一方的に誰が悪いと言うことはありえない。
教員が職人集団であり競い合っていたということは
コントロールしづらい面々であったということでもある。
今思えば創業塾長は普通なら務まらぬことをやってのけた。
我慢をしながら塾の一定方向を示したのである。
悪口を言えば、それしかできなかったのかもしれない。
そういう連中が上で蓋をしていて
下から若いものが育つのは難しい。
私が知る最後の数年はそういう30くらいの若い層に
室長などを任せるという体制もとっていた。
ただ実力者は誰か、生徒も親も知っていたのである。
これを解決するに塾経営コンサルタントという発想も
分らないではない。
ただ、少なくとも結果としては失敗であった。
世代交代の必要は誰もが感じており、その道を拓こう
ともした。
現実に若い中で数名は実力がついていたのである。
それを盛り上げられなかった責任の幾割かは
コンサルタントにもあるはずである。
○
いろいろあったが、若い者を立てた新山口塾ができた。
私はそれからすぐに塾を辞めた。
50を過ぎれば好きな仕事をやりたい。
それが山口では不可能ということは分っていた。
とうぜん独立に不安もあった。
残って楽をしたい気持ちも大いにあったのだが
新体制では仕事の居場所がなくなっていく筈だった。
若い連中が一番嫌っていた私が辞め、他の古株も
様子を見つつ辞め始めた。
井上で大丈夫なら、である。
もちろん塾としてはお辞めいただくほうが有難い
というサインは出ていたろう。
○
塾長も異母弟に禅譲され順風に見えた矢先である。
室長を任されていた若い連中が突然こぞって退塾し
新しい塾を作った。
めぼしい生徒をごっそり引き連れてである。
(声がかからなかった子も可哀想)
自分達の思うようになったのになぜ?と思ったが
自分達の思うようにならばともう一歩進めたのかも
しれない。
古株が多く残っていたら難しかったろう。
下剋上、やるなら今、であった。
いずれにせよ業界の常識や吾らの世代の価値観
からは非難すべき背信である。
かなりのトラブルがあったのだろうけれど。
これが引き金となり山口塾は衰退し始めた。
十年も潰れずよく持ったというべきかも知れない。
没落貴族のタケノコ生活。
少しずつ給料の安い教員にシフトをしたはずである。
実力のある教員は逃げ出し、なんとか居座るものには
肩を叩いたのではないか。
経営的な余裕がなくなっていたのである。
○
しかし、だ。
山口塾の強みは何であったのか?
私が辞めた後、仕事の組織化は進んだであろう。
シラバスなども充実させたのではないか。
だが最も大切な部分は個々の教員の中にあった
はずである。
私も辞めるとき一切の資料は置いて出た。
しかしそれを見て誰が使いこなせたろう。
威張るわけではない。
その人でなければ言えぬ「ギャグ」を残されて
後の人の財産になるか?
私の考えを知る人も次々と辞めたのである。
人でもっていた塾が人を手放したのである。
自らノウハウを捨てたに等しい。
他にも書きにくいことはある。
公にすべきことではないものもある。
ではあるが人を見誤ったということ以上の失敗はない。
業界の競争はすでに激化していた。
弱みを見せれば受験に強い生徒の獲得合戦において
勝てるわけがないのだ。
こうして縮小再生産、悪いことが雪だるま式に
膨らんでいったのであろう。
置いてきたつもりの私の遺産は灰に帰した。
○
TVで靴のABCマートの仕事が報道された。
ちらとしか見ていないが同じABCの店と店とが
お互いに競争をしていた。
あれ、なのである。
内内でも競争する。
そのためどこまで意思を統一し
どれほどの自由度があるか。
その加減に成功すれば結果がでるのではないか。
教員が職人集団であり競い合っていたということは
コントロールしづらい面々であったということでもある。
今思えば創業塾長は普通なら務まらぬことをやってのけた。
我慢をしながら塾の一定方向を示したのである。
悪口を言えば、それしかできなかったのかもしれない。
そういう連中が上で蓋をしていて
下から若いものが育つのは難しい。
私が知る最後の数年はそういう30くらいの若い層に
室長などを任せるという体制もとっていた。
ただ実力者は誰か、生徒も親も知っていたのである。
これを解決するに塾経営コンサルタントという発想も
分らないではない。
ただ、少なくとも結果としては失敗であった。
世代交代の必要は誰もが感じており、その道を拓こう
ともした。
現実に若い中で数名は実力がついていたのである。
それを盛り上げられなかった責任の幾割かは
コンサルタントにもあるはずである。
○
いろいろあったが、若い者を立てた新山口塾ができた。
私はそれからすぐに塾を辞めた。
50を過ぎれば好きな仕事をやりたい。
それが山口では不可能ということは分っていた。
とうぜん独立に不安もあった。
残って楽をしたい気持ちも大いにあったのだが
新体制では仕事の居場所がなくなっていく筈だった。
若い連中が一番嫌っていた私が辞め、他の古株も
様子を見つつ辞め始めた。
井上で大丈夫なら、である。
もちろん塾としてはお辞めいただくほうが有難い
というサインは出ていたろう。
○
塾長も異母弟に禅譲され順風に見えた矢先である。
室長を任されていた若い連中が突然こぞって退塾し
新しい塾を作った。
めぼしい生徒をごっそり引き連れてである。
(声がかからなかった子も可哀想)
自分達の思うようになったのになぜ?と思ったが
自分達の思うようにならばともう一歩進めたのかも
しれない。
古株が多く残っていたら難しかったろう。
下剋上、やるなら今、であった。
いずれにせよ業界の常識や吾らの世代の価値観
からは非難すべき背信である。
かなりのトラブルがあったのだろうけれど。
これが引き金となり山口塾は衰退し始めた。
十年も潰れずよく持ったというべきかも知れない。
没落貴族のタケノコ生活。
少しずつ給料の安い教員にシフトをしたはずである。
実力のある教員は逃げ出し、なんとか居座るものには
肩を叩いたのではないか。
経営的な余裕がなくなっていたのである。
○
しかし、だ。
山口塾の強みは何であったのか?
私が辞めた後、仕事の組織化は進んだであろう。
シラバスなども充実させたのではないか。
だが最も大切な部分は個々の教員の中にあった
はずである。
私も辞めるとき一切の資料は置いて出た。
しかしそれを見て誰が使いこなせたろう。
威張るわけではない。
その人でなければ言えぬ「ギャグ」を残されて
後の人の財産になるか?
私の考えを知る人も次々と辞めたのである。
人でもっていた塾が人を手放したのである。
自らノウハウを捨てたに等しい。
他にも書きにくいことはある。
公にすべきことではないものもある。
ではあるが人を見誤ったということ以上の失敗はない。
業界の競争はすでに激化していた。
弱みを見せれば受験に強い生徒の獲得合戦において
勝てるわけがないのだ。
こうして縮小再生産、悪いことが雪だるま式に
膨らんでいったのであろう。
置いてきたつもりの私の遺産は灰に帰した。
○
TVで靴のABCマートの仕事が報道された。
ちらとしか見ていないが同じABCの店と店とが
お互いに競争をしていた。
あれ、なのである。
内内でも競争する。
そのためどこまで意思を統一し
どれほどの自由度があるか。
その加減に成功すれば結果がでるのではないか。