「教えない」で楽しいか

2012-11-16 10:35:26 | 教えない
教えない、で楽しいワケがない。

では楽しくなければ、しないのが良いか?
楽しいことをしていれば世の中が上手くいく、というのが
ここんとこの世相でしたね。
それで、上手くいってるのだろうか?

学校の先生の場合、子供が目の前で喜んでいるから
間違えやすいですが、楽しいメリットは実は教える側に大きい
これはやってみれば分かります。

問題は上手くいかないときに責任が取れるかということで
そこまで考えて、証明を得て、生徒に向かっている人が
全てだとは思えません。
(間違ってたらゴメンなさい)

本当に相手のことを考えれば嫌われても苦いことを言う
こんな文化は絶滅危惧種、それもCRに近いかもしれません。
すでに団塊の世代でそんなやつ少ないもの。

あるいは楽しくないけれど必要な仕事をする、これを人は
どう見ているか。
昔ほどの敬意が払われているとは思えません。


「教えない」とは加減が難しいことです。
昔じゃないんだら、現在目の前にいる子供たちは
今の世の中でそれなりの育ち方をしてきました。

彼らに一気に昔の厳しい「100%放っておく=教えない」では
付いてくる子供はいないでしょう。

教える側もその重さは我慢できないでしょうね。

よって、徐々に「教えないで済む」方向に導くのですが
様子を見ながらの微調整が延々と続くことになります。

場合によれば甘ったれているのを厳しく指導しなければ
なりません。

教育というのは、気恥かしい言い方ですが、愛が必要。
その愛する可愛い子供が苦労して助けを求めているのに
嫌われることを覚悟で臨むなんて
「正気の沙汰」ではないのかもしれません。

楽をしたい若者にはお勧めできない世界ですね。

私もクタビレタ。あと数年後には完全リタイアです。

カミサンは「ボケないように」ボランティアでも
続けられるのでは、と言ってくれますが
趣味で子供に厳しくして、誰がついてきます?

「やだ、ウゼエ爺」に決まっています。

老後、どうしよう?

「教えない」極意

2012-10-01 10:21:14 | 教えない
塾の身の丈に合わぬ生意気ばかりを書くと
お叱りを受けますので、たまには塾らしく。


高橋和巳の文章に、教えない、というものがあったはずと
探していました。
(気が向いたときのパラパラ探しで見つからなかった)

『作品集7』のp334にありました。
真面目に探せば早く見つかったでしょうに。

高橋が中国語を学んでいるころの話です。

『どうしても分からない部分が出てくる。
 中国語の辞書は 完備していなかったせいもあって
 辞書にはのっていない語彙や言いまわしが頻出する。
 その際、教授はいつもこう言われた。
 「ここまでともかく君は読めたのだ。人間として考えて
  みたまえ」
  そして私がひそかに小説を書いていることを知られて
 からは、こうも言われた。
 「君自身がこの文章を書いているとせよ。ここまで、
  このように書いてきた。さて君はこれに続けて
  どう書こうとするか」と。』

自分で考えなさい、というのが勉強の王道です。

つねに「分かりません」と人を頼り、先生から(分かり易く)
教えてもらっていてばかりでは、上記のようにつき放されると
先に進むのに難渋するでしょう。

自分の頭で考え、自分の言葉で噛み砕いたものが
身に付くのです。
次へ進みうるストックとなります。

いつも自分の頭で考えることが出来ている人は
良い質問ができますね。
ヒントに出会うと俄然エンジンが回り始めます。

こういう人には必要に応じ教えても構わないのです。
教えることの内容が高度ですから。
問題を、全ての角度から、深淵の世界におりて検討する
のは、個人には至難の技です。

そのために、自分の足で歩けるようになっておく必要が
あるのですが、常に甘やかされていると自立が大変です。

「まず自分で考えてみなさい」が大切なのです。

特に最近のような世相、また教えるテクニックの進化
これらに囲まれた現在日本の子どもたちは大変です。

人間は、突然放り出されてパっと自立できるものでは
ありません。
放りだされたら身近に代替を探して安易に解決します。

先生がつき放すと、親、兄弟、友達、別の先生、ネット
いくらでも教えてくれる人たちがいますから。

懇切に教えてくれますよ。
その方が楽だから。精神的にも。

友達から「教えて」といわれて「自分で考えろ」とは
今の時代、言いにくいことですよね。

こうして、誰かがつらい思いをして始めた「教えない」が
いとも簡単に潰されてしまいます。
教える側は親切でそうしてあげているのに。

・・・潰れた次の「教えない」のステップは難しい。

成人式をすぎても思考の自立ができない若者が増える訳です。


「教えない」は一気に出来ない、徐々に進めると書きました。
また勉強には個人差(というより個性)が大きいので一斉授業
より個別形式の方がやりやすい、とも書いております。

ただ、個別で面と向かって「教えない」のも大変です。
下手をすると「教えてくれない」で終わってしまいますから。
すこしずつ自立へ導く手加減、継続性の維持、が難しいのです。

少しずつ離れてゆくと、苦労しながら考え始めている、
これは嬉しいものですが、
通常は、生徒がシンドイ、先生もシンドイ。
「あ、それは・・間違えてるって」
それを黙って見ているのは教え好きな者にはつらいですね。


「教えない」塾で成績が急に伸びるか?
それは通常ありえません。

将来、東大に通るか?
分かりませんね。

じゃ、なぜ「教えない」なのだ・・

その子には未来があるから。

教えない問題集

2012-04-24 11:39:27 | 教えない
完全個別対応の塾として宣伝したいところですが
もっと完全な塾から「お前の所は完全対応じゃない」と
言われそうな気もします。

その証拠に「教えない問題集」が欲しい・・私です。
ちょっとばかり安易すぎますかね。

現在は普通の一斉授業でも使っておられる問題集を
メインの教材の一つにしています。

つい、もっと自分の使い勝手のよいものがないかと
甘い考えを抱いてしまうのですね。

個別対応ならば、教材は理想的には(全て手作り)で
あるべきでしょう。

ITを最大限利用しても、塾の細かい準備は必要です。
出来あいのソフトから先生が抜きだして使わせる、或は
生徒が引きだす、のは生徒が完全に自学自習をできれば
可能でしょうけれども。

私の「今」はやはり問題集にも頼ります。

楽をしたいというケシカラヌ根性もなきにしもあらずですが
バランスの悪さを恐れるのです。

定評ある教材出版社の研究スタッフが作り上げる方が
私よりも偏りがないでしょうから。
生徒・保護者の方もそのほうが安心でしょう。

塾で作る教材はあくまで「プラス」

で、それを前提の(教えない)に対応する問題集があれば
・・・もう、あるのかな?

出版社が作られるものは最大公約数ですから
極ミニ塾が勝手に喋っても通じないとは思いつつ。


(個別+教えない)ですと勉強している単元と本人の
勉強姿勢の確立とが個人ごとに千差万別になります。

初めから(教えない)でよい人は、ほぼいないでしょう。

勉学内容やその姿勢の発展状況がバラバラですから
固定化された問題集の使い方が限られるのです。
もちろんそれなりに活用は出来ますがね。

ある程度、教えないで済むような段階に来た生徒が
使う時に不便さが増してきます。

最終的には一切の説明をせず自分で新単元に入り
勉強を進めて頂くのが「教えない」

もちろん質問は大歓迎ですが、自分で考えないでおいて
「何が何だかわかりません」
・・なんて状況にならないようにリードしてゆくのが
塾の仕事となります。


そうして優秀な学生生徒が出来あがった時以降は
また「教えてゆく」ことができるのです。


話が飛びますが、「教えない」とパタン練習とは
基本的には相いれないものです。

(教えない→自学自習→反復練習)を繰り返す

という流れの塾があるそうですが、自ら考えることを
阻害しやすい「反復練習の直結」は疑問です。

もちろん練習は大切ですからそれをどう組み込むか
これも塾の力の見せどころでしょう。

機械的な対応は諸悪の根源となります。

教育開発出版(株)のセミナー

2011-11-25 22:04:37 | 教えない
本日は教材出版社としては定評がある
略称「教開」のセミナーがありました。

そこから話を始め、新学習指導要領による教育現場の
変更点などに触れた後、自分の考え「教えない」の
宣伝まで書くつもりでした。

記事のタイトルは『出来ない子にこそ「教えない」』

ところが本日の文でそこまで到達するか大いに疑問が
わいてしまいましたので少しおとなしく始めてみます。


セミナーを主催した「教開」は自主制作する教材の
提供(定評があります)だけではなく、学校や
塾などをサポートする営業活動も充実しています。
少なくとも私が知る範囲ではね。

今日も営業がらみながら充実したセミナーでしたね。


「教開」は教育界の現状を把握、分析し、文科省などの
方向性を予測しながら、出版社としてどのようなものを
提供できるかに細やかな神経を割いておられます。

塾などへのリサーチもよくやっておられるようです。

この会社の凄いところはそうやって分析し、出版内容の
意思決定をなしたことを実際の出版物(問題集など)に
的確かつ具体的に反映させていることです。

問題集の頁から会社の意思が伝わってきますね。


なんだか随分誉めあげていますが、塾の関係者ならば
お分かり頂けると思います。オオゲサではないと。

私がここで誉めたからといって営業マンが饅頭でも
持ってくることはありません。
下ごころなし、の感想・意見なのです。


セミナーの内容に触れなければいけません。

すぐそこまで迫ってきた、文科省の新学習指導要領
による中学の勉強の見取り図がどうなるか。

マスメディアも多々報道し、さまざまな塾も
「来年から大変ですから塾へ」と宣伝しています。

それはその通りでありまして
学力向上を意とする改革が大変に大幅なのです。

主要5教科の授業時間が増えます。
学ぶ内容も増えましたし、新しい要求もされます。
(自分の言葉で説明する力を強く求められるのです)

毎日の授業時間も増えます。

大変です。

学力の格差が大きくなることは容易に予測できます。

いみじくもセミナーで言われた「各人の自助努力」
これが求められているということです。
自由度は増しますが現実は厳しくなりますよね。

出来る子はどんどんとやっていってください、
頑張らない子は知りませんよ。
(ここまで言うとお叱りを受けますけれども、本音)

大変に格差が広がるでしょう。


実はセミナーでは触れられませんでしたが、この問題は
今に始まったことではなく、皆が平等に勉強するのがよいか
自由度を増して欧米型の、出来る子に焦点を当てるか、は
私が知る限りでも数十年の課題だったのです。

経済効率の関係も出てきます。
日本でも財界が教育費負担を削るために平等な教育を
止めよと旗を振っていました。

ここまで経済の先行きが不透明になると、自助努力頼みに
なるのでしょう。

勉強の量が増え、内容は難しくなり、発展的学習を
突き進んでもよいということで
教科書が分厚くなりました。

教員の負担が大変になることで、結果として
自助努力の差が大きくなりそうな気がします。

塾には営業上の追い風かなあ。


ごく一部を除いて能動的になる生徒は少ないと
思うのですがいかがでしょう?
ツメコミ教育で受け身の人間が増える?

学校の先生の力量が問われますね。
頑張って頂きたいですけれども。

成績が上の子もうまく伸びればよいですが・・・

成績が下の子はさらに厳しく勉強に追い立てられると
思います。
やれ補習、塾通い・・・

よほど気をつけないと現在の問題が解決するどころか
もっと大きくなる恐れがあります。


成績が上の子も下の子も、自ら学ぶという姿勢を作るには
「教えない」が有効だと考えます。
万能とまでは申しませんが。

特に成績が出ていない子、これに「教えない」では
パラドクスめきますが、手とり足とり教えてやって
出来ないのですから、「教えない」を上手くあてはめられれば
自らの足で歩き始めてくれるのですけれど。

(細かい話はまたいずれ。)

何に依るか 

2011-11-13 16:30:52 | 教えない
塾は何によるべきか。

「信念」は難しい、「実績」は怪しい。
そこで私がたどり着いたのが(歴史)です。

数千年の長きにわたり人類が積み上げてきた
教育の歴史に依るべきであろうと。

そこには確かな実績があります。

もちろん進化ということを考えねばなりません。
ただ古ければよいというものではないでしょう。

経済情勢は変わり、科学は進歩しています。
旧態依然をあてはめてよかろうハズはありません。

社会情勢の激変が人々の考えを変化させ、教育も
そのことを前提に進化させなければならないのです。

しかし、繰り返しておきますが、新しければよいと
いう保証はどこにもありません。

TVや新聞が誉めているといって自分の子供を
メディアに任せてよいことか。

第二次大戦後の教育史をちょっと振り返れば
答えは明らかです。
わずか数十年の検証にも堪えられない流行ばかりです。
(たぶん欧米はどこも)


平成の我々と江戸時代の人々とどちらが教育を
切実に考えているでしょうか。

比較検証できることではないかもしれませんが
状況を考えてみましょう。

社会保障も何もなかった時代に、ひととし食って
畑や商売を跡取りが中心に行うことを考えれば
教育がいかに大切か、
江戸時代は現代よりも切実であったはずですね。

老後の「生き死に」に関係してきます。
アホな子供がブチ壊したらどうなります?

そこで「ましな子供」を育てる必要があります。

幸い江戸時代は社会が比較的安定しており
農業そのほかの生産力も進展していました。
財を教育へ振り向ける余裕があったのです。
楽であったろうとは言いませんが。

義務でもないのに皆寺子屋に通わせました。

出来の良い子ならば養子などという道も拓ける
のです。


現在、日本文化の長所と考えられることの多くは
江戸時代の庶民の教育レベルの高さにつながる
ことであろうと思います。

子育てに必死であった時代の教育に学ばねば
というのが、現在多くの塾が考えていることです。

学校教育が忘れ去っていたことに灯をあてることが
塾の役割です。
決して、ただの補習機関であってはなりませんし
学校と同じことを繰り返しやってやる必要はありません。
それは誰が考えても、効率が悪すぎることですね。

そんな塾の姿勢を端的に現す言葉が
「教えない」ということです。

教えすぎる進学塾への批判でもあります。
進学実績を誇る処が高級官僚共を生産しているようですから。


余談ですが団塊の世代などから下には
「子どもに頼らない老後」と言ってはばからない人が
多くおられるハズです。

実は、頼れる子供を育てていないのです。

子供への真の教育を放棄してきた、とも思えるのですが。

(子供がいない私に言う資格はないか。。。)


(もう一回続きます。
 長い話になってスミマセン。年食うと、つい話が長くて)

教えない、をやり難い場合

2011-10-30 12:11:37 | 教えない
「先生この問題は何を1と置くんですか」

私は内心
何度も言うように、それは質問じゃないんだけどなあ。
第一、私が「~を1と置く」なんて教えたか?
家で教わったのかなあ。

実際にはこう言いました。
「何を1とするか、それを考えるのが勉強じゃん」
あまりよい言い方じゃないんだけど。

この場合は、そう言い得るまでになっている生徒だから
まだ良かったのです。

そこまでに到っていない生徒の場合、どうするか。

学習を遡って改めて勉強をしなおしてもらうか?
(個別指導なら可能)

もし時間が取れない場合はどうする?

家でお母さんがそう聞かれたときにするように
「・・こう書いてあるじゃん、だったら?
 そう、○○を1にする、ほら出来たじゃん」

これでも発展途上の生徒ならば悪くはないのでしょうが
(自分で考えない)現代の多くの生徒群へむけて
同化する方向へ後押ししていることにもなりかねません。

何を1とするか聞かないとまったく動けないのです。
教わったやり方をあてはめることが出来ないから。

楽にこなすことが出来ないとすぐ嫌になるようです。

「できない→分かんない→勉強しない」

昔なら「なに甘えてるんだ!」だったのですが。


算数で割合がからむ文章題だとしばしば「~を1とする」
から説明し始めることがあります。
問題集の解説などでもまだまだ見かけるようですね。

教わるほうもすらすらと流れるので何となく分かった
気持ちになりやすい。
類似問題はスラスラ解ける。
ちょっと変わったのに出遭えば、何を1とするかだけ
教えてもらえばあとは「出来ちゃう」

さて、本当に分かっていると言えるのでしょうか。

何を1とすればよいのか、どうしてそれが見つかるのか
算数って分からない、となる恐れもあります。


いやそれほど恐れなくても大人になれば割合も
何とかなっているものです。

具体的な数字や研究は学者にお任せして(いっぱい
研究はなされていて不勉強な私が知らないだけか)
なんとなくカンで言うのですけれど、普通は
大丈夫だろうと思います。

100%完璧に分かる、なんて必要ありません。
先になって理解も進むことが多いのです。

ただね、やはり気になる生徒もいます。

この辺りで算数から離れる子もいそうですから。

「だから」便法だけれども(1と置く)方もおられます。
とりあえず(分からせて)おこう、離れてはいけない・・

でもねえ、考える子になってほしいから。
もしかすると考えなくなる材料を与えているかも。
時間はかかるけれども割合を丁寧に教えたいと考えます。
(無理にやり過ぎても嫌いになるので要注意)

このあたりから「教えない」方向に導くこともあります。


良くないケースは
  ①分からない
  ②家で聞く
  ③~を1とおく・・分かった分かった
  ④考えなくてもハウツーですぐ出来る
  ⑤学校や塾で分からなくても家でおとーさんに
   聞けばよい=集中が薄くなる

こうなると、普段、考えてくれなくなるのです。
必死にならない。
「教えない」も有効になりません。

繰り返しますが、成長してゆけば大丈夫とは思います。
いつか行き詰まらなければよい、と願うのみかなあ。
やはりそれだけではいけませんよね。
(つづく)

処理が速ければ賢い生徒か

2011-09-22 14:57:12 | 教えない
いつまでたっても改善が進まない「塾教育」に
心配を抱きます。

例えば、生徒は処理が速ければそれでよいか、と尋ねれ
ば多くの方は「それだけでは」と留保されるでしょう。

暗記が得意であれば・・、などでも同様です。


十数年前、進学塾で講師をしていたころには
実はかなり重視していた能力です。

どこの塾だって同様でしょう、
何もジツハなんて言う必要はありません。

当然すぎることとして、若いうちはそれについての是否を
考えることもありませんでした。

もちろん、冒頭のように、そこだけを訊かれれば
「重要です、ただしそれだけではありません」と無難に
答えたでしょう。
たしかに間違ってはいない答えですよね。

スピードも大切ですが、それだけでよいのかという思いが
ありますから言葉を濁すのですけれども。

で、この十数年で事態が好転してきたか?

塾業界だけに限って言いますと(推測でしかないので
申し上げにくいことではありますが)
どうも実情は何も変わっていないように思えるのです。

それどころか逆にますます速さや記憶力ばかりを
鍛えているように見えることもあるのです。

受験に関しては手っ取り早く有効なこと、というのは
変わっていないようですね。


処理スピードが速かったり、記憶力が良い生徒は
学習における他の能力も高いことが予想されます。

もちろん、処理は速いが応用はからっきし、なんてことも
ありますけれども、パパッと処理出来る子は他の能力も
高く、おおむね「賢い生徒」のほうに入るでしょうね。

これは大学でも社会でも、ある程度あてはまることでは
ないでしょうか。

いまだに東大京大といい、将来にプラスであろうとして
公立校も私立も塾もみな目標をそのレベルにおきます。

企業だってやはりまだ東大京大。

とある学習能力が高ければ、それにつながっている部分も
優秀であることが多いので判断基準として有効なのです。


しかし、では、処理スピードがそれほどでもなかった人を
訓練して速くすれば、周辺の能力が高まっているか?

暗記法をマスターてそれだけでテストの点を稼ぐとしたら
考える力は育っているか?

「東大を出ててもなあ・・」
という原因の一つではないかと疑うのです。


それなのに百マスやら速読やら、スピード信仰が流行り
あたかもそれだけで良いかのごとき空気があります。

皆さん口では「いやそれだけではありません」と言われ
ますが、思考力や想像力を(どのように)育てるか
手だてがないまま、周りと同じようなことでお茶を濁し
官僚と同じように退職までの保身を図ります。


「教えない、ですか。
 ん~、良いんじゃないですかネ。
 信念がおありなんでしょう・・」

いっぺん聞いてみたいね、
「で、あなたは具体的に何をやっておられる?」と。

「せんせ、教えて」・・これは甘いささやき

2011-07-27 11:24:09 | 教えない
しつこく書いていますが、勉強は教えてはいけません。

人の勉強の大きな流れは、サンドイッチ。

初めは教えないとできません、
真ん中で「教えず」
最後にはまた教えてもよい。

自律を促すためにどうしても真ん中の「教えない」を
通りぬけてもらわねばなりません。

この部分が現代の日本では脆弱極まりないのです。
国を挙げて甘やかしているのですから、そうなる。

よって塾業界でも少数派ではありますが「教えない」を
皆で叫ばなくてはならないのです。



「○○の資格をとるなら△専門学校、☆塾」

こんな宣伝ばかり目立ちます。
近頃は高等学校まで(私立など特に)手に職を路線です。

悪いことではないのですが、きっと、手とり足とり
楽しく学んで資格も取れる・・「良い学校」

ニーズが大いにありますからどこもそうなるのでしょう。

しかしそこで資格を得ては、ベルトコンベアに乗ったまま
受け身の態勢で社会へ出てしまうのが目に見えるようです。

できればそうやって資格をえた人の世話にはなりたくない
ですね。
マニュアル通りのケアだけしか行わないでしょうから。

新聞にU17のサッカーの記事が載っていました。
対ブラジル戦、日本チームは選手が自分たちで考え
実行に移すことができなかったそうです。
トライしたかもしれませんが敗戦に終わりました。

もっと自立を、いつまでこんなコメントがつくのでしょう。


自立を促すべく塾が少しずつ「教えない」に移りかけると
生徒はシンドイし、早く出来るようになりたいものですから
親や出来る友達、学校や塾の別の先生などに
教えてもらおうとします。

勉強をしようというのですから、元々は褒められるべき
ことなのですが、ある時点では「教えない」「自律を」
ということの妨げになります。

中学の後半から高校生にもなって自助努力はせず安易に
「せんせ、教えて」はないでしょう。

楽をしたいだけじゃないか・・私は冷たく対応しますが
普通の人は(勉強する気を認めて)分かり易く教えます。
しかも「~だけ覚えればよい。××は出ない。」
なんて情報までお土産につけてやったりするのですねえ。
(そんなことは自分で見つけるべきことでしょう。
 一見ロスのような道こそ将来伸びる道なのです)

教えない、自分で考えなさい、は骨抜きにされます。

そのまま自立せずに指示待ち人間へ育つならば
教えた人の罪は大きいといえます。

・・・説明が短絡的すぎますが。


教えて、という生徒が可愛いのは分かります。
ただ、少なくとも、その生徒に何が分かっていて、
どこまで考えたかを探りつつ教えて欲しいですね。

面倒がらずにじっくりとつきあって欲しい。
たとえ生徒が結論だけを求めてきても。

それを安易に対応するのは、一見生徒のためのようで
(私も以前は「~のため」と思って教えてました)
実はその人の可能性の足を引っ張っているかもしれません。

分かり易く、面白く教えて、自分の収入に結び付く
それって、魯迅のいう「食人」ではありませんか?

どうにも

2011-06-02 18:41:39 | 教えない
不信任案、何かみょーな結末でしたね。
一昨日深夜の菅鳩山会談が長引いたのはこれだったか。
何かあるだろうとは思っていましたが。

およそ政治の決着では足して二で割るということが
行われます。
必ず、100%などとはいきませんが大体、そう。

今回の、近いうちの辞任表明をするという案は
想定外でした。私もアマチュアですね。


誰が発案したか、などは分かりませんが、ともかく
大きな流れを提案し、ゆさぶりをかけ、したのは
マスメディアがいう(無能な宇宙人)だったようです。

政治が良くないのは、いわゆるマスコミにも
大きな責任がありますよね。

私が危惧していた菅政権の長期化は避けられましたが
消費税はどうなるんでしょう。
心配するレベルが低いですか?


結局政局に終始して、なすべき仕事は何もできない
という政治家の姿は変わっていません。

人間、急には変われないものです。
様々な利害がからんでいるでしょうから、尚更です。

震災の復興は、どうしてよいか分からず
お金の算段もつかず、いくら要るかすら示せず・・
これでは国家百年の計はムリです。

政治家とは何かをするという価値がある商売ではなく
「政治家は、である価値しかない、である」

新年おめでとうございます

2011-01-01 17:17:43 | 教えない
新年おめでとうございます。


朝日新聞が元旦一面トップで「教えない」との
特集記事を載せていました。

ん~
じわじわと「教えない」が広がっていますが
ブレイクするかもしれませんね。

まあ学校の取り組みは流行りかもしれませんが
従来の教え込むだけのやりかたにハッキリと
限界が見えていますので「教えない」へは
当然の推移といえるでしょう。

もっとも、どのように教えないか、それには
様々なアプローチが可能ですから
集団学習で「教えない」もアリでしょう。

福島の塾の渡辺先生など早くから集団授業で
「教えない」をトライしておられました。

私は一斉授業のような集団では難しく
個別の勉強シーンでこそ有力な手法だと考えます。


私が思う(これしかできませんが)「教えない」は
自分一人で学び考える力をつけてもらうことです。

現代的ではありませんが
だからこそ必要と考えています。

最後は自分が思考し一人で決断する、その力を
すべての子供たちが身につけねばなりません。

「持続可能な地球」は自律できる一人ひとりが
作り上げるものだから。


その個人を育てる親、社会、・・相当がんばって
いただかないと。

今の日本はこの面でも遅れているようです。