隣の芝生ばかりみて右往左往する国

2007-05-31 10:59:06 | 塾あれこれ

フィンランドの成功した教育を日本にそのまま輸入はできません。
聞きかじりによると、かの地の教育に日本からの影
響があるそうです。
でも当然ながら日本式そのままではありません。

フィンランドは自国の文化社会状況に引きつけて良
いものを作りあげたから成功したのでしょう。

国家が厳しい状況にあり現在も教育に力を注がねば国がたちゆき難いフィンランドと日本では社会状況
だけでも大きな違いがあります。

現在の日本は経済的に豊かなので子供に潜在的な
競争力、向上心が生まれてきづらいのです。

「ですから」フィンランドをまねて競争を捨てれば
良いという考えは現在の日本では機能しません。
フィンランドの社会状況に合致した教育が日本では
どうか、慎重に考えて行くべきですね。

もちろん取り入れるべき、或いは強化すべき教育法
はたくさんあるはずですがオイシイトコ取リでなく
充分な検討が必要でしょう。


そもそも教育の効果測定がどれほどの情報をもたら
すのか、そこを考えておかないとわずかなテストで
適当な結論を押しつけられてしまいます。

アンケートなども同様です。
一定範囲のことオオザッパなことしか測定できない
のです。

そんな簡単な調査で分かってたまるか、が現場の
本音ではないでしょうか。

調査が必要でないと言うのではありません。

評価のことも考えておかないと時の勢いに流され
右往左往するのです。
(ずいぶんしてきましたね)


写真は梅雨待ち顔のアジサイ。
小さな庭も緑でいっぱいです。

教育は文化

2007-05-30 11:37:49 | 塾あれこれ

改めていうまでもなく教育は文化です。
教育はその方法だけが独立して存在できるものでは
ありません。
当該社会の文化と密接に結びつくものです。

勿論、世界の良いものを取りいれることは必要です。
地域の小さな文化に縛られて世界的な潮流からひとり
取り残されるようではいけません。

それは、文化も経済もグローバルになり、かつ変化の
スピードが速いからです。
教育も先進性を欠いてはなりません。

けれども、人々の文化から切り離された教育はありえ
ないのです。
新しく取り入れることは自分たちの文化となじむ教育
になっていなければなりません。

教育先進国フィンランドの研究はよいことです。
ただし、そのまま輸入してもダメでしょう。

大切なことは自分たちの文化のありようです。
足元を確認する必要があるのです。

昨日の焼き鳥金湊の話は、日本の文化をどう確認し
かつ継承して行くか、その話のマクラでした。

私達自身の文化がゆらぎ、また無関心が広がって
います。
日本も文化が洋風になっているといわれます。

モノの様子は世界中で欧米風になっていますね。
しかし肝心の精神は欧米を範として、とは言いづらい
でしょう。少なくも日本は。

自分たちに都合のよい「おいしい」ところだけを輸入
しているようです。

あえて強い表現をすれば猿真似が国中に広がっている
わけですが、それはお猿さんに悪いですよね。

日本は子供に甘く欧米風のシツケができません。
一定のしつけがあってこそ、次に自由を認めてやれる
のです。
子供に甘いまま育て、次に個人の自由だ勝手だでは
一部の若者のテイタラクを招くのは当然です。


従来の日本の文化がすべてよいわけではありません。

きちんと洋風のシツケをされているご家庭、あるいは
和洋折衷のうまくいっているご家庭も多いでしょう。

多くの伸びやかな子供たちで分かります。

文化について大人達の認識のばらつきが問題です。

とはいえ「統一しろ」とファッショはいけません。

多様性を知りかつ一定のコンセンサスを作りあげる
必要があります。

どのような教育をするかに関わってくることです。


・・・でっかい話をしてしまいました。じつは明日も続きます。

昔、神田に焼鳥・金湊があった

2007-05-29 11:56:12 | 塾あれこれ

アタリ前田のクラッカーをずっと分厚くした大きさに
出刃包丁で鳥をボン・ボンと切りわけます。
遠火で20分程じっくりと焼き、レモンを絞ったのを
頬張ります。塩味。

今は塩焼き鳥も多いですが当時はタレばかりでした。
ここはタレではないので驚く客も結構いたとか。

店のご主人は戦前から戦後にかけてのお相撲さん。 
最高位は関脇(小結?)小兵の力士でした。
相撲焼き鳥「金湊」
しもた屋風の小さな店でしたね。

大卒の初任給が五万をやっとこえた頃、一人前の焼鳥
二千円くらいだったか。
若いサラリーマンにはしんどいお値段でした。

でも、美味い!

関取という人種は美味珍味を知り尽くしています。
その人が「これが一番美味い」と提供する焼き鳥。
商売など二の次ですから至福の世界でした。
仕入れ先が日本橋のどことか。肉が違うのです。

鳥以外はオカミサンの糠漬だけ。
ビールが麒麟で、酒は黒鷹。


通い初めの頃は一人では上記の焼き鳥をしてくれず
「一人だから腿にしな」

仕方なく誰かと一緒に行くようになりました。
静かに飲める人間が少なく人選には苦労したね。

孫くらいの私を気に入ってくださったようで
客がいなくなると奥から自分の酒と肴を持って
カウンターの隣にすわり「飲もう」

色々な話を伺いました。
僕は体育会系の正反対のタイプなのに何でかな?


あるとき仲間の女の子と出かけました。
そこが何度目かの彼女はオカミサンに土産を持って
ゆくというのです。

味も見た目も美しい和菓子。
当時、一ニを争そうものをフンパツしたのです。

「お土産です」
「まあ、ありがとう」
「○○の生菓子。とても綺麗なの。
 中をちょっと見てみて。美味しそうよ。」
強く促されて箱を開けられ
「まあ。
 私にゃ勿体ないね。あり難く頂きます」
と奥へさげられた。

すると、声が聞こえてきました。
「頂いた土産をそこで開けるバカがいるか!」

いやこちらも申し訳なかった。
むりに開けていただいたのだから。
生意気な若者でしたが恐縮してお詫びいたしました。

「いや、いいんだ。若い人のシキタリだったねえ」


現在ではわかりづらくなった話ですね。
それくらい欧米の文化に染まってきています。
日本では大変不躾なことであったのに団塊世代以降
みんなプレゼントをその場で開けています。

日本と西洋とどちらがよいという話ではありません。
知らなかった若者が悪いのです。

文化においては知らない方が100%失礼。

例えば一昔前、女性に年齢を聞くオヤジがいました。
失礼だと知らなかったことがとんでもないでしょ?

日本文化の継承を怠ったのは団塊世代なのでした。
その孫たちに文句を言えるスジではないのです。

文化の継承は難しい。
時代で変わる、とあぐらをかいてはいけません。
知らない方が悪いのです。

自分のためだろ

2007-05-27 10:32:27 | 塾あれこれ

私がよく言うセリフ。
「自分のためだろ。なんだこの宿題のやり方は!」

多くの先生のおっしゃることでもありますね。


私も長く生きてきたもので年金生活が近づきました。
ため息です。

社会保険庁が騒がれているので流石に気になります。
58になったら何やら知らせが届くらしい。
社保庁のHPを覗くと・・何だか不親切。
やはり。

「ノンビリ探せるか」と思っていると見つけました。

Q&Aに
Q「58の誕生日を過ぎ翌々月になっても知らせが
  来ないけれど」とあります。
A「知らせが来ないときは最寄りの事務所へ聞け」

勉強のためというより実はブログのネタ作りで早速
最寄りと思われる事務所に電話いたしました。

電話の向こうに「58になると加入記録の知らせが来
るというのだが・・HPを見ると・・」とひとしきり
当方の説明をすると
「お待ち下さい、担当に替わります。」
(最初に用件は言ったはず・・何でしゃべらせる?)

替わった相手にまたひとしきり同じ話をします。

ご返事はひとこと
「届くのは2~3ケ月してからです」

だったらHPに書いておけよ、ですがどこかに
書いてあるかもしれず、受話器を置きました。

わざわざ自分たちの仕事を忙しくさせるのは何故?
お役所仕事ですねえ。
HPにわかりやすく案内しておけばよいものを。

上記程度ならば軽いもので身近にいくつも何だ!と
いう経験があります。
お役所で一番カンジワルイ所じゃないかなあ。

お役所仕事というのは国民の方を向いていないという
ことですね。

金を誰が負担しているか、
誰の為にする仕事であるか、
そんな意識が欠落して、時間だけ事務所にいて責任を
問われるミスさえしなければよいということらしい。

青臭いことを言いますが、
自分のためにも本当に良い仕事をする、気はない?
組織に問題があれば内部で必死に改善を図る、という
ことも全くないのでしょうか?
繰り返します。仕事は自分のため、でもあるのです。

保険料を強制的に給料袋から引かれるからといえども
役所仕事を過大評価し年金に頼る気になっていた国民
にバチが当っているともいえそうですね。
社会保険庁だってお役所仕事とやっと気付いた。。。

アホだから甘いのです。私自身も含めてですが。

しかし、こんなに無責任な仕事とはねえ。
もっとも多くの情報源はマスメディアなので割り引き
しておかないといけません。


でもね
不充分とはいえ福祉制度があることは幸せです。

江戸時代など人生設計は厳しかったでしょうね。

その社会では頼れるのはまず家族。
家督を譲る子供にはしっかりしてもらわねばなりません。

とすると教育。
現代人よりもはるかに真剣に考えていたはずです。

(やっと昨日の話と結びつきます。)

江戸時代、必死になって子育てをしています。
その伝統に学ぼう、というのが私の考えです。

東アジアで数千年かけて磨きあげられた教育です。

どうすれば子供を育てられるか、という智恵が蓄え
られ、長い時間をかけて教育法に検証が加えられて
きました。
この年月に勝る検証はないと思います。

(西洋のアプローチは全く違います。
 上記が唯一の教育法ではありません。)

「教育」を検証できるか

2007-05-26 11:00:58 | 塾あれこれ
何何算などという教え方から大きな教育思想に至る迄
それらがどのような効果を果たしているか、
その検証は難しいものと思います。

前回触れたように小さな範囲のことでは、ある程度
可能でしょう。

まず、教えたその場で相手がポカンとしていれば
効果「測定」以前の話ですね。ま、これは論外で・・

では、出来るようになれば教え方は良かったか。
暫くして教えたことが全く定着していないと判明する
場合もあります。

剥落の度合いがどうであるか、も問題です。

ただ生徒数の割合を勘定すればよいというもの
ではありません。
また相当数が出来ているからと言ってそれで済む
ことでもありません。

アテズッポウをいうことになりますが
一定の割合の理解を得るだけなら誰がどのような方法
を用いても大差ないのではないか、と考えます。

「先生がなくても生徒は育つ」・・かも。

教え方の効果測定はそういったオオザッパなレベルから
一段上のものでなくてはなりません。


教育とは一人一人に目を注ぐものです。
教育効果をどう調べるか?
単純なサンプリングではうまくないでしょう。
マスで大きく捉える目も必要ですが、それだけでは不充分。


~の教育は~の結果を生む、などと言われている場合
多くはかなり狭い範囲の知見とご自分の考えとを強引
に結びつけているようです。

強引でもそれらが世論に大きな影響を与えるとなると
「検証できるか」という問いかけを持つことが大切に
なりますね。

ゆとり教育への批判の大合唱も、ひたすら気分に流さ
れて、きちんとした検証に基づくものが少なかったの
ではないでしょうか?

学問的な調査もなされていますが、その数字に対する
一般の人やコメンテーターの分析は飛躍したものでは
なかったかという気がします。

ここ数十年学力が落ちつづけているとされます。
団塊の世代が良かったことになるのでしょうか。
それでは当時(押しつけられた)教育が有効であった
のかなあ?
でも、そこへ戻れという話は聞きません。

「あのころは人口が多くて競争が厳しく・・」

それが正しいのならば
教育改革は競争させることで解決がつきます。

スキームだのワザワザ持ち出さないでよろしい。

自分の意見の都合にあわせて話をすることばかり
横行しているのは、つまるところ教育において
効果の検証が難しいからなのです。

そこで左右の政治家が乗り込んで来るワケ。

私は個人的に「ゆとり教育」には疑問を持ちます。

ただ文科省に今回のカジトリをさせた教育騒動は
この国の教育をとりまく環境に疑問を抱かせました。


話を戻さねばなりません。
教育において「間違いない」と証明する難しさは
考えるべき要因の多さと調査スパンの長さです。

一人の一生を追っかけてもたった一例。

個人にも目を配りながら、全体としての効果も
測定するほど学問は発達していないようです。

流行りの脳科学。簡単な作業をさせて
脳の特定分野が活動しているとディスプレイに表示する
程度のことです。
それで教育が分かります?

簡単な現象から強引に教育論を語る方もおられます。
よく聞くと逃げ道はつくってあるのですが全体の印象は
特定の方向を示しているのです。

強調しておきましょう。
脳のどこが「光っている」からといってそれだけのこと
から教育へ引っ張るのは強引過ぎませんか?

かといって、科学はまだ検証不能だから信念で教育!
というのも不安ですね。

ど~します?

無理はいけない

2007-05-25 10:08:03 | 塾あれこれ

前回、鶴亀算という話が出たのでその関係を先に書
いておきます。(また常識的な話です)

分からない子に無理をして教えてはいけない、
ということです。

相手を十分に把握しながら、教え方を選択することが
大切と書きました。

その際、どうしても分からない子もいますね。
これは教える側の技量などの問題もあろうと思いますが
多くは、その子が理解できる段階にきていないことから
おきることだと思われます。

ほとんどの場合、待ってやればよい、のです。

それをシラバスだのカリキュラムだのといい、
またテスト範囲に入っているから、などと
何とかしようと言うのは「大人の都合」です。
自分の利益の為に子供に無理を強いることです。

我田引水になりますが、こう言う場合最も有効なことが
個別指導ということです。

集団授業をやりながらエクスキューズとして個別も
(商売として?個別)というのはよくありません。
この話は別の機会に。

一定の時期に何何をマスターしているべきという発想が
子供の教育によくないこともある、ということです。

それを強いるのは、繰り返しますが経済性の論理。
および、かけがえのない人間存在よりも自分個人の収入
を先に考える人々のショウネ。


学習計画は必要です。
それを有効に実行するため最大限に柔軟な指導がおこ
なわれていると思います。

それでも計画に縛られてしまうことがあるでしょう。
ご家庭や生徒本人も気になるハズです。

「遅れている」子には手厚く人や時間を回して教える
ことで対応するという考えがあります。

これは人の心を知らない人間の発想です。

もともと時間も関わるワクを設定することが良くない
ことなのです。
「遅れている」状態を作り出すのは学習計画です。

また「特別に対応をされる」側の心理を測れない人間
の考えることでもあります。


そうはいっても塾が頂くお金の多くは受験を考えての
ものでしょう。
入試はどうでもいいのか、と言われると困りますよね。

入試とか学習計画とかと、生徒の人生とどちらが大事か
と正論を吐いても受け入れられないかもしれません。

ただね、待ってやればおよそ追いつくものです。
時間との戦いがあるので、何でも可能というわけでは
ないでしょうけれども。

逆にはっきり言えることがあります。

分からないときにムリヤリやらせると嫌いになり
あるいは苦手意識を強く持つ、などマイナスのことが
沢山、しかも大きな確率で待ちうけているのです。
受験には大きな妨げとなります。
(今までは少しでも遅れ始めると「受験に向かない」
 と切り捨てていなかったか?)

大人が子供をつぶしてはいけません。

待ってやれるシステムを考えるべき時なのです。
それは「できる子」を正しく伸ばすものでもあります。

しょうがないね

2007-05-23 15:25:16 | 塾あれこれ

以前の勤め先では職員採用試験によく立会いました。
小さな企業でしたから即決もありましたね。

配属の方には即刻オリエンテーションを始めます。
その中で忘れられないケースを一つ申し上げます。

私が通常どおり以下のような話をします。
まずそれをお読みください。

「塾は学校のような細かい制限はない。
 従って教員の自由度が高い。結果が大事になる
 ので授業を良いものにしなくてはいけない。

 自分にはどういう教え方が向いているかを知る
 ことも大切である。研鑚は怠りなく。
 また、ご存知のように多種の指導法があるので
 それらも自在に使えなければならない」

・・・ちょっと退屈ですね。あと少しです。

「小さな例であるが、鶴亀算を教える場合でも
 表作成、関数、面積図、方程式、さまざまな
 教え方が可能である。
 ズバリ式のたて方だけという人もいたり・・

 自分は何で教えるかを、生徒に授業をしてゆく
 中で見つけよう!
 ちなみに私は数年かかった。
 1度に複数の方法を教えると4年生くらいでは
 混乱するから、クラスにより教え方を変えて
 みてもよい。」

一つのやりかたを押しつけるということではなく、
フォローが大切なのですが、その説明は後に回して
まずは導入のありかたや自己研鑚の話をはじめた
つもりでした。

すると、ある新人が
「それって生徒を実験台にしてません?」ときた。

私は余りに驚いて絶句、説明する気力もわかない
という状況になってしまいました。

いったい、何から話を始めるべきか?

私も若かったので話し方が下手だったけれども。


生徒もいろいろな人がいるので自分の教え方ではなく
別の方法が分かり易いという子がいるはずです。
別途フォローすることも大切ですね。 

たとえば授業ではどういうやり方が効果的かを
どのようにして確認できるか?

うまくいかないときは生徒の顔で分かりますね。

次に実際にうまく出来るかテストなどで調べます。

しかし、暫くたっての確認はどうしても抜けがち
になります。

ましてや何年も先にどのような効果、影響があるか
などは研究者でない限り調査はできません。

もっと大きな、教育の姿勢になると効果を検証する
のが更に難しいでしょう。
たとえば近年「ゆとり教育」の見なおしをした後
最近チェックした高3の学力が落ちていないから
「ゆとり教育」も悪くはなかった、
などとコメントが出ます。

効果測定が難しい証拠でもありますが、混乱している
というか無責任というか。

(明日つづけます)

授業も方言で

2007-05-22 10:54:54 | 塾あれこれ

方言で授業をするのがよい、という話をする予定が
前回、忘れてしまいました。

もっとも、あまりに常識的なので書く事をためらう
気分もあり、トんだようです。


特に塾の先生にはお分かりいただけると思います
が授業であろうと個別指導であろうと方言で話せば
相手に伝わる力が大きくなります。

生きた言葉だからです。

また心理的な距離を小さくする役にも立ちます。

母なる方言を豊かにかつ力強くしておくことは
人間形成に大いに役立つはずです。
他所の文化を理解するときにも方言が自分の基盤を与えてくれます。

国語でも方言を使うようにしてほしいですが、
それ以外の教科でも方言は有効ですね。

方言は細かい表現力にも富んでいます。

敬意を含んだ接尾表現をあげてみましょう。
共通語的なもの以外に、このあたりでは

~さる ~なさる ~ンさる ~ちゃる
~よる ~されよる ~よちゃった ~とる
~おられる ~とられる ~なる  ~ろー
尾道ではほかに ~りょう ~りゃんす ~りゃんさる
     ~りんさる  

など。これ以外にもあるでしょう。
それらを細かく使い分けます。
(上記は丁寧語や謙譲表現を含みません。)

子供の行為を大人が一種の敬語表現で言うことも
あります。独特のニュアンスが生まれます。
共通語では難しいように思われます。

使い方により、敬意の反対を表す場合もあり
共通語になくもないことですが、方言のほうが
圧倒的に細やかで豊富な量をもっています。

これらは勉強させて覚えるというより、日常の
言語生活から自然に身につけてゆくものですから
方言が一杯の環境こそが教育の場に相応しいのです。

音が大切で使い方も細かいので実践あるのみですから。

今はメディアが発達して共通語があふれています。
日常生活では方言をこそ大切にしたいものです。

沖縄でも方言が使われなくなってきているそうです。
りんけんバンドの照屋林賢さんも方言運動をしなくてはと危機感を抱いておられるとか。
沖縄ですらそうですからマスメディアの力は大きい
ものです。
方言は負けそうになっているようです。

音が訛った妙な共通語をあやつるより
堂々と方言を使いましょう。


写真はチュウシャクサギ。

シギは小さなカメラを向けていると嫌がって逃げました。

キョキョキョ、キョーイ、キョ~イ

脅威、脅威と聞こえ「脅かして悪かった」謝ります。

なまり

2007-05-20 10:46:36 | 塾あれこれ

啄木の有名な歌を引用したいのですけれど
著作権法が気になります。
かの歌は時効か?歌一首はよいのか?
ブログという形態は法とどう関係するのだろう?

調べるのが面倒です。
あまりに有名な歌だから思い浮かべて頂きましょう。
「ふるさとのなまり・・」

小学生でも知っていますね。
それがしみじみと分かる年になりました。


サラリーマンになりたて、1970年代はまだ方言
を都会で使うことが躊躇されました。
TVなど東北弁で笑いがとれた時代です。

東京では笑われないように、と気をつけました。

暫くすると標準語を話される方の中にかすかな音の
広島弁が聞き分けられるようになります。
「あ、この人広島だ」

そこで気の小さい私は音にも注意をし、一生懸命に
「標準語」に近づこうとしました。

小学生のときに尾道から広島に転校し備後と安芸の違いに苦労したことも関係していたのでしょうか。

そんな自分の訛りを消そうとしていた若い頃、ふと
ラジオで耳にした品の良い尾道弁。
ご年配の商家の奥様でいらっしゃったか。
懐かしさに涙が滲みました。

突然、小学生にタイムスリップしたのです。

ふるさとの訛りこそ人間の文化をその底から支えて
いる、唐突ながらそう思います。


母によると一口に尾道弁といっても様々で、主に
生活のあり様によって多種であったそうです。

私は漁師の友達が多く祖父母からは言葉遣いに
注意をうけました。
荒っぽい尾道弁もまた良いものですが、商売の
家であった分、言葉にうるさかったのでしょう。


「そ~な。
 尾道弁がええ?
 せーでも、だれでも皆イんな生まれたトコ
 の訛りは持っておいでじゃけー
 自分のばーゆーてものう」

 音を付けたいですねえ。


『水道の霧雨はれむ向かひなる島の人影ゆらぐ夕ぐれ』

音も良い文を

2007-05-18 14:26:07 | 塾あれこれ

マツサカ「町」は江戸の場合「チョー」でしょう。
知識と記憶でこれは間違いないというものは多いもの
です。関東はチョーが多いね。

けれど、記憶に頼っていればミスに気付かないことも
色々あります。

現にレッドソックスの松坂だって、インタネットでは
松「阪」と書いたものがあります。

更にいうならば、読みは濁ってマツザカですがTVや
ラジオでは濁らないのも耳にします。

誰でも知っている人ですらこうです。

何かを調べて「~のケースもある」という場合、記録
そのものが間違ってなされているかもしれません。


さて、本所松阪を濁るかどうか、自分の数少ない本を
調べることすら面倒です。
どこかに記載がある保証はありません。

だいいち、易しい字にはルビをふっていません。

更に、上で触れたように、たまたま見つかったとして
それが正しいものかどうか。
数を当る必要があります。

インタネットは調べ易いと思いますが信頼性に欠ける
こともありそうです。
本のほうが格段に正しいでしょう。それでもアヤシイ
こともあります。

詳しい人を探すのが一番?
相手にご迷惑。

探偵ナイトスクープに頼むしかないかもしれません。
でも、採用してくれるでしょうか?


こんな具合で、もし文章に登場しても調べるのは
適当にして漢字だけを書いて済ますのでしょう。

本当は、それではいけない。

とある売れっ子作家が「青灰色」と書いておられ
立ち止まってしまったことがあります。

何と読ませるのか?
「セーカイショク」で通じるか?
「アオハイイロ」はないだろう・・

きっと音はどうでもよいのでしょう。
最近は本の世界も弱くなっているのかしらん?


良い文、は声に出しても良いとされます。
書く人は音にも注意すべきということですね。

話を端折ります。

言葉の音をもっと大切にしてもよいと考えます。

近年は方言も大切にされてきつつあります。
ただ、オオゲサにいうとみやげ物の布巾に番付が
載っているような方言です。

最も大切な音が欠けています。


だんだん話が広がってまとまらなくなってきました。
オチもマトメもなく本日終了。

P.S.
ジョウドウジは平たく発音します。
センコウジ(千光寺)も同様。

NHKなどで最初にアクセントをおいて発音しますが
気持ち悪いこと、この上ありません。