい・・

友達「なんな、それ?要るかー。乗ってみりゃー」


昔は大人と子供の境界が低かったと思います。
もちろんタブーのような強いものはあって
それは現代とは逆で子供から隔離されていました。

妖怪「ふわタリ」を子供が知るのは大人と子供の
境界が低くても構わない文化だったのです。
垣根が低かったから、子供は覗けたし小耳に挟み
ました。
なにやら分からなくても。

分からないことがバレて笑われてもいました。
クジラジャク?竹でできてるじゃん?

でもアトランダムで不均衡な知識こそが
大切なのです。


今は知識を大人が整理して子供に与えます。
順に覚えてゆけばよいので子供は省エネ。

理科や社会の教科書だっておおむね上手く
できていますよね。
もちろん算数などは体系が整っています。

順に勉強し、言われた通りにワークをし・・
なかなか良くできています。

その代わり習っていないことはまるで知らない、
学校で塾で習ってないから知らないで当然と
いう顔をしています。

問題の答えは合っているが理解はできていない
こういった生徒も多いようです。

それを見ると何のための教育法の研究、改善か
と思ってしまうのです。

こういう話ですぐに総合学習や体験学習を持ち出す
のは少しばかり短絡的でしょう。
役に立たないとは言いませんが、現実はそれだけで
解決していないからです。


昔は垣根が低かったと書きました。
今は上手に教えられるために却って垣根が高く
なっています。
これだけを覚えればよい、と。

そのため、反対に大人の側も子供が見えなくなって
きているようです。
子供のネット社会が分からないとか。

お互いが見えなくなっているのですから、親が背中で
教える、なんて大変になってきているのです。


中1で時差の勉強をします。
分からないと聞いてきたら逆に聞き返しましょう。
何でそんな勉強するん?世界標準時でいけんの?

教える、ということを考えるから子供が育たない
・・・かもしれない・・・という気が・・少しだけ・・