数字は言葉、嘘もつく

2007-07-31 09:56:00 | 塾あれこれ

選挙が終わりました。←話題が遅い。
およそメディアの予測通りでしたね。

個人的な感想。
メディア向けの、当選者に花をつける儀式ですが
落ちた人に謝ることはしないのかなあ。
そちらの儀式も同時にするべきでは?
「私も責任がある」とかクチでいうだけでなく。

別の色のバラか何かつけて深く謝る!


選挙結果の数字そのものはウソではありません。
しかしそれを使っていくらでも別の話が作れます。
そうなった場合数字は「ウソ」をついています。

科学における数字になると読む側が勝手にウソを
読みこむことがあります。
前提や方法をよく調べる必要があります。
どういう数字であったか、をきちんと把握して
おかないとウソをつくことになるのです。
数字を出した側には困った使われ方でしょう。

誤差がある数字にも騙されます。
テレビ視聴率の細かい数字を統計理論を無視して
使うなどもウソをつく代表例ですね。
誤差があるのに使う側が曲げてしまうのです。

数字の裏づけのない話はアヤシイものも多いですが
そういう場合はある程度気をつけますよね。

数字が出ると妙に説得力がありますから、逆に
注意が必要です。
結構インチキな数字、ウソの説明があります。

そう思っていても華麗に数字を使われると何だか
信じてしまいます。
私は数字が出てくると急いでマユにつばをつけます。


合格発表者数も気をつけるべきなのに。

あんなウサンクサイ方法でも信じるヤツが多いと
いう学校の判断だったのでしょう。

バカにされてるのか、馬鹿なのか?

暑中見舞とラッキョウ

2007-07-29 10:01:57 | 食べる

昨年の写真です。富良野ラベンダー畠。

暑中見舞申し上げます。


富良野は昨今観光客も減少中とか。
ガイドブックで調べた食べ物屋さんのカレーは
「残念なもの」でしたね。


カレーといえば福神漬派?ラッキョウ派?
栄養的にはラッキョウかなあ?

子供のころ、ラッキョウは妙に甘酸っぱい強い味で
あまり好きではありませんでした。
今思えば祖母が3年もののラッキョウを漬けていた
ようで子供の味覚は未成熟なものだと思います。

大人になって、初めて浅漬?のシマラッキョウを
クースと頂いたときには感動しました。

今はもう強い酒は次の日がつらいので頂きません。


近年になってラッキョウの甘酸っぱい味が分かる
ようになってきました。
でも3年ものは高くて買えません。


先日、広島、紙屋町の大きなホテルでカレーを
食べる「はめ」になりました。
カレーは不味くはないけど高いものでした。
3年物ラッキョウがたくさん買えますな。

ところでそのホテルでカレーの付け合せにでた
ラッキョウの不味いの何の。
ふにゃふにゃでただただ甘~い。

外側を削ってあったのは大きさを誤魔化すつもりか?

客を甘く見てますねえ。

タテのものをヨコに

2007-07-28 10:18:45 | 塾あれこれ
休憩時にある中学生が本を読んでいました。
短い時間でも読むのですから面白いのでしょう。
ハードカバーです。

どんな本か尋ねてみました。
ラブロマンスものかな。
女の子ですねえ。


そのとき驚いたのが小説なのに横書きであること。
私が世の中にウトイということも判明しました。

そういえば教科書だってお知らせだってみんな横書き
パソコンが通常そうだし、縦書きは少ない。
当ブログだって。


驚いたのは
「日本語が変わるだろう」「変わってきつつある」
ということですね。

たかがタテヨコではありません。大きな問題です。

本来は縦書きのものをヨコに直せるのですから内容は
変わらないハズで、日本語が変わる、とはオオゲサ?

高島俊男さん(また登場しました)が書いておられる
ので意を新たにしたのですが、雰囲気の違い程度の
話ではないのです。

パソコンを使えば簡単ですからタテのものをヨコに
ヨコのものをタテに直してみて下さい。

違うでしょ?驚きますね。
文章を変えないといけないところがたくさん出てく
るのです。
長い文章を書こうとすれば構成も変わるハズですね。

そんなこと今ごろ分かったか、とお笑いの方も
いらっしゃるでしょうね。

でも、変えてみても分からない人もおられるか?
残念ながらセンスがないかも・・失礼。

どうも夏季のせいか、バテがもう出てきました。
表現がキツクなります。


文のありようだけでなく、見かけ、気分も
変わります。

漱石を横書きで読みますか?
正字、旧仮名できちんとよまなきゃ分かりません!

芭蕉の句ををヨコに書きますか?


なんて書いてると、井上は文が分かると威張ってる
ようだ、ひとつ懲らしめてやれ、なんて言われそう
ですから急いで白状しますが、私も「気がする」
程度の感覚です。
ついエラソウに書いてしまいますね。反省!


科学の文、国際的な流れ、など縦書きには逆風が
吹いているようです。

ただ、古来の日本文化を知るためには、横書きでは
伝わらないことがあるのです。
パソコンで便利だから、と横書きばかりは良くない
ですね。

日本男児、タテのものはヨコにしない!

除。当ブログ。

締まんね~

補習は対症療法

2007-07-27 09:36:39 | 塾あれこれ
昨日シラバス等で一律に学んでもらうという考え方
には賛成できないと書きました。
それは「補習をすれば良い」と言う考えが間違って
いると思うからです。

補習で、生徒は追っかけてはくれるでしょう。
ヘロヘロになりながらでも。
場合によっては離されることもありそうです。
「伸びる」人もあるでしょうが、それほど多くは
期待できないでしょう。
対症療法にしかすぎないからです。

補習で対応というのは教える側の都合から出てきた
話です。

一人が大勢を「効率よく」教えるために一斉授業を
します。経済性にも合致します。
でも、一斉では流れに乗れない生徒が出てきます。

教える側にも問題はあるでしょうが、仕組みその物
が遅れる生徒を生むのです。
初めから一斉授業をしなければ遅れた生徒に補習を
する必要はないのです。

(戦前、軍隊では走るなどの競争をさせ、ビリには
 ビンタ。などということをしていたそうです。
 必ず、ビリはできますから、ビンタをするために
 そういうことをしていた、とも言えます。

 教育の構造がムリヤリ格差をつけるのです。)

上記に、ちょっと似たところがありますが
自分達の都合からでたことを生徒に押し付けた揚句
補習です。
「オマエラは頭が悪いから特別に教えてやる」
「どうしてきちんと勉強しないんだ」
「授業、聞いてんのか?」

さすがにそこまでロコツな先生はいないでしょう
けれども、生徒の側から見れば
「そう思われているか」と考えるかもしれません。

そこまで気を回してくれる先生がどれだけいるか?

たしかに補習をしてくださる側は誠心誠意。
それはよくわかります。

でもね。怪我をさせておいて親切に手当てするより
そもそも怪我をさせないことが肝心じゃないですか。

気付いておられても「やむをえん」と仰る方、
それで給料を頂くわけですか?
生徒の立場に立ってみたらどうでしょう。
私には勤める勇気は持てませんね。蛮勇?

人にもよるでしょうが、傷つく生徒はいます。
ずっと続けば負け組気分になるでしょう。
それが教育??

個人ではどうにもならないレベルの話かも
しれません。
そう思われている先生に拙作を献呈します。

『生徒よりわが身大事か?聖職者』

補習などより授業してりゃそれだけで良い
のでしょうね。

脳は成長する

2007-07-26 09:59:14 | 塾あれこれ
これまでは個人の能力が伸びると言うことにほとんど
触れないで話をしてきました。
その都度注釈を加えるのは読むのにも煩瑣ですから。

ある時点でどうしても理解できなかったのに暫く時間
をおくと、すっと分かることがあります。
気がつくと分かるようになっていた!

これはその間に脳の機能が発達したからです。

勉強を進め、新しい知識や考え方を自分の中に取り入
れると、今まで分かりにくかったことがウソのように
分かってしまうのですね。

視野が広がったせい、ともいえるでしょう。

たとえば文字式が分からなかった人が方程式を習って
いるうちに分かってしまうことがあります。

本来は文字式をクリアーして方程式へ進むのですが
文字式が100%できなければ方程式へ進めないという
ものではありません。


正確に理解してもらうために単元の最初に定義から
きちんと始められる先生がおられます。
生徒にとっては負担ですよね。

分かると言うことはステップを上がるように進むもの
ですから厳密な定義は途中までおいてて構わないハズ
と思うのですがねえ。

大局感を正しくしていれば、小さな局面では手順を
前後させる方が有効な場合もあるのです。

先に「分かる気」にさせておいて悪いことはないと
考えます。

個人の力は時とともに伸びるものでもあるのです。
発達段階に応じて思考を深めていきたいですね。
そのほうが自発性も生まれ易いハズです。


厳密なカリキュラムやシラバスを作り上げ、それに
沿って一律に学んでもらう、という考え方は賛成を
できません。

一律に進めるにしても手厚く補習などをしてやれば
よい、というやりかたが流行りです。

きっと、だから伸びないのです!

補習云々は、結局教える側の都合を生徒に押し付けて
いるのですから。

(補習。しないよりは、していただくほうが良い
 のですが)


「分かる」は他の使い方もされます。

☆共感の「分かる」
 「その気持、わかるなー」
☆了解の「分かりました」
☆違いが「分かる」

これらは本来の「分かる」から発展した使い方
でしょう。
この場では省略します。


いや~。やっと終わりました。
読んでいただいた皆様、有難うございました。

明日からは、もうちょっと気楽な話。。かな?

蛸石は国際政治になじむか

2007-07-25 10:58:17 | 塾あれこれ
うまく「たとえる」と「分かる」と言ってもらえます。

ただし少し不安も残るという話。
(昨年9/22の文も参考にお読みください)

質問されたときなど例えを使って簡潔に説明すると
効果がありますよね。
授業でもよく使われると思います。

国際社会を下記のように授業してみましょうか。
「大阪城の石垣に大きな石がありますね。
 蛸石とよばれる一番大きなものは36畳もの
 大きさがあるそうです。
 もちろん石垣は大きな石だけでなく小さなもの
 も組み合わせてあります。
 それでシッカリと組上げられるのですね。
 それと同様に
 国家でもアメリカやロシアなど大国があります。
 でも大きな石だけでは石垣が組上げられないのと
 似てバチカンやモナコを初めとする小さな国家も
 あって国際社会ががっちりと出来あがるのです」

生徒は教師のしゃべることですから肯定的に
聞くでしょう。
図版や写真などを使って何百年前の石の切り出し
運搬、構築を説明すればイメージしやすいかな。

ただ、上記の「それと同様に」は本当にそう
言ってよいのかどうか。
なんでも強引に結びつけると「水伝」のような
エセ科学にひっかかりやすくなります。


たとえとして成立するものでも、はっきりと
その旨を生徒にわからせねばなりません。
できれば言葉の説明だけでなく、たとえであると
意識できる内容にしておくべきですよね。

「分からせてしまう」テクニックは塾の得意わざ
ですが行きすぎないようにしないといけません。

よくわかる授業に見えて感心できないものも
ありそうですね。

「AくんBさん、ちょっと手伝ってください。
Aくんが地球の役、Bさんは月です。
向かい合ってくれる?そう。手を繋ぎましょう。
照れないの。目を見つめあって・・
あ、それは恋人同士か、
ええっと、
この二人には引き合う力があります。・・」

私は最近授業をしないせいか、上記のような授業
が気持悪くてなりません。トシかなあ?

でも、受ければ良いってものでもないでしょ。 


例によって話がジグザグしますが
以前少し書きました、好きな先生嫌いな先生で勉強
の分かり具合が違うことは昔から言われています。

近年、脳科学の進歩で裏付けられてきているそう
です。
気持が脳の活性化に有効であると。

それでいけばAくんBさんに登場願う授業をしても
好いてもらえればよいのかもしれません。

ただ、科学者が人間の感情も大切だとお墨付きを
与えたことで、甘い授業ばかりが増えてやしません?

無尽蔵のエネルギー

2007-07-24 14:03:22 | 塾あれこれ
「分かる」ということがそのエネルギーを生む源です。

勉強に躓いている生徒の場合には「分かる」という
ことで得られるエネルギーが少ない状態です。

でも「分からない」から躓いているのに「分かれば」
とは無理な話のように聞こえますね。

こういう場合、分かる気にさせることが先行する課題
になります。
本当に分かるかどうかは後回しです。

もし今日初めてブログをご覧になる方がおられました
らどうか7/17から読み始めてください。
本日の話はここまでの話とは一見矛盾する内容になり
ます。ホンスジとは少し外れていますので。

あくまで実践の場での一種緊急避難的な話です。
ただ瞬間的なものとは限らず何年もかけて対応する
ケースもしばしばおきます。

さて、どうして「分かる気になる」を先にするかと
いうと「分かる」から出てくるエネルギーが欲しい
からです。なにしろ無尽蔵のエネルギーが生まれて
くるのです。

どうすれば分かった気になるか。

分かる気になるには「出来るようにすればよい」

でも、分からないのに「出来る」??
分からなくても「知る」ことで「出来る」という
状態に持って行けるのです。(一応、ですが)

手取り足取りリードしても構わないので、ともかく
パターン問題ならば出来るようにしてしまいます。

ただし、あくまで便法ですからよく気をつけておいて
本来の「分かる」に導くタイミングを計らねばなりま
せん。
ただ教えっぱなしで出来た!と褒めて、だけで済ます
と生徒をスポイルすることにつながり易いのです。

必ず、本当の「分かる」に導くように気をつけておか
なければなりません。
日本の現状はどうでしょうかねえ?

分かる、に導くには長い時間を必要とすることが多い
と思われます。
粘り強く付き合わねばなりません。


上記の「便法」は家庭で行うにはリスクが伴います。

ジツは、ご家庭で対応されている場合コマギレ状態で
教えていることが多いようです。
長いスパンで見ることが出来難いのです。

そんなことはない、と思われますか?

わが子の成長を見つづけ、どのような人間かは保護者
がいちばんよくご存知です。
そこで教育も、と思われます。

もちろん大きな意味での教育はそのとおりです。
ただし、○○算をいつ教え、理解の具合がどの程度で
1週間後2週間後1ヶ月後半年後などと子供の状態を
チェックできているかどうか。

次々と出てくる「分からない」に対応して教えている
という場合が多いのではないでしょうか?

逆に塾などが頼りなければご家庭でなるべく細かく
見つづける必要があるでしょう。


学校や塾への情報伝達も正しくできているかどうか。

家で教える程度などをきちんと把握してくれている
かどうか、ご家庭の側からもチェックされますよう。

個別で丁寧にみてくれるところならば言わなくても
分かりますが、それが不充分な所ではミスリードが
おきる場合もありそうです。
本当に分かっているか、できるかのチェックには
時間が掛かりますし。
ご家庭での過関与は好ましくないことが多そうですね。

分かんな~い

2007-07-23 10:20:48 | 塾あれこれ
知っていないことを分からないという子がいます。

「葉緑素以外でも光合成ができるものがあります」
「ええ?わかんな~い」

「ホンジュラスの首都はテグシガルパです」
「ふ~ん。わかんない」

「鎌倉幕府を開いた将軍は誰ですか」
「分かりませーん」

それは「知らない」なんだけれど・・

すると「分かる」といってても「知っている」と
いう場合があるわけですね。

感覚が近いから混同、というか未分化というか
そのような状態にあるのです。
私達も見逃しやすいことでしょう。


もともとは「分かった」結果として「知る」
ことになる筈ですね。

ただ、分からなくても知ることはできます。

しつこいですが、○○算を分からなくても解き方
は知っている、なんてね。
当人は「分かっている」と思っています。

説明をしながら確認をいれてみると
「分かる」といいます。
そこで話を進めてゆくと
実は何も分かっていなかった。。。

「すぐに分かる」場合はこれかもしれません。
『分かった。1を足すんだったね』

ところが本当に分かっているかチェックを
入れるのが難しい。
・・話が以前のものと重複してきますね。

「分かる」と「知っている」この間違いも生徒が
年少のうちは多いかもしれません。

息の長い付き合いが必要になりますね。

価値ある「分からない」

2007-07-22 09:55:58 | 塾あれこれ

自分から動くことが大切です。(=能動)
分からなくても自分で考えて、そうなら価値がありま
す。
自分で動かず、すぐにヘルプミーは分かっても駄目。

勉強の意識、自立心、競争心(主に自分に向けて)
などが求められます。

それは言葉で伝え分かってもらう事ではありません。
このブログでもすでに書いているように「それが当り
前」という空気を醸成することです。
親の背中の大切さでしょう。

分からないと言えるから進歩します。
自分でわからないところを意識することは
たいそう立派なことです。
大人でも、何がわからないかが分からない、と
いうことはよくあります。

その場合は「分からない」とすら言えないものです。

もしも質問をできるということになれば更に
進んだことです。


同じ質問を受けて答えが2通りあるとします。

一つは「分かります」そして正解を言います。
もう一つは「分かりません」と答えられません。

普通は「分かる」ほうがエライですよね。

でも場合によっては分からない方が一歩深く
考えていることがあります。

電線にカモメが5羽います。鉄砲で1羽打ちました。
何羽残っているでしょう?

4羽というよりも0羽というよりも「分からない」
と答える人が一番よく考えていますよね。
「電線にカモメ?」とかね。


分からない、だから面白い、という人がいます。
私は、分かる方が面白いと思います。
分かる過程が面白い、といいましょうか。

ピカソの絵は分からないけれど何か面白い、
そういう考え方は「アリ」でしょう。

ただ、それも
分からない、ということはそこに分かる喜びが
埋まっているからでしょう。
そこで面白くなりそうだと思えるのではないで
しょうか。

『バッハを知らないヒトは幸せである。
 なぜなら、これからバッハと出会えるから。』

出来る、も案外・・・

2007-07-21 10:02:17 | 塾あれこれ
次第にメンドくさくなってきましたね。
でも、もう少しお付き合いください。
(塾の仕事においては明白過ぎることなのですが
書くとなるとゴチャゴチャするのは私の能力不足)


「出来ない」ほうが容易にチェックが入りやすい
のですが「出来る」ときには分かっているのか
そうでないのか、確認が難しくなります。

生徒からはまず情報が来ません。
マルになっているのだから分かっている、と思って
いますから。

ところが、出来ていても分かっていないことがよく
あります。
例えば、やり方だけを鵜呑みにして、とにかくマル
は取れているというケース。

植木算をさせましょうか。
とにかく割り算をして何が何でも1を足す。
もし違っていたら即座に1を引く。
色々やっているうちにマルになれば終わり。
説明など聴いてくれやしませんよね。

当然、簡単な応用すらできません。
合わないとそれまで使っていた公式はどこへやら
ムチャクチャをし始めます。

「なんでこうやってみた?」と聞いてみると
日本語にならない答が戻ってきます。

(ビビらせちゃったかな?)


ヒトにすぐ聞く子がいます。とにかくマルにする。
宿題など完璧にマルなのにさっぱり分かってない、
ということもしばしばあります。

質問するのはよいことなのですが・・・

もちろん手取り足取りの助けが要る生徒もいます。
けれど多くは手抜きで聞くのではないでしょうか。

ヘルプとばかり叫ぶ子は伸び難いですよね。


「すぐ分かりたがる」子には教えすぎないでリード
したいものです。
君は上滑りしている、すぐに頼るな、とか言っても当
人は何を言われているのか分からないでしょうから。

ただ、一斉授業ではそれも難しいでしょう。


応用問題をやらせてチェックするのは塾の常套手段
です。本当に分かっているの?
生徒も「分かっていなかった」と自覚し易いですし。

少しずつ難しくしていけば理解の度合いも掴めます。

ただ、余りどんどん深入りしてしまうのは、生徒の
心理状態によい影響を与えません。

「分かっていたんだけどなあ・・」

どうせ「分かる」といっても一定の段階までの話
なのです。
長いスパンで少しずつ理解を深めればよいのでは
ないでしょうか。