美しさ

2006-11-30 11:05:14 | 塾あれこれ

11月26日、宇治の平等院です。曇り。

所用のついでに時間が取れたので特別展に行くことが
できました。

平等院に初めて行ったのは四十路もかなりたってから
です。修学旅行が京都方面でなかった。
そのうえ大人になっても、有名過ぎる場所だから敬遠
しつづけていました。

食べ物につられて萬福寺、ついでに平等院でしたが
感動!なんていい仏様、建物、たたずまい。

なぜもっと早く知らなかったのか、馬鹿の証明です。

「バッハを知らないものは幸いである。
 なぜならこれからバッハを知る喜びがあるから」

という逆説がありますが
平等院を知らなかった私は「幸せな」アホだった。

けれども、修学旅行で行ったとしても良さは分かって
いないハズです。美しさが分かるハズがない。
「修学旅行で行ったけれども大した事なかったなあ」
と大人になって再訪する気になれないでしょう。

もしそうであれば私はこの美しさを知らずに死ぬこと
になっていたかもしれません。
修学旅行でセットされなかった学校に感謝ですね。

私にはそもそも修学旅行の意義が判らないのです。
少なくとも寺を回るなどイケませんよね。
多くの人間の日本文化への理解を妨げている筈です。

修学旅行が減るとお寺さんは困るかな・・


修学旅行批判はいつかすることにして
今回の平等院もよろしうございました。

特別展の目玉は今回しか間近で見られない国宝の天蓋。
HPでは100年に1度と書いてあります。
TVで見たのでは判らない、実物は凄い物でした。

楽器などを持った菩薩群も、堂の壁では見づらい処が
ありますが展示室でじっくりと。
やはらかく、うつくしく、ムーブマンたっぷりで。

光背の二重円部だけでもタイヘンな迫力でした。
思わずカメラを構えたオジサンが叱られていました。

ほかにも梵鐘、鳳凰、から細かい螺鈿までいろいろ。

もちろん阿弥陀如来坐像は「いふべきにあらず」

信仰心のない者でも救って戴けそうな気がします。
尤も、頼通さんに「お前らは別」と言われるかも。


宇治の駅近くで出汁巻350円だったかを買おうか
迷って止めてしまったのが心残りですね。


帰りの京都駅で、かの井上八千代さんをお見かけ
しました。

美しい。

凛。

小学生に「死ぬな」と諭されたT先生

2006-11-29 11:00:43 | 塾あれこれ
現在の話ではありません。
昭和30年代。団塊世代の私たちに向かって
小学校の先生が仰ったのです。

当時、市内の百米道路にもまだバラックに人が住んで
おられ、太田川の岸辺にも沢山の家がひしめいていま
した。
宇品に住んでいた我家も貧しかったけれど、年末ご近
所から「年を越せない」と泣く声を耳にして「ウチは
まだ良いほうなんだ」と言い、親を苦笑させたことが
あります。

世の中はまだ貧しく、なんとか生きるのだ、という
ことがあたりまえの空気でした。

ですから、小学生の私には先生が言われる
「君たち、死んではいけない」
の意味がピンときませんでした。

「死ぬル言うことは怖いで、先生に言われんでも」
こんな感想でしたね。

まして先生の話の根拠など記憶に残っていません。
もしかすると、余り根拠は話されなかったのかも
しれません。
説明などしないで、折りあれば「死ぬな」と
メッセージを出しておられた、そんな気がします。

これから多感な時代を迎えるからこそ、小さな間に
伝えたいと思われたのではないでしょうか。

自死を戒められた言葉は胸のどこかにとどまって
支えてくれた気がします。

偏ったキツイ性格の私は数少ない友達ともぶつかり
一人おいていかれました。
大人になっても同様です。
ここには書けないようなことも再三ありました。

関係者が生きているので自分の勝手なウラミになる
事は言いませんが、その時はきつかった。
橋から覗きこんだこともあります。

今振り返ると先生の言葉がどこかで聞こえていた
ような気がするのです。

気持ちが本当に落ち込めば通常の考えができなくな
るオソレがあります。
後戻りし難いそこへ到る前に一歩立ち止まってみる
ことができればと思います。
そのためには自分の中に「生きる」という気持を
ふだんから刻んでおくことが大切です。

T先生。
大切に教育していただきました。
11.17

なぜ死んではいけないのか、を明確に

2006-11-29 10:46:00 | 塾あれこれ

昨日のT先生も子供に向かって細かな理屈を言われな
かっただけで、もちろんお考えはあったと思います。
そうでなければ言葉に力がありませんから。

仰られなかったのではなく、聞いていた私のほうが
ボーっとしていたかもしれません。

大人が発信しつづければよい、と考えます。
その発信に力があるためには、自分の考えが明確に
なっている必要がありますね。
どこまで話すかは状況次第でしょう。

自分に確信があれば話に力があるだけでなく、
ブレません。これも大きなことですね。

現在、文科大臣をはじめ様々な方がご自分の考えを
述べられています。
根拠となりそうな話は出つくしているかもしれませ
んが、決定打もなさそうです。
そんなに簡単にあるものなら人間て簡単すぎます。

で、いろいろ読むのですが、どれも「でも」と
思う部分があります。
これは、自分の考えも同様に充分ではなく欠点が
あるものだということになりますね。
でも、それでよいと思うのです。

私たちは神様ではないので、自分が心から思うこと
を発信するしかないのです。

私は「生きるとは素晴らしい」とはこの社会を見て
とうてい思えませんので積極的に「生きよう」と
は言いづらく思います。
子供達も直感で分かっているようですね。

私は「人が悲しむ」と伝えます。
ただT先生のようにはいかず、そのような話をする
場面があるときに限りますけれど。
もっと発信すべきと反省しています。

私にとっては、自分のごくごく身近では自死した人
はいませんのでつらい思いもまだしもです。
それでも、大学のクラブの仲間、将来部長になると
皆で思ってい、私も友人になりかけた人が1年の
時に死にました。私たちにはその理由は分からない
ままです。
それから近年にいたるまで、いくつもの自死と向か
いあいました。
「なぜ?」
答えは戻ってきません。
残された者は何もできない。

ごく身近の人でなくても哀しみは大きいのです。

ふっと一つの笑顔でもいい、自分に送ってくれた人
心配の言葉を掛けてくれた人、遠くから見守ってくれ
た人、思いもよらない人が皆悲しい思いをし、
とりかえしのつかない無力感を抱きます。

その人にそんな思いをさせてはいけない。
人は自ら死を選んではいけない。

同じ苦しみを抱く人は自分だけではありません。
歯を食いしばって生きている。
なぜか?
生きなければならないから。

死を直前にした人には届かない言葉かもしれませ
ん。
だから、普段から言いつづけなくてはいけないの
です。
11.18

宇品線でスタンドバイミー

2006-11-28 10:39:37 | 塾あれこれ

子供のころは国鉄が宇品の港まで延びていました。

初めて『つきはなす貨車コスモスの辺りまで』
という俳句を知ったときには先ずこの終点の臨港駅を
思い浮かべましたね。

私のころは既に列車の本数も少なく出入り自由?で
格好の遊び場でした。

鉄路の短い橋を渡っていて向こうから汽車の音がし
慌てて逃げたこともあります。
まるで『スタンドバイミー』でしょ。
ただし橋は5mくらいの長さで地面から浮いている
部分も長さはせいぜい10m

けれど逃げるときは足がもつれました。枕木の上
を走るのは小学生にはたいへんです。
心臓がはりさけるか、とオオゲサに思いました。


その鉄道の沿線に大きな廃工場がありました。

記憶では紡績工場跡だったか、広い敷地でした。
(現在そこはマツダの工場になってます)

廃工場は壁だけが残り、建物跡の半地下には水が深く
溜まっていました。
タルコフスキーの映画に登場しそうです。

子供には異次元のしんと静まった世界。
食用蛙のオバケのように大きなオタマジャクシが
にょろりと浮かんでいたこともあります。

工場は被爆したままだったかもしれませんね。

ここに我々小学生が「探検」に行きます。
正門からでは当然叱られますので、裏の宇品線の方
から入りこむのです。
塀に一ヶ所だけ子供が入りこめる穴がありました。
(後日ふさがれてしまった)

怖さもありましたが「探検」の面白さが勝り幾度も
遊びにいきました。
ところが、あるとき警備員に見つかったのです。

逃げた。逃げた。

その時に級長のバッジを落としてしまった・・
これは常に身につけておらねばならず、また、学期
が変わると次の級長に引き継ぐべきものでした。
青くなって探しにゆきました。
何度か工場にも侵入してみましたがあるハズもない。

「外してでかけるべきだった」後の祭りですね。

失くしたと言えないまま、日数を経てもT先生は何も
触れられません。
いつも胸に付けていなければならないものがないので
こちらはいつ叱られるかとビクビクです。

謝ればよかったのです。
今思うと先生はそれを待っておられた。

素直でないというか、先生が何も仰らないので
そのままにしてしまいました。
学期が変わるときは、こんどこそ叱られると思いまし
たがそれもなく、ついに知らぬふりで卒業してしまい
ました。

先生は、何事もなかったようにほかの生徒と同様に
私も扱ってくださいました。
今の私ならばどうでしょうか?
とてもこんなに優しくはできず、どこかで何か一言は
発してしまいそうです。

卒業しても手紙や賀状など差し上げ、その度にご返事
をいただく関係が続きましたが、生意気ざかりの大学
時代にいったん途切れます。

今から10年ほど前に同窓会があり久しぶりにお会い
できましたが、相変わらず優しい先生です。
その小学校で校長までされて定年、現在は地域に根ざ
した活動をされています。

で、このやさしい先生が今でも怖いのです。
塾の教師をしていると言っては励まされ、腰折れ
ができたと送れば褒めてくださり・・
叱るとか何かするどく指摘するとか、そんなことは
一度もないのに。

叱られなかったから今でも怖いのではないかと思うの
です。見ぬかれているから。

でも怖いというのはむしろあり難いことですね。

かぎりなく暖かく優しくそして怖い。
先生とはかくあるべきものでしょう。

不肖、私はその教師像の正反対。
もう、付ける薬がないようです。
11.22

塾に似合う腰痛

2006-11-27 11:01:22 | 塾あれこれ

塾の先生には肉体労働でもないのに腰痛が多いようで
す。運動不足でしょう。

私も十年以上前から腰痛持です。
最初の大きなダウンは正月でした。恒例の親戚巡り
はカミサンにまかせ私は一人寝転がっていました。
動くこともママならないので本もさほど読めない。
俳句でも作ろうかと思い立ちました。
出来ませんでしたね。

それから一ヶ月に一つくらいのペースで出来始め
ましたが、小学生でも書けないような、思いきり
ひどいシロモノでした。
川柳と俳句の区別もつかなかったのですから程度が
お分かりいただけると思います。

飼い猫の鼻がでかい、なんて内容ですよ・・あ~あ。

いちおう季語のありなし、滑稽味、キレなどで違いが
あるということくらいは知っていましたが「知識」で
しかない。
俳句が出来たと思っても川柳でしかないものが多かっ
たように思います。

こともあろうにそんなシロモノをT先生に送ったのは
どんな神経だったのやら。
世間が俳句ブームだったからかなあ。

T先生は丁寧なご返事を下さいました。
○印をいくつかつけ、欠点の指摘などはありません。

調子に乗って少し頑張って送ると
「前回よりいい」
次第に褒めてくださいます。

今思い返すと、ずいぶん粘り強い励ましでした。
これがコツなのですね。
でも引出しが多くないと少しずつ引っ張るのは
難しいものです。

勉強なしで実作だけするタイプです。
(人に勉強しろと言う仕事をしておきながら)

真似事でもしているとタメになります。
例えば和歌。
なぜ古今調、新古今調が伝統の流れになり万葉調では
なかったか。本を読むだけでは分からなかったことが
実感として見えてきます。

万葉調は難しいですね。
古今はパタンに乗っかれば「らしく」できちゃう。
もちろん私などタイヘンな腰折れですが。

それでもある種のシステマチックなところに従って
いれば実作がラクです。人に習うことも不必要。

料理では中華やイタリアンがそうですね。
素人でも作りやすく体系が出来あがっています。
これを文化というのではないでしょうか。


T先生の励ましも多分長い伝統を踏まえたことで
私たちの世代が苦手としていることです。
この勉強不足はいけませんね。
いくつになっても先達に追いつきません。

『褒められて蝸牛のごとき精進もやや形なす
               愚なる教へ子』

◎(写真)
今年はシギに出会いませんでした。この一羽だけ。
渡る途中に八幡川に立ち寄るのを見つけるのが毎年の
よろこびです。
この秋は外へ出ることが少なかったのでチャンスも
なかったのでしょう。
オタクですから。

ただ近年この川の鳥も少なくなったようです。
鳶のようなものさえ減りました。

『浅く清む水面にゆれるかすかなる
         小鷺の飛びて去りし水の輪』

子供の前で悪口はよそう

2006-11-26 15:24:34 | 塾あれこれ

不必要に先生をけなす、それも子供の前で。
こういうことが昔に比べて増えているのでは?
止めたほうがいいですね。

私の評判がずいぶんと悪いのでこんなことを書くのか
と思われませんよう、お願いします!

これまでT先生の話をいくつか書きました。
塾に関することは意図して外すようにした積りです。
私という生徒から見た先生を書きたかったから。

一人の人間に大きな影響を与えることがある教員と
いう仕事はつくづく責任が重大であると思います。

母によると子供のころの私は何かにつけT先生と
「連呼」していたようです。
転校したので、思えば幸せな出会いでした。
学力も一気に伸びましたね。


最近驚いたことがあります。
母と雑談をしているときポロっと
「私はT先生、好きじゃなかった」

半世紀前の事実が出てきた。もちろん初耳です。
合う合わないは誰にでもあります。

子供のころに私に言わずにいてくれたことに
感謝でしたね。
身内を褒めてどうする、ですが我が母ながらエライ!
ごくごく平凡な人間ですが一つくらいはいいところが
あるものですね。

親の気持がマイナスであれば、子供にはどうしても
影響が出ます。
母は言わないどころか素振も見せなかった。
子供のカンは鋭いですから、私くらいでも勘づくかも
しれません。
言わないようにきちんと意識していたのでしょう。

御蔭で、私はいまだにT先生から多くのことを戴いて
います。

昨今学校の教師に風当たりが強いですね。
そのわけもよく分かります。

けれども保護者の方などのご意見が強すぎる場合も
あるのではないでしょうか。
また、特定の先生ではなく一般論として
「近頃の教師ときたら・・」

事実がどうであれ、子供の耳には入れたくないです
ね。

それを聞いて子供が良くなるでしょうか?
11.28

道産の生シシャモ1パック398円を買って

2006-11-25 22:40:35 | 塾あれこれ
珍しく所用で朝から出かけ、帰りに駅前のデパ地下に
寄りました。
田舎の駅前ですからコンビニもどきです。
ただ、安いスーパーは品揃えが決まっているのでタマ
にチャンスがあると覗いてみるのです。
案外安くて変わったものがあります。

昔に比べ流通システムが良くなったので近年は魚の
安くてしかも珍しいものが出まわっています。
秋刀魚の刺身なども十年前なら広島では珍しいもの
でしたね。
このシステムの進歩はお役所が先導したはずで、
たまには良いこともします。


レジの外で買い物を袋に入れていると、向こうから
レジの方へカートを押してくる女性が見えました。
知った人ですが気まずいところもあるので「挨拶
さっとして逃げなきゃ」と覚悟を決めました。
そうしたら向こうが回れ右して逃げて行く。
嫌なじじいに出くわして申し訳無いことです。

その方、昔Y塾で私が教え、バイトを経てそこの
先生になられました。この辺りまではそれ程でも
なかったように思うのですが、キツイ上司でもあ
ったし、どんどん嫌われてしまいました。
十年以上たっても逃げられるのですねえ。


私も若い頃よく逃げました。
「あ、あいつだ。逃げよう」
自分は気付かれないで逃げたつもりでしたが・・

大学生の頃、バイトで路面電車の車掌をしました。
4年間ずっとお世話になったのです。
勤務中に先生方にお会いすることもありました。

完全に忘れておられる方、よく覚えて下さっている方
なぜか照れておられる方、いろいろでしたね。
私は相当にジミな生徒で、一学年400を越える生徒数
しかも週に1回くらいの授業でも覚えておられる!

オジジのO先生(失礼)
大好きな先生でした。1年間だけ生物を教わりました
が、よく覚えていただいていました。
向こうから見つけて「おっ」ですから嬉しくなって
電車の中で長々おしゃべりをしてしまいました。

後年、その学校で校長をされ、朝礼のときでも
「お早うアリマシタ」
懐かしい広島弁だったそうです。

ひょうひょうとされていました。

いま私がそのお年に近づいている・・

(あと少し、なのに時間ギレ)
11.23

シシャモで始まった話のつづき

2006-11-24 11:01:32 | 塾あれこれ

じつは、レジで回れ右をされた方が正規に塾へ入られ
るとき、私が「授業とは考えることを教える」という
内容の文を書いて渡したのです。
このようなことを初めてしたので記憶が鮮明です。

その時のメモが大もとになって、このブログの「考え
る」という稿に発展したのです。
大きな枠は一緒ですが、文章はまるで違ったものに
なっているでしょう。
当時は今以上に下手な文でしたから。

結局、ブログという場で何か書くということも昨日の
女性の方がきっかけをつくってくれたとも言えます。

こちらが駆けよってお礼をいうべきだったかもしれま
せん。「あなたのおかげでブログ書けてます」と。
するとまたもや逃げたのは私だということになる・・

悪い癖は抜けませんねえ。


『葱買うて枯木のなかを帰りけり』 蕪村


追伸:生シシャモはカミサンが唐揚げにしました。
   あっさりとして美味。
   焼酎に合います。



灰谷さんが亡くなられた

2006-11-24 10:41:14 | 塾あれこれ
私はサラリーマンをまる9年勤めました。
途中で後輩ができるようになると「教える」という事
をしなくてはなりません。
そのころ灰谷健次郎さんの作品に出会い感動しました。
そして教師という仕事も見なおしたのです。
少しでも教えるということの大変さを知って初めて
その世界が分かり始めたのです。

それまでは勉強その他を教わる対象ではあっても
好きになれなかった人種でした。(例外はあり)

その偏見をほぐしてくれた作品群です。

今でも役人の先生は好きにはなれませんが、よい仕事
をされている多くの方がいらっしゃることも存じて
おります。

灰谷さんの本を通して林竹ニという人も知り、後に私
が塾の仕事をするベースになっていると思います。

もういちど本を読みかえす時期なのですね。

一人で生きてきた?良いことは何もなかった?

2006-11-20 09:28:24 | 塾あれこれ

書くと説教臭が強くなりますね。

ただ自分にとっては,これが一番大きいと思うので
正直に書きます。
まあ、一昨日の延長ですけれどもね。

「自分が・・」という気持が強かった私ですが
最近やっと、一人で大きくなったのではないと
分かってきました。

タイトルに書いたように言っても、子供たちにどの様
に受け取られるかは分かりません。
うまく伝えられるとも思い難いですけれども、まずは
自分の思うところを伝えないといけません。

生きてきてよいことが何ひとつなかったか?
小さなわがままを暖かく許してくれた人はいなかった
だろうか?
楽しいこと、笑ったことはなかった?
そのとき一人だった?
おししいもの食べなかった?

自分の人生は人に戴いているところもありますね。

私は戴いてばかりでした。

で、格好つけて言いますけれども、
死ぬときにあまり後悔しないように戴いたことへの
お返しを少しはしてみたい、と思っています。

とはいえ口ばかりで実行が伴っていませんが。

ただ少なくとも自死を選んで人を悲しませることは
しませんでした。哀しんでくれる人は、私の場合そう
多くはないでしょうけれど、たった一人でも哀しませ
るわけにはいきません。

まして、身近な方が亡くなられた場合の嘆きはどれ
ほどでしょう。

厳しい人生でも、強く明るく歩んでおられる方もいら
っしゃいます。
その方は。生きるってステキだといわれるでしょう。

人との付き合いが苦手ではない人は、誰にでもいい
からちょっと話をしてみようと勧められます。

自分にとって一番信じられることを、様々な大人たち
が発信することが大切なのですね。