『折々のことば』4/30

2015-04-30 14:56:31 | 「折々」読んで
4/30は
『忘れねばこそ思ひ出さず候』江戸の芸者

いまもずっと心にある事ゆえ思いだすこともない。

「激痛に飲みこまれることなく、他者からの同情も拒みつつ
 言い切っている。まことに凛としたことばである。」

と、仰ること一理も二理もあります。
筆者の言わんとする流れに乗れば、ね。

ただ、そんなに誉めるほどかい、とも言えます。


英語のrememberという言葉には「覚えている、思いだす」という
両方の意味があります。
その感触からすると「忘れないから思いださない」とは
感心するほどの言葉でもありません。
当たり前のことで、二重に言っているだけ。

もともとは九鬼周造の文章にある、江戸芸者の言葉ということで
芸者も心意気があったということを伝えるだけのものではないか。

芸者さんの名前が残っていないのも分かる気がします。
結構ふつうに使われていたのかもしれません。

場合によれば、客に「俺を思いだせねえのか」と突っ込まれ
その場しのぎに「忘れないから思いださない、っていうでしょ」と
時間を稼いでいた言い回しかもしれません。


センセ、相変わらず強引なお話ですね。

『折々のことば』4/29

2015-04-29 10:20:48 | 「折々」読んで
レトリックということについて佐藤信夫の著作に出会い
まさしく膝をうったことがあります。

レトリックはただの飾りではなく、ものを考える、こと。

ですから軽はずみな用法に気をつけなければなりません。

決して
「太陽は必ず昇る、わが社も成長する」なんて言い方は
してはなりません。

「どうしてそれが言えるんだ」と突っ込まれます。
「太陽は必ず沈むぞ」と言い返されたりもするでしょう。

太陽と我社の間に比喩が成り立つか、が置き去りだから。


『折々のことば』4/29

『身長が伸びなくなってようやく大人になるわけです』
                      原研哉

一見、理解可能な、文学的表現です。
違うだろ、と言っても、相手には堪えません。
文学ですからね。

鷲田先生は名言だと誉められます。そうなんでしょう。
「成長を目指すのはまだ青いとき、成長のあとに
 やってくるのは実りのとき」
そうかもしれないし、違うとも言えますが。

そのあとにまた話が飛びます。いつものパタンでね。

「この国の現在を考えるとき、心に銘じておきたい
 ことばである。」

含蓄っちゅーものが深すぎるのか、よく分かりません。
たとえとして成立しているのか?

身長が伸びなくなっている・・んですか?
これから、大人になる・・?

『折々のことば』4/28

2015-04-28 10:35:29 | 「折々」読んで
キリがないので4月いっぱいでイチャモンは終了(←つもり)

4/28は、標題のことばとして
『みおつくし(澪標)』古地図の印
と挙げてあります。

はて、古地図といってもいつの時代のものやら
本当に、今の地図のように(たとえば寺なら卍)
印があったのかね。
こういうとこで私の勉強不足がバレますね。

言葉としては、古いですね。
百人一首に元良親王のうたもあります。

(二十)
『・・難波なる身をつくしても逢はむとぞ思ふ』

技巧が勝った歌です。
難波は、みおつくしの枕詞でもあります。

難波にある、かの有名なみおつくし、のように
という歌の意。

素人が推測するに、地図の印よりは歌が古そう。

大阪の市章に「みおつくし」マークというのも
古くからの言葉の歴史もからんでいるのですね。


みおつくし、は身を尽くし、という言葉と掛けて
古来、和歌ではよく出てくる表現です。

(み)は「水」
(お)ではなく正確には(を)で、(みを)とは
水の中の深くなった部分のことです。
船の通り道になります。

(つ)は現代語の(の)
まつ毛、は「目(ま)の毛」のことです。

(くし)は串

つまり「みをつくし」は「水路に立てた串=杭」


鷲田先生が解説される「ほんとうに大事なものを知り
それを守るという志」を表わす、というのは
説明がちょっと行きすぎじゃないかしらん。

杭は、水が満ちれば水面下に沈む存在ですからね。


例によって、最後の文章が分かりづらくなっています。
主語が省略されているのです。

「そう、何ごとにも誠意をもってあたるということ」

何が?

道徳の時間の、有り難いお説教?
昔は恋唄に遣われてたことばなのに。

『折々のことば』4/27

2015-04-27 14:48:32 | 「折々」読んで
『折々のことば』4/27について。
面倒だけれど、ちょっぴり長めの引用をします。

『日本人は寡栄養に強く、過栄養に弱い。』肝臓の専門医

「日本人の体は・・栄養過多にあって脂肪を減らす機能は劣るらしい。
 知人の医師から聞いた。」と鷲田先生は説かれます。

 これに続けて、日本人は無駄を省くことが苦手という趣旨の文があり
「人口減少へと向かう時代、得意のダウンサイジングがなぜできないのか」
と文を結んでおられます。

知人の専門医のお話の是否もありますが、さておき
どうして医学的な体質が日本の社会性に結びつくのか、?です。

ひどく、文学的な、あるいは売れないお笑い芸的な、強引さですね。

人口減少へ「向かう」にも笑ってしまいますが
最後の部分が、また、分かりません。

栄養過多はいけないんですよね、センセ。
無駄を省いてスリムが良いんですよね。
ダウンサイジングすべきなんですよね。
だけれども苦手な、できない日本人、なんですよね。

で、ダウンサイジングに「得意の」とあるのは・・・?
私には、わからん。

『折々のことば』4/26

2015-04-26 09:42:51 | 「折々」読んで
『折々のことば』4/26 さあ難しいですね。

『自分が何に対して自分であるかと言うその相手方が、つねに
 自分を測る尺度となる』
           キエルケゴール

哲学なんて分からんもんね。
どんな文脈で、本当はどんな言葉で書かれているのかも
知りません。

誰かが解説されれば、ははあ、そうですか。
別の説に出会えば、ええ、そうだったんですか。

自分というものが積極的に拘れません。
つまり、本当には身につかないのが素人にとっての哲学。


鷲田先生は、人との出会いとして解説されます。

自分に強い影響を与える人との出会い、
その存在からの直接間接の強い影響が自分を変えている

そこから相対的な視点で自分というものを見なさい、と
言うことなのでしょう。

でも、少なくともキエルケゴールは、訳文でみるかぎり
「その相手方」としていて(また、何に対してとも)
相手方とは人に限らないかもしれません。

(たとえば木彫の作家は、彫る相手の樹かもしれません)
(信心深い人は、霊的な存在がそれかも)

鷲田センセ、リードが少し強引じゃありません?

もちろん、先生の仰る通りかもしれません、はは。

しかしどうも哲学者が、今のことを言ってるらしいのに
つまり人間が生きる瞬間、自分を照らす話であるのに
鷲田センセの解説は、人の一生を見る話になっています。

でも、こんなイチャモン、短い訳文からの悪態で
あまり品のよい話ではありませんでした。

『折々のことば』4/25

2015-04-25 10:02:52 | 「折々」読んで
4/25は芥川の『侏儒の言葉』から。

『瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ』

鷲田先生は、「幸福になりたいなら、日常の瑣事のうちに
甘露味とともに苦しみを感じなければならない」と芥川は言う、と仰る。

続けて「大上段の原則論は日々の細かなことの機微を見逃す」
「瑣事を笑うものは瑣事につまずく。人生の痛烈なしっぺ返し」とも。

ちょっと待ってよ。

芥川は、瑣事を愛するものは瑣事に苦しむ、という意味を書いているのに
鷲田先生は、瑣事を愛さないから瑣事にしっぺ返しを食うと。
それ、ずれてません?


瑣事も愛せ、と芥川は言う、のかもしれません。
苦しみもあるがそれも愛する事だ・・

けれど、反対にも読めそうですね。

瑣事などを愛するから、つまらないことに苦しまねばならぬ。
つまらないことにこだわるのはお止しなさい、とも。

私はどちらかというと、こちらだと思っていました。

もちろん、瑣事を粗末にしてはいけないと思いますが
芥川が何を発信したかというと、瑣事を見分けてこだわるな、
ではなかったかと思うのです。

瑣事ってのはマイナスの語感をもった言葉ですからね。

『折々のことば』4/24

2015-04-24 10:29:35 | 「折々」読んで
ほんとに毎回同じパタンで恐縮です。
今回はトーマス・エジソンを引用しておられます。

『私は失敗したことがない。ただ、1万通りの、うまくいかない
方法を見つけただけだ』

これは鷲田センセが言われる、失敗を糊塗する言い訳なのでしょうか。
(失敗ということはないのだ。)という正当な意見なのでは。

まあいろいろ読めますからね。

続く鷲田先生の文は
「専門家は失敗の山のむこうに発明があると知っている」と
エジソンなどをイメージした内容です。

これは良い。
ただ例によってここから話が違う世界に飛びます。
論理的には、まったくねじれてゆきます。

「画期的な革新が起こりにくいのは・・小心な人ばかりの社会
 ・・になっているからではないか。」

ここだけ抜き書けば、納得できます。
ただし、本文には、小心な人を形容した部分があり、そこが問題。

「失敗しなかったからこういう生活があるのだ、とみずからに
 言い聞かす」→小心な人・・・となっています。

この部分の「失敗」は明らかに人生の選択に関わる失敗であって
エジソンがやってみた試行とは話が違うのです。

あえて申し上げますが失敗が許されないことは沢山あります。
原子力発電所で失敗は許されますか。
フクシマは小心でない人が起した失敗なのか・・

些細なことでは、家の生活のために失敗はできなかった、などと
いう人も大勢いらっしゃるでしょう。
センセの仰る「小心者」「社会革新のじゃま」


他にも論理的でない部分がありますが、今回はケチが長すぎました。
最後に付け加えますが、トライと違って、非論理的な話は
いくら積み重ねても成功への道は開きません。
珍しい、ラッキーな偶然に出会わない限り。

『折々のことば』4/23

2015-04-23 10:18:20 | 「折々」読んで
今日はボードレールのことば。
仏語の詩集の中であえて英語で書いてあるそうです。

Any where out of the world
「この世の外ならどこへでも」と訳しておられます。

「今と違う世界で幸せになれるという「青い鳥」の夢ではなく」
と続けられますが、そうなんですか。
私には「青い鳥」は(痛い)のですけれど。

「逆である。常にある場所から逃れ、住むべき
 別の場所を夢見る・・みみっちい人生」
・・結局同じに思える私はバカかもしれませんが
それにしても、みみっちい、とは突き放されますな。
偉い先生の感覚をみる思いがします。

先生は更に続けられます。
もう一つワクの大きな世界があるようで
「そういう移住の夢で覆われた世界そのものの
 外へ出たいという、そもそもかなわぬ夢。」

そんな夢があるんでしょうね。

住むべき別の場所を夢見る、たぶんよくある話ですが
その「執着」から手を離せばよいだけのことです。

一つ次元の違う大きな世界はあるのかないのか不明じゃん。

しかしそれを文章にしながら「そもそもかなわぬ」とは。

哲学者とは変なことを言いつつ世を渡る生き物のようです。


引用した any where は新聞に2語で書かれていましたので
そのままに書きうつしています。

『折々のことば』4/22

2015-04-22 10:24:24 | 「折々」読んで
『贅沢は素敵だ』
             第二次大戦時の標語のパロディー

本当に「日めくり」に近づいてきたようです。
それとも若い人はもうご存じない世界だということか。

それならば「標語」の存在の説明から必要では?

我々の常識では、標語で『贅沢は敵だ』とされた時に
揶揄をして『素敵だ』と切り返したって話は有名です。

「戦時中に贅沢は敵って言われたのを
 贅沢は素敵、と言い変えたセンス、良いですよね」

という共通感覚が存在していると思います。

「たまには目刺も戴きたいですね、贅沢ですか?」
「いや素敵な話です」

当時糾弾された(贅沢)は勿体ないとは違う実態で
肯定的にも使われていた内容です。


本当の贅沢は物質的なことにはなくて、精神的なことに
あると鷲田先生は説かれます。

そうなのでしょう、異論はありません。

でも話が違う方向になってやしないか
少なくとも戦中のこととは違いますね。


反骨精神の面白さを味わうべきで
貧乏の側を持ち上げる話ではないと思うのです。

それとも「いたわり」や「ねぎらい」は贅沢なことに
なっちゃってるのかしらん、今や。

それとも戦前の「徳育」が再燃しているのかしらん。
却って危ない精神論かもしれません。

『折々のことば』4/21

2015-04-21 17:06:06 | 「折々」読んで
今日はロラン・バルトのことばです。
『<私の言うことを聴いてください>というのは、
<私に触れてください。私がここにいることを知ってください>ということだ。』

それに続く解説で、言語の発信には意味と語調が二重になっている、と
説かれます。

一読、バルトのことばが、鷲田先生の仰る意味で言われたか
疑問が強く残りますが、私はバルトなんか読んでないもんね。

(バルトの言わんとする処は、言葉の表面の意味を超えた深い所で
 発信者に感応されたい、ではないか。。。な?)

ま、いいや。
鷲田先生は(語り=言葉の発信)の二重性を説いておられます。
少しトンチンカンに思えますが。(←失礼)


生物は発信するもの、なんて言い方もできるでしょうね。
そうやって生き延び、進化してきました。

取りうるあらゆる手段で発信をしています。
生きるためには必要不可欠なのですね。

なかでも我々、哺乳類は声で発信することが顕著です。
体全体から「気分」を発していますが、声でも伝えます。
もちろん人間も。

このレベルでペットと会話ができていますね。

人間の言語はその上にあるものですから、三重構造というほうが
正しいのではないでしょうか。

音としての声に隠れていますが、一つ下にある「気分」
これも大切です。
声が出る前に伝わる事って結構ありますよね。