料理のツボ

2007-03-31 20:21:04 | 食べる

美のツボが流行っているとか。

私が教わったツボは料理の。
外食をしない生活ですから家庭料理の腕をあげなけれ
ばなりません。
ところが、簡単に上手くはなりません。

で、ツボですが・・「調味料」ですね。

腕が充分でなくても、家庭でも、ある程度のものを
作るには調味料を良くすることです。

多少値段が張っても1回分にすれば少額。
肉や魚などを買うことを思えば安いものです。

相場で考えると買いにくいですよね。

これは生協で幾ら幾ら・・それに比べると
自分の気に入ったものは何割か高くなります。

そこで、外で食べたらなどと発想を変えます。

昼食を一人平均百円未満、なんとかなります。
外で、普通のラーメンやウドンを食べるなら
家の方がマシになります。調味料次第ですね。


超高級品は買えないものの、ある程度値が張っても
買うものは・・

醤油、味噌、ミリン、酢、オリーブ油。
あとカレーペーストと「かえし」
これは家で作るのが大変なので買います。

塩や砂糖は普通です。(砂糖はほとんど使いません)
料理酒は甲類の焼酎。4Lくらいのボトルで買います。
たくさん使うので。

ジャンや香辛料は多種類欲しい。

ハーブは鉢で結構できますね。

他に自家製では、梅干、ジャム、練りゴマ、ポンズなど。


リッチなら昆布とか鰹節とか良いものが欲しいですが
高い!!!

相場が低いものは割高でも好みを買います。
豆腐、油揚、コンニャク、乾麺、スジ肉、大豆くらいか。
デパ地下など覗くユエンです。

どんどん使って回転をよくするのもコツかなあ。


さて、仕事の壷。
前回までの話とここで繋がります。

生意気になるので、止そうと思っていたのですが
言いっぱなしだ、知らね~んだ、とか言われるのもシャク
一言だけ言わせてください。

「やって見せる」

説教は逆効果。説明は通じない。

尤もね、進学塾をリストラのオジジだからこの話も
信頼度はどうかなあ?

もう一つの懸念は
やって見せても「あの人は違うから」とされると
効果は上がり難いですよね。

①団塊世代は武満徹に学べ

2007-03-30 08:45:47 | 塾あれこれ
とか言いつつ実は余りよく知らないのですが。

あのノベンバーステップスで世界的に評価を受けた武満
徹が元々は邦楽が大嫌いだった、そうです。

子供の頃=戦前の教育と結びついたものとして邦楽を
忌避していたので後年仕事をして行く中で邦楽を掴ん
だとか。

体力のない彼には戦前の教育は辛かったのでしょう。

私も体力がなかったので、もう十数年早く生まれてい
たらと思うとぞっとしますね。
もっとも戦前ならペニシリンもなかったから学齢まで
生きていなかったか。
(母によるとペニシリンで生き延びた私だとか。)

武満は戦争が終わって人生を切り開き始めるのですが
敗戦時の価値観の大逆転も彼の人間形成に大きな影響
を与えている・・・らしい。

人が依って立つことすら崩壊することがある、という
認識が重要なのです。


時代が少し下がって我々団塊世代はどうか?

武満の世代が、自分たちの依拠している「正しさ」は
もしかすると間違っているかもしれないという気持を
持ち易いのに比べ、妙に自信過剰ではないか?
謙虚でない、反省がない。

学生運動だってそうだったようですね。
皆さん何だか自信があった。

ところがその時代が過ぎると、あれだけ攻撃していた
側に入り立派な企業戦士になるのです。
はては自民党系政治家になったのまでいますね。
国会議員にも。

まあ、大雑把な話でして、世代論というのはアブナイ
ものと思ってください。
戦前の政治家がそのまま戦後も活躍している国柄です
から団塊だけが悪いわけじゃあないのですけれど。

それにしても「内心忸怩たる」様子がないのですね。

僕達だって大変なんだ、ってエバッてる。
このイタミは誰にも分らない、ですと。
家庭内でも孤立するわナ。

その辺りが、価値観の大変化や生きる死ぬの大変な
時代を経験していない分、表層的なんですよね。
(大変化はあったが急激ではなかった)

団塊以後の日本人にも脆弱さは受け継がれています。

自分は無謬である、と思いこむ危なっかしさが社会
や教育に向くとどうなるか。
どんな子育てをしてきたか。

いささか反語的ですが
「自分には間違っている所があるかもしれない」
という認識が、自信を持った指導に繋がるのです。

この人間認識が、明晰であるための必須条件。
自らの立つ場所、スタートを正確に意識できること
になります。

人間というのは弱いものと考えます。
場合により、情けない存在にもなり、有形無形に
害を及ぼすおそれがあります。

その人間が教育をするのです。
なんと恐ろしいことでしょう。
3.21


②私が一番アヤシー

2007-03-30 07:30:57 | 塾あれこれ
塾やってるオジサンてアヤシーのが多いかもしれません。

私のアヤシーは「ブレていないか」が一番ですね。
ズレているのは分っているのですが、ブレるのは
自分では気付き難い所があります。

前回は、主に全体が共有する基本的な考え方すら
変更することがある、という話でした。
明治維新でも、昭和20年でもそうで、
昨日まで教えていたことは何であったか、を問われる
事態になります。

戦後でも右往左往していますね。

教育に関係する人は充分に気をつけねばならないので
す。

つい大げさな言い方になってしまうことの多いこのブ
ログですが、またデッカイこと言ってますねえ。

でも、どうしてもその辺りから始めなくては、と思う
のです。

どのようなことを留保するか、もしかするとと思って
いなければならないか、ですが

民主主義! 多数決原理 資本主義 福祉思想
伝統文化  国際友好  平和主義 環境保護

ええ?っというものまで、ありとあらゆるものを
もしかすると絶対に正しいとはいえない、
少なくとも時間がたつと変化するかもしれない、と
いったん留保する必要があります。

その上で、現在の自分はカクカクの理由でこれを
是とする、という考えを確認します。
こうしないと、教育する側の明晰性が保てません。

更には、個人のレベルでも変化が起こりえます。
この方が怖いかもしれませんね。
3.22

③バイト車掌だった

2007-03-30 06:19:24 | 塾あれこれ
アルバイトで車掌をしていました。
H電が昔、人手不足解消を考え学生アルバイトを募集
した、その時の第1号が私です。
といっても20人いたのですが。

初年度は夏休みだけであったのが次第に年中募集され
ついに大学4年間ずっと車掌をやりました。

ミス○○と評判の高かったあこがれの女子大生が電車
に乗ってきたときは仕事にならなかったナア。

2度目は挨拶したけれど(ほんのちょっと顔見知り)
これっきりお目に掛かることはなかった。
普段は車を使って通学していたのか?
あのころの大学生で車は珍しかったものですが彼女なら
モテていたでしょうからね。


冬など朝一番で車庫に入り
まず手動でビューゲルを上げて電気を引き入れます。
パンタグラフは少なかった。
何しろ手で扉の開閉を行う車輌も多かった時代です。

ビューゲルというのは電車の上についている、架線から
電気を取りこむ「栓抜きの親玉」みたいなヤツ。

次に車内灯をつけ、暖房がある場合はスイッチを入れ
(まだ暖房機のない電車も走っていました)
圧搾空気のコンプレッサーを動かし、などして運転手を
待ちます。

そんなことしなくても構わなかったのですが、面白い
じゃないですか。許されるなら運転もしたかも。

軌道があるので運転は前進か停車かだけでよいのです。
コントローラの「鍵」をつけ、FWにいれてからノッチ
を一つずつ上げ・・

コントローラにB29という型式がついていたのは変な
感じでした。

電車の運転は上手にするのは難しいようです。
最近は自動化されているので個人差は小さくなって
いるようですね。

運転手の方たちにも可愛がっていただきました。

家族の話、仕事の話、趣味、などの話も多く
第一組合と第二組合の喧嘩なんてウラ話も。

お一人、ど~もナという感じの運転手がいました。
1日、7時間以上一緒に仕事をするのでどうしても
話はします。

何と、中国で大勢人を斬った、というのですね。
自慢というか、嬉々としてというか。
真偽の確かめ様もないことで、大ホラかもしれないの
ですが、イヤな感じのする人であったことは間違い
ありません。

ソ蓮もアメリカも外国へ軍隊を出しては非人間的な
ことを繰り返しています。

戦場に出ると人間は変わるそうです。

自分たちにもそのオソレが充分にあるハズです。
違うと言いきれる自信はありません。

そこまで極限のことを考えなくても人間のあやうさは
否定できないと思います。

こういうこともキチンと踏まえておくことが必要なの
ですね、我々の仕事では。
3.23

④浅利・おから

2007-03-30 05:55:25 | 食べる
話が重くなってきつつあるので息抜き。
ひさしぶりに「食べる」シリーズです。

潮干狩りの季節。

塾でも学校でもしないことでしょうが
こういうことはご家庭でできる最良の教育です。

瀬戸内海もずいぶん綺麗になっています。
昨年はエイの食害などで不漁だったそうですが
宿題を見てやる、など暫く棚に挙げ、
春らしく「潮干狩り」いかが?

アサリが掘れたら砂出しして鮮度のいいうちに
酒蒸しにしましょう。
身と汁に分けておきます。

おからの作り方はインタネットで検索して下さい。

ミンチを使うレシピなどもありますが、肉は使わず
昔ながらの卯の花にアサリが入るだけです。
出汁に貝汁を1/5くらい加えます。
身は後からいれ、加熱し過ぎないように。

全体がポタポタして、ゆるいかなあ、というくらいで
火を止めるとよろしいです。

おからはアサリに限ります!
この料理は私担当。尾道の味です。

(スーパーなどでアケミで売ってますが余り・・
 買うならば殻つきですね)

それにしても、町から豆腐屋がなくなっておからが
手に入れづらくなってきました。

最近は袋に入った新タイプもあります。クッキーには
良いでしょうが、料理にはイマイチかなあ。
おからクッキー、いいですよね。
ただしいわゆる「懐かしい味」
子供にはどうかな。

おからの料理だって私は子供のころ好むものでは
ありませんでした。
今の子でも少々オイリーにしても余り食べてくれ
ないかもしれません。

けれども、若い頃に本当の味を知っておけば大人に
なってから味覚が良くなります。
お金をあまりかけなくてもソコソコのものを頂く
ことができます。
生きることについての良い教育ですよね。
3.24

⑤シベリアから帰国した父に歯はなかった

2007-03-30 04:59:17 | 塾あれこれ
先日の「日中戦争」のフォローをしておきます。

私は学者でも専門家でもないので客観的なことを
調べることは出来ません。

したがって、どの程度の事実であったか等は不明
ですが、さもありなん、ということでもあったよう
に思っています。

悪行に言及すること自体は国辱的だとは思いません。
都合が悪いことに触れないほうが良くありません。

勿論ことさら露悪的になることもいけません。
いわゆる自虐的な表明も感心しません。

反対に「日本だけが悪いわけじゃない」という人も
おられるでしょう。私もそのとおりと思います。
けれども、だからといって良くないことはよくない
と言わない事も大きな間違いです。

戦争なんてそんなものと言う人もいるし、そうだろう
とも思います。
けれどもそんなものである「から」触れずにおく、と
いう考えには賛成できません。


更に、そのような事実は「一切」なかった、という人
もおられるかもしれませんが、そこまでゆくと事実を
誤認しています。

わが父も戦場で実見していたそうです。

人を斬殺した人間の顔のものすごさは、時に、父の
もらしていたことです。

父は大の共産主義嫌いでした。
シベリア抑留のひどさも重い口から少しだけ聞いた
ことがあります。
歯が一本もなくなって昭和23年帰国したそうです。


こんな話は教育に関係がないとか、偏った教育をする
人が話すことだ、というのも不適切でしょう。

教育に関係する限り、人間という存在を真剣に考える
必要があるからです。

・・などと書きながら、何で聞かれもしないこと、
あえて言う必要のないこと、面倒で誤解をうけるかも
しれないことを書いているのか、と思う自分でもあり
ます。


本題に戻る前に時間がなくなってしまいました。

私自身は万一戦場に赴けばどうなる?
非人間的になるか、まったく自信がありません。

自分が行かないだけで済ますわけにはいかないと
思いつつ、そうならないことを祈るだけです。
(トシだから徴兵はないですけれども)

この辺りは、遠く「体罰」など教育に関係してく
る問題です。

何も戦争まで引っ張り出さなくても、という意見
もあるかとは思いますが、大切な話です。

右も左もこの件に関してはヒステリックで
考えなければいけないことなのに、触りたくない
空気がありますよね。
3.25

⑥蛸は刺身

2007-03-30 03:31:05 | 塾あれこれ

タコは刺身が美味いですね。
イタリアンもいいけれど。

刺身はナマです。
茹でたやつを刺身とはヘン!
海老を茹でて刺身といいます?

ナマは調理がたいへんですよね。
足だけにしても活発に動き調理人に
イボで「かみつく」ので痛いらしい。
切りにくいでしょうし。

尾道では本当の刺身ですが芸州広島では
知らないらしい。
周防大島の辺りではナマだとか。

瀬戸内海のタコは美味いですね。
ただし、高いので手が出ない。
いわんや、刺身など十年以上も頂いておりません。


タコは芋畑に出没する、という話を老人から聞いた
ことがあります。
マジに聞いたのですが、からかわれたかなあ?


ナマといえば子持ち蝦蛄の刺身。
十数年前、カミサンと結婚する前に尾道で頂いた、
あれも絶品でしたね。リッチじゃった。


今年初めてツバメを見ました。
川面ではまだ鴨が泳いでいます。

『ひゆひゆと帰り支度か鴨の鳴く』


浅い海に腰まで浸かってタコ獲りをする老人を
思い出します。
ドキュメンタリー映画ですけれど。

きらきらと太陽を反射する海は透明で美しく
瀬戸内と似た景色に思えます。

老人も不自由な体ではありました。
水俣の海です。
3.28

⑦海は豊かだった

2007-03-30 02:37:02 | 塾あれこれ

4月のナショナルジオグラフィックは魚と地球環境を
特集していますね。

瀬戸内海も汚染は一時ほどひどくないにしろ様々な
工事などで海は荒れているようです。
架橋工事はあれで良かったのかなあ?


少し前、まだ海が生き生きしていた頃。
水俣も豊穣な海だったそうです。
そこで獲れるもっとも新鮮な魚を沢山食べていた人々
がやられた。
魚に関しては漁師さんたちが最高のグルメですが
多くの水俣病患者がその屈強な人たちから出ました。

網元をされ集落の中核の一軒であった方が病気に
なったときのことです。
当時は原因不明の恐ろしい病気という認識が一般的
であったため「村八分」にされたのです。
米すら売ってもらえなかった。患者の家の人から紙幣
を受け取ると伝染るかもしれない・・

今なら否定できますが、その時点では一定の説得力が
あったウワサ話ではないでしょうか。

大変な状況に置かれても、ご主人は「あんひとらも
よかひと」と許されていたそうです。


自分に自信が持てないのは、もし私がその村にいた時
村八分する側に回ってしまいはしないか、ということ
です。
ウワサに惑わされたり、自分が村八分されるのでは
と恐れたりしないだろうか?

今の子供達などのイジメとよく似た構造ですね。

であるならば、いったい自分に「教育を語る資格」
があるのか?
子供達にエラそうな口をきけるか?


立派なことは学校の先生にお任せして
「塾は受験」でよいのか?
良くなければ、どうする?

自分のことは棚に上げておいて、教育だから子供には
理想論を説けばよいのでしょうか?

あるいは開き直って「どうせ塾なんて・・」か?

逃げる口実もいくらでもありそうです。
政治的な話はいけない、なんてのも。


また、組織で塾をしていれば
社員やパート、アルバイトにどんなスタンスをとって
もらうかも大きな問題ですよね。

そこまで管理できるか。
思想信条に立ち入るのか?

けれども経営者だけの問題ではないので、どうしても
何らかの姿勢は必要でしょう。

とはいえ、そんな塾がどれほどあるか?

まあ、よそ様はおいて
さて自分ですが・・・
3.29

⑧怖がり

2007-03-30 01:12:04 | 塾あれこれ

新聞記事に「早生まれの損得」がありました。
常々懇談では私の話に出ていますが、結構影響がある
というのが私の経験です。

よく話に上らせるので皆さんもご存知でしょうから
いつかネタギレのときにでも申し上げます。

これに限らず、子育て、幼児~小学生の間は人間形成に
大きな影響があります。

私は父が長男で、その長男ですから、昔風に大切に
育てられたようです。
自分も「貧乏人のオボッチャマ」を自覚できる所が
あります。
しみついた悪癖は抜けませんね。

勇気がありません。
「ああアブナイ・・」ばかりで育てられたのでしょう
運動神経も悪いし、我侭で、怖がりで・・

作家の小林信彦氏が書いておられたので安心しました
が、彼は震災記念館が怖かったそうです。

私は原爆資料館が怖かった。

小学校4年まで尾道で育ち、広島市に転校しました。
つまり小さい頃は原爆を実感したことがなかったのです。

広島で、原爆の後遺症と思われる方を見た私は
ひどく怖がりました。
顔にケロイドがある方も多くおられたのです。

中学生になっても、そういう方と出会ったりすると
次から同じ時間同じ道を避けるようにしました。


今思えば父がそういう私を教育として資料館に連れて
行ったのでしょう。
小学校5年だったと思います。

強いショックを受けました。

その後も例えば電車で中電前くらい、資料館に近づく
と思うと全身が総毛立つのです。もちろん西の方向へ
すら向けません。

ただ怖がるだけではいけないと教育してくれました。
(コワイのは抜けなかったけれど)

原爆の話などサヨクの専売特許、などというステレオ
タイプの発想をする人がいますが、サヨク嫌いの父の
存在を知って欲しいものです。

広電の運転手をされていたTさんが、静かに運動を
されているのを最近知りました。
この方もそんなタイプには見えません。
(記憶では第二組合の方だったですし)

話が外れてきました。


今、思うのは中学生くらいの少年にコワイと思われた
原爆症の方々の気持です。

自分はなんという反応をしたのだろう、その方たちの
気持を考え、取り返しがつかない思いに捕われます。


ふっと浮かぶ気持、ちょっとした視線
それだけで人を傷つけてしまうのです。

子供を相手の仕事をしつつ
いつも気になることです。

弱い人間はこんな仕事に向いていないのではないか?
3.30

喜びも悲しみも幾年月

2007-03-18 11:31:59 | 塾あれこれ

先ほどラジオで映画の主題歌が流れていました。

『喜びも悲しみも幾年月』

昭和32年です。子供だったので封切当時は見ていません。

尾道駅(南口)を出て左前方に松竹がありました。
そこに灯台の形をした看板が出ていたのを覚えています。
その上部がピカっと光っていたハズです。

亡父は映画好きだったので見ていたでしょう。

私は大人になって見ましたが
若い時分で、印象はよくありませんでした。
「長いだろ」

先ごろテレビで再見。
印象は大分よくなりましたが、木下監督には他に良い
映画が多いので、比べると落ちますね。

ヒットと出来と反比例する作家かなあ?

ただ、あの看板は良かった。
小学生の私はアホみたいに見とれていた・・