名文

2009-09-04 09:31:42 | 本の話
昨日に続き引用します。

「 昭和十五年二月に、二世市川左団次が亡くなった。
 年は六十一歳だった。
  それはついまだこの間のことのように思われるのに、
 爾後もう三十数年という歳月が流れているのだから驚く。
  市川左団次の死は突然であった。・・」

こういう書き出しをされるとそのまま引き込まれます。
まったく普通の書き方ですが、良い文と思います。
誰でも書けそう。だから名文なのです。


先達の名文にあこがれることはできても
そのうち少しでも良いから自分のものにすることは
至難です。

もちろん名人のクセや雰囲気をモノマネ芸のように
真似ることくらいはできます。
エンタテインメントの世界では面白がられるでしょうが
人生の修行時代ならいざしらず、大人になって自己の
確立していない文章は評価されません。

影で笑われます。

まことに恥ずかしながら、私が笑われたクチでした。

三島由紀夫は文章修行として名文を書き写したと
聞いた記憶があります。
これも三島だからそれで力がついたので我々凡人では
結果がでません。

一字一字写してみても、名文たるユエンを感得、分析
できず、ただ手がだるいだけで終わってしまいます。

ごく若いうちに、漫画の好きな子が誰かに似せて描く
ように、意味も分らずとにかく写す、これは修行に
なりそうな気がしますが、気がするだけで根拠は
ありません。

総じて名文志向は非生産的と思えます。

本人は名文を書きたいと思っていながら実は
破綻した文を描いている、そのうえそれに
気づかない・・恥ずかしいことですね。

昔はシミチョロといって本人が気づかないことの
形容にできたものですが今は何というのでしょう。

いや、文化から(恥)が消え去ろうとしているから
別に構わないのか・・

実は私も30才くらいに百などを写してみました。
遅筆の人でしたからこちらもじっくりと原稿用紙に。

引き写す間は普通の文章なのです。
どこが良いか分りません。
もちろん、写し終えたものは名文!

テーブルマジックに騙されてアホ面しているように
タネもしかけも分らないのです。


名画・名曲の基準だって分らないですよね。
ましてや文章となると何を評価するのか根拠が、ね?

ですから人によって名文の選択が異なります。

異なっても評価に共通点があればまだ良いのですが
私には分りません。
いろいろな文章読本も勉強したのですがねえ。

人により違うものですが、私はよい文をこう考えます。

*考えが練られている
*持って回った言い方をしない
*饒舌でない
*気取らない
*不要な修飾をしない

普通の人間はプロがギリギリで成立させているワザを
真似てはいけないのです。

こんな文のブログを描いている人間が「名文とは何ぞ」
と言えば笑われてしまいますが、塾では作文指導なども
あるので、一応の考えを持っていなければなりません。

もちろん「名文指導」は(をこのさた)
いたしませんが、良い文への指導はできなくては。

さて、名文とは

*一読、意が通じること
*文の奥が深い
*さわやかなリズムがある


ここで今日の最初に引用した森銑三の文をご覧下さい。

好いでせう?