信頼を得ること

2007-04-30 11:05:26 | 塾あれこれ

教える側への「信頼」が生徒から見た距離を小さく
してくれます。

今までに繰り返したように、友達のような関係では
教育の場では不十分ですから、そういう形での距離の
縮め方は不充分と思います。
友達になれるわけはないしね。
(だから良い、という考えも成り立ちますが)

距離が縮まれば体罰はなくなります。
生徒はバツを受けるようなことをしなくなり
教える側も可愛い生徒をやみくもに叱ることをしな
いようになるでしょう。


昔から「教師は愛せよ」と言われてきました。
(ロリコンの勧めじゃないです!)
実は以前の私にはピンとこない言葉だったのです。

今は痛いほど分ります。
どれほど大切なことか、そして自分に不足している事
であるか。

以前だってまったく愛していなかった訳ではないので
「愛せよ」と言われても受け止めにくかったのです。

自分が思っている「愛している」がどの程度か、これ
も分りません。
異性を恋する事や家族愛などとは少し違います。
確認が難しい。

それに、たとえある程度分ったとしても、次にどこ
まで愛することができるか自信がありません。
客観的なことが掴めないというか、ピンとこない。。

恥ずかしいことです。

そこで別の方向から試みてみました。

ひとつは、自分の力をつけること。
もうひとつは塾のあり方の整備。

これらを助けにして距離を少しでも縮めよう、と。


自分を高めるには何が必要でしょうか。

まず何と言ってもエネルギーの充実。

次に自分の姿勢の確立。
いわゆる思想も含まれるかもしれません。
ただし、伝えてよい事とそうでないことを峻別
する必要があります。
自分の価値観を押しつけてはいけませんから。

三番目が智恵の習得や知識の研鑚。

そして心構えとして、自らの限界を知ること。

最後が、ぶれない生き方をすること。


急いで書いておかねばなりませんが
上記のことをうまくしたいなあ、と願望している
ということであって、私自身が一定の高みにきた、
などというものではありません。

私を知っている人はビックリされるでしょうね。

「なんという大風呂敷!」

酒呑童子

2007-04-29 10:40:00 | 塾あれこれ

夜12時ころの私です。

酒は随分弱くなりました。
安くすみますからそのほうがよいのですが
顔が赤くなるのはいただけませんね。
ビール中瓶1本です。


昔は1日のうちで朝が一番機嫌が悪かったものです。
今は仕事が終わった時が一番落ち込んでいます。

それでどうしても食事のときにアルコールが必要に
なります。(アル中??)

呑みながら軽く食べて機嫌が普通に戻るのです。

その時刻の顔がこうで、あとは寝るまでビデオを見た
り本を読んだりして顔の赤いのが消えます。


写真は唐津くんち、曳山の酒呑童子兜。
よい祭りを持つ人達は幸せですね。うらやましい。

幼い頃、尾道の祭りでは『べっちゃー』
当時は町に子供が多かったからにぎわいました。
怪我をしたり、ドブに落ちる子もいましたね。
最近はとんと優しい祭りになったとか。

祭りでは泥酔に近い大人が子供を追いかけていまし
た。小突かれてあざを作るのが子供の勲章。
今では考えられないことです。

連休前にはまとめねば、と思ったけれど無理みたい

2007-04-28 16:00:53 | 塾あれこれ

筆力のなさを痛感していますが、私にとっては
スッキリ纏めることの難しい話です。

「原則・体罰禁止」
これでも誤解を招きそうです。

本当に必要なときに手が出るのはやむをえません。
ただ、こちらの全存在をかけた事でなければなりませ
ん。
また、潔く責任をとるべきことです。

といっても本当の責任がとれるか、責任を取りようの
ないことだってある、ということを肝に銘じておかね
ばなりません。

なぜ禁止としておかねばならないか。
構わないとすると安易になるからです。
理由なく手を出す人はいないでしょうが、本当に手を
出す必要があったか、怪しいことが多いのでは?

以前、自分の体験を少し書きましたが、周囲が体罰を
していると、後から来た人間は選択の余地がない
ように思ってしまうのです。

殴る先生かどうかで、生徒は言うことを聞く聞かない
を左右するのだと思いこんでしまいます。
そうすると自分も権力と腕力に頼り、教師としての成
長が遅れてしまいます。

話は横道に反れますが、先生の順位付けも良くない
ことです。
順位が低いと見られると、いうことを聞かない生徒が
出てくるのです。

肩書きなども不要ですね。


人間同士としての距離感を小さくすることが体罰に
頼らないですむ方法です。
ただし、友達関係にまで近くしてしまうと、教える
ときに強制力を発揮しづらくなります。

いつも強制してばかり、という意味ではありません。
必要な時に権威を発揮できなければならないのです。

それではどうやって距離を縮めるか。

(いつもここで止まっていますねえ。
 人間として信頼されること、が重要ですが
 またまた、話は・・つづく)

点景

2007-04-26 22:42:58 | 塾あれこれ

昨日も散歩ができました。
土手下からチドリかな?小さな鳥が飛び去ります。
私が驚かせてしまったのでしょう。

上から覗きこむとチュウシャクシギが十羽ほど
行儀よく並んでいました。こちらは逃げません。
細長いクチバシが大きく曲がり、私でも分る渡り鳥
です。

長い望遠レンズと三脚で武装したオジサンが土手を
走っておられました。
水辺ではご婦人が望遠鏡でワッチング。
鳥には多少迷惑かもね。

自然を愛する人が増えるのですから我慢してもらわ
なければいけないのでしょうが。


タスキをかけた若いお母さん(たぶん)が小学生の
下校時立哨をしておられます。

もうすぐ生徒が来る時間。
口にしていたタバコを道端へ。
さあこれで生徒の皆さんとご挨拶ができますル。

でも立哨しない人よりはよろしいのでしょう。

「女の人がハシタナイ」などとは思いません。

あまり良い図じゃないな、とは思います。


私はケータイを持ちません。
申し訳ないけれども、歩きながら片手に携帯電話と
いう図がどうにも品がなく見えてしまうのです。

「あ、ワタシ。今着いた。これから帰ります。
 じゃあね。」

少々の用なら止まって話したらどうでしょう。


「自分の勝手だろ。あんたに迷惑はかけてない!」

おっしゃるトーリです。

私には日本の景色にそぐわない、と勝手ながらも
そう思ってしまうのですが
随分と少数意見でしょうねえ。


写真は「いろは島」の辺りです。
田には水が入り始めていますね。

いつかのつづき

2007-04-25 22:38:54 | 塾あれこれ

体罰はいけないと言う立場をとるにしても
機械的にただ暴力を振るわなければよいというもので
はありません。
人の心に関わる事ですから。
心を傷つけようとすれば眼差しだけでも可能です。

お役所としては決まりがいるのでしょうけれども
作ったとたん、それに縛られてしまいます。
もっと大切なことが隠れてしまうのですね。


その反対の立場もあります。
TVなどで「体罰せよ」と叫んでいる一部のコメンテ
ーターがおられます。

しかし、それだけでうまくゆくとは到底思えず「お気
楽な発言で商売になるなあ」と思います。
ご自分は身内や弟子をぶん殴ってよろしいのでしょう
けれどもヒトサマがどんな気持かは想像されないのか
無視されているのか。

そんなテレビを見るほうがいけませんか?
単に上沼やたかじんが面白いので見ているのでは
ありますが、若干の心積もりもなくはないのです。
それは別の機会にゆずりましょう。

「ぼくらが子供のころは先生なんか軍隊上がりで
ビシイっとしとた。それでええんや。」
こんな発言をザコビッチがしていました。言いたい
事は伝わりますが、果たして全面的に正しいか?
疑問が大いに残りますね。

軍隊がよかったのか、そこでの教育が良かったのか?
その中で体罰がよかったという根拠はあるのか?
ただ戦前の教育に良い部分があったというだけかも
しれないし、戦後の日本が壊れすぎているのかもしれ
ません。
マスメディアでの発言は、たとえバラエティーでも
繰り返し流れると時代の気分を左右します。
できればもう少し考えて欲しいですね。


教える事には強制力を伴う関係があると書きました。
けれども全て一方通行であるわけではありません。

ここで改めて触れるのも恥ずかしいほどの常識ですが
「教える」ということは「教えられる」ことです。

生徒をきちんと一人の人間として認め、リスペクトを
して初めてものごとが正しく伝わると思います。

経験が少なく、知識も少ない人には大人から教える
ことが多いでしょう。
だからといって一人前でないとは言えないのです。
自分たちの中学時代を思い返せばよろしい。
一人の人間ではありませんでしたか?

一定の強制力を伴った仕事をしていると錯覚しやすい
のです。生徒へのリスペクトが欠けがちになります。

だから「こども」よわばりは良くないのです。
半人前と思ってしまい生徒から教わるという意識が
薄れるのです。
自分も未熟な人間であると思えなくなるのです。

そのような「権力者」にただ腕力を認めて教育が
成り立つでしょうか?

戦前だって、やみくもにぶん殴っていたわけでは
ありません。立派な教育者は違いました。

力がないものほど暴力に頼ります。


繰り返しますが完璧に禁止などとは思いません。

人間として自己の全存在をかけてぶん殴らねば
ならぬこともあるでしょう。

浅い考えで機械的に禁止するから妙な社会ができる
と思います。

枯れ木で

2007-04-24 22:30:35 | 塾あれこれ

昨日久しぶりに散歩に行くことが出来ました。
この数週間で河には鴨もいなくなり鳥影が減りましたね。

そのかわりカワセミを見ることが出来ました。
年に数回お会いできますがいつもカメラを持っていま
せん。
ただ、小さなカメラでは写すことは難しそうです。

小さな体にしてはとても速いスピードで飛びます。
体感速度はものすごいものがあるでしょう。
小さいと敵が多いから素早くなるのでしょうね。

ごく零細な塾をしているとちょこちょこと細かく動か
ねばなりません。身近な鳥だとスズメでしょうか。
カワセミみたいに小さくても個性的になってみたい
ものです。

スズメというよりも口数が多いのでモズかもしれま
せん。
ご近所の庭で大きな声をしていることがあります。
まるで口先ばかりの当塾に似合いますね。
仕事をしっぱなしで忘れるのも似ています。

とはいえモズほど強いハンターじゃないし。


話の続きを書かなければいけないのですが
どうも自分の実像と書いてることと乖離が大きく
自己嫌悪風になります。

発信とは難しいものですね。

明日は頑張って続きを書きます!たぶん。

来迎図

2007-04-23 10:30:01 | 塾あれこれ

私の母方の曾祖母は瀬戸内の小さな島に住んでいた女
性にしては活動的であちこち旅行もしていたとか。
(少しだけ記憶に残っているひーばーちゃん)

古い話ですが私は学生のとき米軍統治下の沖縄に
卒論の調査?旅行に出かけたことがあります。
竹富島で話を聞いた老婦人はあの小さな島から一歩
も外へ出たことがないとおっしゃっていました。
まだそんなことがあったのですね。
(竹富は周囲4km位の小さな島です)

学生の頃はウチナーグチや八重山の言葉も聞き取りはある程度できました。

こんな話を老母としていたら、かの曾祖母は太宰府に
行ったけれど自分は行ったことがないというのです。

そこで小旅行となりました。

実は私も九州国立博物館の特別展を見たかったのでね。

一番見たいものは展示の時期が限られていたので
見られませんでした。
ポスターの来迎図は見られると思うじゃないですか?
メイン展示の期間限定とは一種の誇大広告!

でも、その他はなかなか。

絵画や経、彫刻以外にも高校の教科書に出てたような
記憶がある物が並んでいました。

栄花物語 扶桑略記 往生要集 中右記 元亨釈書

母は神宮を、私は古書の観光をした気分です。


母は太宰府旅行では少しクタビレタようです。

今まで親孝行をしていませんでしたが、去夏は
北海道旅行を敢行。
元気なうちに次は沖縄観光にでも行きますかね。
・・たいへんです。苦手の貯金をしなければ。


写真は、於太宰府。
おさるさんが「来迎」したのか
オジサンが「来迎」したのか。

禅問答風に「その間にあり」と答えましょうか。

若布シャブシャブ

2007-04-22 18:51:42 | 食べる
久しぶりに「食べる」です。

ご近所から若布を頂きました。なま!塩蔵ではなく。
春ですね。

我家まで春の味が巡ってきました。
行く春を惜しむ、というところでしょうか。

生ですから美味しいうちに頂くべし。

味噌汁とか酢の物などでは量がいきません。

油炒めになりそうでしたがシャブシャブはどうか、
と思いつきました。
料理としてもありそうじゃないですか。

でも、知らない世界ですから自分で考えなきゃ。
こういうときはシンプルに。

とんこつラーメンのスープが一袋あったのです。
これをベースに濃い目のスープを作りシャブシャブ
いたします。他の具はネギだけ。
(もちろん若布は湯通しておきます)

タレはゴマポン酢。
練りゴマもポンズも自家製です。

ネギ以外は新規発生費用ゼロでしかも美味。

ポンズは正月明けにお飾り用橙を安売りしていたので
それで作りました。鰹節はあとで濾すのが面倒で
昆布だけで作ります。
あっさり味ですから頂くときに調整します。

言葉の自然淘汰説は正しい?

2007-04-21 11:26:52 | 塾あれこれ
言葉を守りましょう、というとご親切に教えて下さる方がおられます。

「アノネ、言葉というのは時とともに変わるの。
 だから自然に任せていれば消えて行くものも
 あるし、残るものもあるし。強制はいかん。」

言葉における自然淘汰説ですね。

自然淘汰でうまくいく、というのも一種の信仰とは
気付かないようです。
信仰で表現がきつければ信念と言い換えましょうか。
思い込むという意味では同じようなことで、それほど
科学的といえることではありません。

「考える」ときにアナロジーを使うと間違えることが
あるという好例です。

学者ではないので、最後は正否を専門家にお任せする
しかありません。

そもそも自然淘汰はあるのかないのか。
あるとして人間にとって幸福な方向か。

一つだけ明白なことは、言葉の環境が激変している
ということです。
少し前と違い、高速、広範囲、大容量、低コストで
行なえ、発信の主体も驚くほどに増加しています。

変化が速くなるということですね。

私達が長谷川時雨を読んで「ああ、こんな日本語も
あったのか」と変化に驚くのは仕方ありません。
また実害も非常に少ないでしょう。そういう日本語
を使う人がいないのですから。

ところが現代は
「まず素材に塩を振ります。マンベンに。
 いえ、満遍なくじゃありませんよ、マンベンに!」

同じ空間に正反対の表現をする人間がいて混乱しない
とは思えないですよね。

「おばーちゃん、ナニゲニ窓を見たの。なにげなく
 じゃないよ。」

今風の言葉について行けないので年寄(私)が嘆くので
はありません。

記号を使うと言う意味では言葉と同じ数学でこのよう
なことがあったらどうなるでしょう。
そのようなことがおこらないように強制力が働きます
ね。

病院で若い看護士が「この薬はマンベンなく塗っては
いけません」とか口走ったら、ど~よ?

何時の時代にも流行り言葉や符牒はあります。
若いうちは使ってしまうものです。
「パチンコでゲーマンすっちゃったよ」
なんて言ってたアホが職場にいました。

それと現代の言葉のあやうさとは少し違います。
間違っていることを知らないオソレがある。

おとーさん、おかーさんが日本語を間違っていて
学校での国語教育に注文をつけても無理があります。
天下のNHKで看板のアナウンサーがヒドイ言葉を
しゃべるのです。
それどころか教科書に載る売れっ子作家にもヘンな
日本語が・・

こんなのも自然淘汰でうまくゆくのでしょうか?

基本とアレンジ

2007-04-19 14:03:52 | 塾あれこれ
ヒトと仲良くて四足でワンとなくやつを日本語では
イヌといいます。

なぜイヌというか。それは我らのご先祖様が何かの
拍子?でそう決められたから。
勝手に決めて、根拠はないのでしょう。
ネコは寝子からと聞きますがたぶんこれもアヤシイ。

勝手に決まったものとしてもイヌという言葉は守らねば
ならず、誰かが流行の発音でエヌといってもダメです。
ましてやイヌのことをネコとか言えば混乱しますね。

同様に「満遍なく」を「満遍に」と言われると意味が
反対になり大いに困るのです。(前回を参照下さい)

保守的であろうともイヌはイヌ、満遍なくは満遍なく
としてもらわねばなりません。

その意味での「保守力」が弱まっています。
若者は物を知らないで使い、年寄はチェックしない。
日本が亡国するならば、言葉からでしょう。

政治家など自民党の年寄でも日本語を知りませんから
いっそのこと日本語は止めて英語にしてしまい
米合衆国に入りましょうか?
向こうがダメと言うのでお願いできないのですがね。

話がずれてきました。イヌに戻りましょう。

繰り返しますが、イヌはイヌ。
それがあって初めてワンコという言い方も可能です。

今はもう「ナニゲニ」で通じるのだからよいのだ
とは言えません。言葉には個人の自由はありません。
勝手に混乱させている乱暴です。

保守的な枠を守ってこそ遊びも成り立ちます。それを
守らないのは、税金を払わないで行政サービスばかり
を望むようなヤカラと同一です。
あるいは地球の資源を浪費してはばからないのと相似
で、日本語を食い荒らしているのです。

言葉に限りません。
基本をしっかりとしてバリエーションを広げるのでは
なく、基本を知らないで目新しさだけを追い、面白い
と騒いでいるのです。

このような社会で育つ子供達に文化を伝えるのは大変
ですよね。
一定の権威が必要になります。

タメグチの関係だけしか持てない子供は不幸。
甘さしか与えられていないのです。
これはひとえに大人の責任なのです。

教える側と教わる側の違いははっきりとさせて
おきましょう。
もちろん、最悪なのは実力のないことを力で
誤魔化すタイプです。
昔から数多くいて、私が学校の教師の多くを嫌いな
理由であります。

そんなのでも甘やかすことしか知らない先生よりは
マシですけれど。