立川談志は下手でした。
噺家としては一つのやりかたでしょうが
古典落語をする必要のないところまで
行ってしまった。
他の一流どころが揃う落語会にも滅多に出ず
自分のファンだけを相手にしていたようでした。
新宿の末広に出たときに普通の寄席の客に
どうであったか。
高座に上がった時は大変な拍手でした。
まくらも談志らしく、信念をこめて喋りウケたの
ですが、話の本体に入ると、滅茶苦茶です。
笑いもとれない。
人も描けない。
談志の言い分も伝わらない。
客席は完全にダレてしまいました。
さすが末広の客は芸に厳しいですね。
私も途中で帰ろうかと思ったくらいです。
革新の信念があるのなら貫けばよいものを
半端に、当人は寄席の客に分かり易くしたつもり
かもしれませんが、やってることは手抜きです。
新しいものも提示できず、古典の破壊もできない、
正当な話では下手なのです。
五代目小さんのあとを継ぐつもりが
落語の巧さで小三治に抜かれてしまい
ならばと一門を飛び出しちゃった。
負け犬ですがマスメディアに知られるような
言動が、飛び出し後も一定の客を呼んではいたようです。
政治家になってみたり、ね。
噺家である自分がそんなことをして恥ずかしくない?
八代目正蔵(彦六)は若いころの談志を評価して
いました。向かう方向は違うけれど才能が
あふれているところに期待したのです。
何度も文章にしています。
晩年は完全に談志を否定していましたね。
○
志ん朝が落語界に出てきて完全に行き場がなくなり
晩年は敗北感ばかりを味わっていたようです。
再び取り上げられるようになったのは没後。
下手な噺を知らない人間が増えてからです。
噺家としては一つのやりかたでしょうが
古典落語をする必要のないところまで
行ってしまった。
他の一流どころが揃う落語会にも滅多に出ず
自分のファンだけを相手にしていたようでした。
新宿の末広に出たときに普通の寄席の客に
どうであったか。
高座に上がった時は大変な拍手でした。
まくらも談志らしく、信念をこめて喋りウケたの
ですが、話の本体に入ると、滅茶苦茶です。
笑いもとれない。
人も描けない。
談志の言い分も伝わらない。
客席は完全にダレてしまいました。
さすが末広の客は芸に厳しいですね。
私も途中で帰ろうかと思ったくらいです。
革新の信念があるのなら貫けばよいものを
半端に、当人は寄席の客に分かり易くしたつもり
かもしれませんが、やってることは手抜きです。
新しいものも提示できず、古典の破壊もできない、
正当な話では下手なのです。
五代目小さんのあとを継ぐつもりが
落語の巧さで小三治に抜かれてしまい
ならばと一門を飛び出しちゃった。
負け犬ですがマスメディアに知られるような
言動が、飛び出し後も一定の客を呼んではいたようです。
政治家になってみたり、ね。
噺家である自分がそんなことをして恥ずかしくない?
八代目正蔵(彦六)は若いころの談志を評価して
いました。向かう方向は違うけれど才能が
あふれているところに期待したのです。
何度も文章にしています。
晩年は完全に談志を否定していましたね。
○
志ん朝が落語界に出てきて完全に行き場がなくなり
晩年は敗北感ばかりを味わっていたようです。
再び取り上げられるようになったのは没後。
下手な噺を知らない人間が増えてからです。
異常なまでに皆が褒め称える談志の落語ですが、自分も全く面白いと思えない。
先入観無しに聴けば、町内のおやじさんの素人落語かと思ってしまうほど酷く感じる。
談志の落語は『温和な御隠居』も『血気盛んなばくち打ち』も『鷹揚な殿様』も全員同じ。
同じ声音、同じ口調、同じ仕草。演じ分けが全く無い。
談志の癖がそのまま出て『花も恥らう生娘』までもが「ヴヴー、アー」と下品に唸る。
しかし、談志のファンは『談志を理解できない奴は感性が鈍いだけだ』と言い張る。
このファンの物言いが何かに似ていると、ずっと思っておりました。
柳家喬太郎の新作落語『落語の大学』に「立川流はね、宗教法人」というくだりがあり、「そうそう!それだ!」と膝を打ちました。
「宗教法人」の一言にドッと湧いた観客の笑い声と拍手から察するに、そう感じている人も多かったのではないでしょうか。
宗教の信者も「尊師の有難いお言葉を理解できない奴が悪い」という論法がお得意です。
しかし妄信しているだけなので「ここが凄いのだ」と他者に説明ができない。
説明ができないから「天才を理解する感性」だのなんだの、オカルトチックな話をしだす。
談志ファンからも全く同じ臭いがして、これがたいそう鼻につく。
落語は斜陽と言われて久しいですが、談志を名人と持ち上げている限り、陽が昇る日は来ないでしょう。
最初に聴いた落語が談志だったら、自分は落語を好きにならなかったですね。
小さん、八代目正蔵などが並ぶ落語会(TBS)などにも出ませんでしたね。そこが志ん朝との一番の違いではないでしょうか。
はは、生意気こいて失礼。
勝手に推測するのですが、談志一門が今後のために無理やり「巧かった」伝説を作ろうとしている面もありはしないか、と思います。自分たちの商売の為に。
新興宗教とは巧いたとえですね。
まったくその通りと思います。
驚いた事に志ん朝よりも入れ事やクスグリの少ないソリッドな落語。
100点の才能を持っていた談志ですが、120点の才能と華と育ちを持った志ん朝への対抗意識で道が外れてしまったんでしょう。
同じ意見の方がおられると何だか安心します。
談志もある意味で不幸な人生を送ってしまったのですね。
「教祖」の必須条件かもしれません。
本牧亭で聞いた源平
末広で聞いた五貫裁き
池袋で聞いた鼠穴
未だにあれを超える人の高座は聞いたことがない。
私は談志も、志ん朝も、川柳も、桃太郎も好きです。
色川武大や甲本ヒロヲや徳井義美が愛する談志は落語が本当に下手なのか。
彼らの目は節穴なのか?
断言できるのか?
まして、談志が不幸な人生を送ってしまった???
談志の何を知っているのか。
不遜である。
色川武大や甲本ヒロヲや徳井義美が愛している談志だから、アノ落語で無理矢理笑わなければいけないのでしょうか。
それ自体が談志の裏返しの存在でしかない。
志ん朝の絶望も無理はない。
M1にあぶれた落語家志望の若者は増えたのは喜ばしいことですね。おめでとうございますw