他塾を紹介する

2016-07-21 13:50:20 | 辞め塾通信
「すみません、ウチは今一杯で。
他に良い塾ですか。
~にお問い合わせしてみられませんか」

自宅で塾を始めたころ、こんな話もしばしばありました。

私が山口塾を辞めてその後、続くようにして
独立された方が多くおられました。
場合に寄ればその方たちへも紹介しました。

その後暫くして「紹介してくれて有難う」がないことに
気づきました。
折角、客を紹介したのに口先だけでも一報があって
よさそうに思ったものです。

「ふーん、千客万来ですか。宜しいね」と受け取られたかも
しれないと気づき、以後は「私の名前は出さないで」と
付け加えるようになりました。

「実はあの先生とは巧く行ってないので。
いや、塾の先生としてはきっとご満足いただけます。
試しに電話をなさって見て下さい。
くれぐれも私の名前を出さないで下さいね」


上記のようなヒガミは無かったのだろうとは願いますが
少なくとも紹介されると案外に後でやり難いことにも
気づきました。

ダレソレに紹介された生徒、ということが
こちらの立ち居振る舞いに微妙な影響を及ぼすのです。

叱って辞められるなんてことになれば大変です。

私の塾にも上記のように紹介を頂いた生徒がいました。

「そうか、けっこう難しいな」
すぐに気づけよ、であります。

お遣い物

2016-07-03 13:38:02 | 辞め塾通信
時代の所為もあったのでしょうが、山口塾の塾長へ
生徒保護者の方から沢山のお遣い物を頂いてました。

生徒数も多かったですし。
実際の様子は存じませんが、年末に講師へ
その頂き物を分けて下さいました。
頂戴していた量もかなりと推測する所以です。

高級な洋酒とか、商品券とか、私たちへおすそ分け、
ボーナスの足しでしょうかね。

塾長もご自分で取り込んでしまえば良いのです。
誰も何とも言わないでしょう。
そこを配るのが塾長流。

私もそれを頂きましたが、ダレソレからというのは
分かりません。

生徒全体に、心の中でお礼を申し上げるだけでした。


もし、ダレソレからと分かっても困りますね。

その生徒をエコヒイキするわけにいきません。
皆、平等です。

もし、扱いに差が出たとすると受験にプラスか?
たぶん反対でしょうね。

保護者のお気持ちも「差を付けろ」ではない筈。

上記のような状態で頂き物というのは、物質的には
有り難いのですが、「お返し」ができません。

貰って当然、という講師もいるかもしれません。
が、私には出来ない芸当です。


自宅でするようになって、頂き物もありました。
時代ゆえに少ないながら。

お気持ちはとても有り難いのですが
そのお気持ちに応えられないのが辛いですね。

予めお断りをするのも、ホンネは呉れ、と
言う感じになりそうで、出来ませんでした。


塾を止めたからできる話題、の一つでした。

ほぼ6年かかる

2016-06-30 15:12:56 | 辞め塾通信
私は小4生からの塾に関わってきました。

小3から前はとても難しいですけれど
小4になるとその人の個性が明確に、分かり易くなり
勉強などでの「人つきあい」がしやすいのです。

小3以前は私にとってお金を頂いて出来るものでは
ありません。
人さまの人生を考えると、万が一にも失敗する訳には
いかないことでもあります。

と、難しさはいくら強調してもし過ぎることは
ないのです。

何しろ、生まれてから10年ほどしか経っていない!
4月生まれも3月生まれも一斉授業・・とは。
個人差も大きいのに。

一斉授業に放りこまれたままなら、苦手な部分が
残る人も結構いるのではないでしょうか。

算数はそのことが分かりやすい教科です。

小学の高学年で算数が苦手という子は
かなりの生徒が「ちょっとした所」で躓いています。

十進法の、繰り上がり、くり下がり、
掛け算の意味、割り算の意味、
九九そのもののマスターや使い方
・・などなど。

(何回も書きましたっけ)


どこで躓いたか、が分かっても、直接それを指摘したり
露骨な対策をとってはいけません。
更に嫌いになっちゃう。

講師の頭だけに留め置き、少しずつ改善してゆくのです。

長い時間が掛かるかもしれません。
でも、およそ中3くらいまでには何とかなりそうです。

得意になれるかは微妙ですが、少なくとも超苦手からは
脱出し、普通の子に負けないくらいまでは追いつきます。

試験対策にもなるのですから有り難いですね。


「勉強する」とはどういうことか。

あいまいなイメージでも構わないから、その子なりの
解答を持てれば、なお良いことです。

最近は柔軟性に欠ける生徒が多いようです。
ご返事だけは良いのに、実は頑固。

こんな生徒はタイヘンです。
個性尊重だとか、自分を大切にしたいとか
わがままな世界を改められません。

この世にたった一つの大切な自分、ですが
アホゆえの唯一性ならば何をか言わん。。。

もちろん、人間として個の尊重は当然です。

「あんたね、こちらも商売だから言わないけどさ
 それって大人になったら困るかもしれないよ。
 だーれも教えてちゃくんないけどさ」

羽生の眼鏡

2015-05-24 14:54:20 | 辞め塾通信
「閉店セール」と店に貼っておきながら
いつまでたっても営業しているところがあります。

残念ながらお客様の姿はまず見えず、昭和風の店内が
みごとにノスタルジックです。
平成の間じゅう、そのまま開店し続けるのかな。

人さまのことは言えません。
我が塾も閉店宣言をしっぱなしで、まだやってる。。。

完全に、隠居の暇つぶしです。
こちらから月謝を払わねばなりませんか?

このブログもそういう面がありますね。
止めそうで、やめない。

読んでいただいている方には申し訳ないけれど
いわゆる「ボケ防止」

けれど私を知る友達などからは
「何をエラ気に書きよる」・・笑止千万らしいです。
ごもっとも。

たまたまどこかで私がブログを書いていると知ったよう。

どうせそんな人は二度と当ブログは見ませんから
止めろと言われても、圧力は小さいものです。

ただ、冗談半分にしろ、ちょびっとは気になります。

もちろん彼への恨み節ではありません。
「身の丈に合う、お前に似合うことを」という
アドバイスなのですから。

けれど、塾も辞めるはブログも辞めるはでは
完全にすることがなくなるん。
何しろ無趣味ですからねえ。

タイトルから話が逸れちゃった、すみません。

進学塾での指導

2015-02-01 15:09:12 | 辞め塾通信
パーキンソンで通う病院から出た処で、ばったりと
山口塾に勤めていた同僚に会いました。

彼の自宅からは遠い場所ですが、ウオーキン中。
それにしても宮島街道を散歩とは・・・

「ここんとこ山口塾に関わる方が多く亡くなられて」

そんなことを言われれば私も「実は、」と
病気の話をしなければなりません。

(あ~、ヤだね)


山口塾が勢いがあった時代、講師も勢いがありました。

心身ともにハードではありましたが
大袈裟に言うと「七人の侍」風かなあ。
お互い自由に競ってもいました。

私もその隅っこの方にいました。
(人により異見があるかも)

進学塾の授業は楽しいものです。

彼らが未だ知らないであろう新たな物の見方
豊富な量の知識
・・などを披露すれば生徒は目を輝かせます。

気持ちが良い授業になりますね。

生徒にも確実に役立っているであろう手応えも。

詰め込み、という批判もあるでしょうが
伸び盛りの頭脳に詰め込みは有効です。

そのようになっていない生徒への詰め込みがバツ。


有効な詰め込みであってもそれだけでよいのか、
と言われる向きもあるかと思います。

そうかもしれません。

ただ、戦後だけでも何十年、塾は詰め込みをしました。
塾の教育をうけ、社会生活を済ませた人もいます。

その「実証」は?
多くの方々が立派な人生を送っておられます。
詰め込みだから悪い、とは出てきませんね。

塾が良いかどうかは分かりません。
少なくとも、良くなくても弊害は小さいようです。

何より、生徒には自分で伸びる力があります。
少々のヘマ教師の影響など、簡単にブっ飛ばしますね。

しかも学校という長い時間の間には良い経験も
数多くあるハズです。

「詰め込みがあること」は悪いものではありません。


詰め込みが悪いのは、生徒の態勢が整っていないのに
詰め込まれる場合。

誰だって拒否をしてしまいます。

或は、詰め込まれた知識をただストックすれば良い、
という勘違いをおこす場合。
知識は自分のフィルターを通し咀嚼して
「自分の言葉」にしてストックすべきものです。

そうすればあとで自在に活用できますね。


山口塾の初代塾長は算数の授業をよくしていました。

難しい問題が好きでしたね。

「たとえ消化不良になろうとも難しいものを!」

これも一種の詰め込みです。
しかし生徒の頭をフル活動させています。

どこか、教育学の林竹二さんに通じますね。

ほかの教科も同様です。

家康、家光、吉宗、慶喜、これだけを教えて済ますより
少なくも家斉の政治を教えるだけで、どれだけ
江戸時代の理解が進むでしょうか。

受験技術としても、頻出の人が常識に思われるという
メリットもあります。

受験問題を解けば「出る順」は分かります。

出る順にしか焦点を当てない授業より
沢山を詰め込むほうが省エネの受け身人間を作りません。

「これは(入試には)出ないから」
「出ても、捨てればよい」

こんな詰らない発想は「正しい詰め込み」からは
遠いものですね。

「私」と「公」

2015-01-25 15:49:21 | 辞め塾通信
『花燃ゆ』でも大きなテーマになっています。
公と私。

当然、いまは幕末維新の時代ではないのですが、
現代でも重要な基準であることに間違いはありません。

もちろん、旧来から「公」を振りかざして人間を
省みない傾向も強かったので、その反省から
戦後は「私」も重要視されてきました。

それもあって、「公」を言うのはいささか迫力が・・

けれど、私が思うに、個人の生き方を決める場合
今でも非常に役立つポイントなのです。

「それは自分中心でそうするのか、
 人さまのことを優先させているのか」


生物は本能的に自己保存の本能がありますから
人間も、放っておけばジコチューで行動します。
「私」中心。

その場合に間違いが無いようにチェックをしてくれるのが
「公」という視点ですね。


いささか口はばったいことにもなるかと思いますが
話題を私の卑近なことに限定します。

塾での仕事。

私が常に考えてきたのは、それは自分のための行動か
相手のためを優先させているか、ということでした。

学校の仕事も塾も、場合によっては生徒の人生を
左右しかねない仕事です。

もちろん人間というものは自己で伸びる力が強いですから
たとえ下手な塾で酷い目に遭っても立派な成人になるのが
通常です。

けれど、あの先生のおかげで数学が苦手になったとか
英語が嫌いになったとか、・・そのまま社会人になれば
本来持っていたポテンシャルを潰されたことになります。

苦手意識というものはじつは回りが植え付けてくるもので
多くの場合勉強途中の躓きでそう思わされるものなのです。


全てではないにせよ、人の人生を左右するかもしれない仕事で
教員が、生徒より自分を優先させることは不可!
「公」と「私」の視点が必要となる訳です。

その子のためになるのか、塾の経営を優先させてるのか。

数値化は難しいけれど、「まず子供のため」であるかどうか
これは判断可能でしょう。

辞められるかもしれないけれど叱れますか?
塾経営を優先させて、腕が縮こまってやしませんか。
逆に自分の感情に任せてキレていませんか?
必要なつっこみを手控えていませんか。

「ま、ええか、このくらいで」は危険です。


ご家庭でも全く同じですが物を教える時でも「公私」は
存在します。

(教えない、教えすぎない)の立場で以下書きますね)

「先生、分かりません」
「どこですかね」
「○○です」
「どう考えてみました」

以上のやりとりでも場合に寄れば「私」が出ています。

「ははあ、そう考えた。良いですね。
 で、どこで止まってる?」

ご家庭でも同じですが、このリードには明らかに
若干ではあれ、危険が潜んでいます。

もしも良い塾と思われたいために少しずつリードしようと
いうのなら、もう危険ですね。
「私」優先になっています。

もちろん相手の状況に寄ります。
それによって良し悪しもコロっと変わる。

けれども大概は子供にむけての親切のつもりで
実際はミスリードが多いようです。

あるいは教育の形をとった説教。

説教されて子供が何かを得ますか?
ほとんどが子供のためにはなっていません。

つまり「私」優先。

平凡なことでもありますが生徒中心主義が
「公」

細やかな洞察力、共感の心が必要。

案外、肉親の方が難しかったりして。


急いで付け加えますが、上記はリクツの話。
私が良い仕事をした、なんて話じゃありません。

先輩づら

2015-01-22 17:01:09 | 辞め塾通信
はい、私の悪い癖でした。
先輩風をふかすとまではいかないでしょうが
「先輩だから教えてやる」・・が多かったようです。

威張るとか、上から目線を送りたがるとかではなく
こちらとしては親切のつもりで
「あ、それ。上手くいかないよ。 
 ・・・
 ほら、言ったでしょ」

自分が苦労して見つけたことでも、同じ組織内では
共有することが当然と思い
「オレさ、○さんとこで大失敗しちゃったの。
 何がってさ、アレはこう、と思いこんでるじゃん・・」
トクトクと続きます。

その当時は気づいていなかったけれど(馬鹿だね)
ずいぶん嫌われていたようです。

(私がトライしてるんだから最後までやらせてよ)等と。

こちらは労力の無駄を排す、親切だったのに。

言われた通り失敗するから、よけいアタマに来るのでしょう。
でも、あんたも一種の八つ当たりとも言えないかい?


私の側だけの責任じゃないこともあったかもしれませんが
現実は、一方的に嫌われて、おわり。

ジントクがないっちゅーのは情けないものです。


数年前、体調を考えて新規募集を止めた時
「誰かを雇ってノウハウを伝えれば。
 折角苦労したことを使ってもらえれば」
というお話もありました。

もしかすると救われる子がいるかもしれない・・・
ま、それほどの仕事はできていませんが。

ただ、人を雇う責任が怖かった。

先輩面して説教垂れている自分が醜かった。

バカだからすぐ「あ、それはね・・」と
やっちゃう。

あと、自己嫌悪

苦手な生徒

2015-01-04 14:04:58 | 辞め塾通信
塾の名前を冠したブログですから、もっと仕事に関する
ことも書かなければなりません。
塾を辞めるのですから、営業にも縛られませんし。

ところが書きにくい。

様ざまなことが関係しそうで、もし万一誰かに
悪くとられるかもしれない風に書いてしまっていたら、
大変です。
気づかないまま書いてしまいそうなのですね。

どうしても、表面的な内容になりがちです。

以下、ネタが少ない中から


私が苦手な生徒のタイプは?

勉強というものは、訊かれたことにマルで答えればよい
と思い込んでいる生徒でした。

長くやってると時たま出会います。
人間だれしもそういう傾向がありますが、極端な子。
ガチガチにそうなっているときがあります。

何か訊かれると、即座に返事がきます。
考えていないんだから早いの何の。

「一番。
 え、違う?
 じゃ二番だ。
 えー?三番なの、じゃ、そ・れ・で」

三択問題でも一気に済んでしまいますね。

少しは考えてもらわないといけません。
(ちょおっと待ってね、初めにこの問題で一番って
 答えたよね。どうして一番って思ったのかなあ)

もちろん明確な答えはありません。

「たぶん、雰囲気で一番がそうだと思ったから」

でも「長~く」人生をしてきてるお蔭で、そう言うと
叱られそうと知っていますから、結果・・もぐもぐ。

(一と二と答えの内容はどこが違うのかな、分かる?)
(そう、ここだね、じゃ問題文には何て聞いてある?)

ここらあたりで、もうしっかり説教されている気分でしょう。
「メンドくせ」・・・黙っておくに限ります。
どうせ何か言っても、・・文句がくるだけ。

「いいじゃん、答えは三なんだから」


大人になれば、まず答えを探すという方法論はアリ
ですが、小学生の勉強はそれでは不十分です。

まず何より、考え方を身につけることが大切ですから。

少し触れましたように、人間には訓練も必要です。
(ににんがし)はゲーム感覚でよろしい。

ただそればかりを勉強と思い込んでしまうと
取り返しがつかなくなるオソレがありますね。

中学生くらいになっても、○×志向の強い子がいて
そのワリに成績は悪くない子がいます。

「それじゃ、すぐに行き詰るから」と言っても
ピンとこないらしい。
何しろ学校の成績は悪くないのですから。

そういう子をよく見ると、やはりほぼ考えていません。
自分で答えを導かなければならない場合は
「やり方」に頼ります。

とにかく、模範的なやり方を探し、理解しなくても
答えを出せばよい、となります。

こうなれば「手遅れ」です。

もちろんそれ以降も人間として成長する部分は
あるでしょうが、人により将来が・・・

少なくとも本来は持っていたであろう可能性を
完全につぶしてしまっています。

大雑把な感想で言いますと、小4くらいで、もう
重症になってしまっている子が多いようです。

真面目な子なのか、廻りからの重圧がひどいのか
本人には罪の大半が帰せられませんが
そうなっている子に「自分で考える」ということを
分かってもらうのは大変なんですよね。

信念だって・・ああた・・

2014-12-29 20:35:49 | 辞め塾通信
信念をふりかざす人がおられます。

譬えで申し上げるので、もしそういう方がおられて
心外だとお怒りになるようであれば申し訳ありません。

「お勉強にはクラシック音楽を流すとよい」とかね。

根拠はあるのか、どんな研究がされたのか、
どうも怪しく、よく聞いてみれば
「それは、僕の信念です」
なんて答えが返ってくることがあります。

客観的な数字も、説得力のある論理もなく
仰っているようです。

「個人の勝手」といえばそうなのでしょうが
仕事に関わってくることに、宣伝文句だけで
適当なことを言い散らし、最後は「信念」
ってのは(逃げている)に間違いありません。


確かに、哲学的に押していけば、全ての根拠は
当人の「信念」となるという考え方もあるでしょう。

しかし、だからといってすべて正しいとは言えません。

私は個人的には、野球の練習などで、宗教まがいの
修業(火渡りのような)をやらせるのなんて
その信念、間違いじゃないの、と思いますね。


私の信念=子供への愛情は裏切らない、ことです
なんて、どうも怪しいことを口走る人もいます。

何でもかんでも、愛情で片付けちゃうから。

塾関係者にそういうのがいたら
「ほんまにそれで塾の教育は上手く行くの?」と
聞いてみたいですね。

「信念です」と答えが来そうですが。


私は上記のような面で間違えたくないので
(最後は信念、かもしれないけれど)
より確実な道を探したいと思いました。

教育って数十年たたないと結果が分からない、こともあり
25で教えた結果が定年にならないと証明されない、なんて
ことになります。

それでは一生かけて間違っている方法で教え
かつ
教えられたほうは自助以外に救いが無い
なんてことになりかねません。

私は「歴史」に根拠を求めました。

何千年、何万年かけてこどもの教育をしてきた人類の歴史に
「正しい教育法」が残されているに違いないと。

それが(教えない教育)だったのです。

井上なんぞに教育を語る資格はない、と仰るのも正しい
のでしょうが、
ま、ここは私の「信念」・・・

くちこみ

2014-11-21 16:47:08 | 辞め塾通信
辞めると決めていても書けないことが多いと
分かって来ました。
いざとならないと分からない、というのは
我が鈍さの証明ではあります。

その上、関係者がお亡くなりになられると余計に難しい。
反論などができない方のことを一方的に書くことになり
それは宜しくありませんから。

そこで塾以外の様ざまなことを書いているのですが
塾のブログなのか、引き籠りジジイのぐちなのか
分からなくなってきています。

じゃあ、恥ずかしながら塾のグチでも。


塾ですから良い評判も悪いものも発生します。

人間の相性や、保護者の方の教育方針、などが
関わりますので、悪い評判を出さないのは至難の技。

若干の悪い話もある、というくらいが普通ですかね。


大きな塾、大きくなくても講師が複数いる塾と
個人塾とではクチコミで違いがありそうと
考えるようになりました。

個人塾はクチコミでは若干弱いのではないか。
(グチっぽくてすみません)

発信量が小さいのですから、良い評判があっても
広がりに時間が掛かります。

近頃のようにクチコミが広がり難い時代
またクチコミへの評価が小さくなっている時代では
なおさら、発信の量と速さの違いは大きいですね。


これはどの塾でも同じでしょうが、良い評判と
悪いものとでは、悪い方が強く早く広がりそうです。
中にはデマや悪質な営業妨害もありえます。

良い評判の発信の場合は、人さまに尋ねられて
「うちの子は○○塾、良かったですよ」となります。

悪い評判は自分から広げられる方が多いでしょう。
訊かれてもいないのに
「ねえねえ、○○塾ってダメよ~、だめだめ。」

もしかして成績が上がらないのは全て塾の所為と
言いたいのかしらん。

悪い評判の場合、個人塾は「悪さの原因」が一人です。

「それってもしかして△先生だからじゃない」なんて
言い逃れができないのです。

複数の場合、上手く行けば各講師の欠点も
カバーできますが、個人塾は良いも悪いもストレート。

たとえ誤解であっても修正が難しい。


話題としても悪い話の方がインパクトが強い!
盛り上がります。

内容が正しいかどうかなどは二の次で
「面白い話」が広まりますね。

その場では「お宅の子も・・」なんて思ってても
広がるのは「○○塾は駄目よー」の部分です。

良い仕事をしていたら必ず報われる、と思いたいですが
必ずしもそうではないようですね。

個人商店がスーパーに負けるようなものです。
資本の力は大きいですよね。


では個人塾はどうすべきか。

他に出来ないこと、これしかありません。

教育の真骨頂でもあります。

金儲けはいけません。
評判に左右されることも。