涙がチャンスかも

2007-02-28 19:55:57 | 塾あれこれ

姿勢が一番、ということを発信し続けましょう。
以下、まことに平凡な話で恐縮です。

発信しつづける前提として
まず、相手を把握しておかねばなりません。
有効な発信が出来ませんから。

 基本的にどういう子か。
 どういう「当たり前」か。
 いまの勉強の状態はどんなか。

日々の流れの中で加減も必要です。

のべつまくなし口に出していると嫌がられることも
あるでしょう。
(そうならないように云わねばならないのですが)

必要な時には必ず「姿勢」のメッセージを送ります。

説教は極力少なく。
相手の納得をうることが大切です。

タイミングも大切ですし場合によりテクニックめいた
ことも必要かもしれません。

もちろん
云わないでガマン、もテクニックの一つでしょう。

似ていますが
仕掛けをしてじっと待つ、こともあります。
何かカンジワルイ言い方ですけれども。

例えば覚えるべきことがあるとして
「これは覚えるのですよ」程度を繰り返したあと
何度言っても覚えてこないときに初めて
その非を諭すとかね。

およそ「出来ないときがチャンス」です。

できないことのオオモトはどこか。
勉強に対する姿勢ではないのか、と。

涙も同様にチャンスです。

もちろん、こちらが叱って涙が出る場合は別。
その時は外からのプレッシャーで泣かせているので
チャンスにはなりにくいと考えます。

涙が出るときも様々でしょう。

分らないから涙が出る
出来ないのでくやしい
行き詰まるとすぐ泣く子もいます
恥ずかしいときに、という子
自分が情けなくて泣く子
あるいは、ただなんとなく悲しい
何かに不満だが対象が見つからない

・・・などなど

諭しや説教やが身にしみる涙が、勉強などには
一番です。

きちんと話をしてこちらの言いたいことを
分ってもらいます。


私は集団授業の形態では叱るときに
本気で怒りました、ものすごく。
怒ってはいけない、叱るのだ
という話しがよくありますが私はウソと思います。

まず、怒る。心の底から。
そして外への出方を制御する。
(手が出ないようにする工夫とか)
そして周りの生徒に理解できる説明。

「そうなんだ、井上が怒るのも分る」

できれば、ここで納得の涙があれば。

そうは言っても私も常にきちんとできていたわけ
ではないハズです。
下手な講師でしたねえ。

涙から話が外れました。

他の塾のワルクチを、と思っていたのですが
明日です。
(特定のところへのワルクチではありません)

いつも話が長くなりますね。
まるで「浦沢マンガ」
あんなに面白ければ長くてもいいけれど。
               2.28

抹香くさいかな?

2007-02-27 17:58:27 | 塾あれこれ

姿勢づくりとは日々の心がけ

なんて書くとお寺さんの前のボードなどに
書いてありそうな文になりますね。

宗教ではなく、武士道かなにか和風なイメージに
なる方法はないかなあ。

といいつつ、突然ですが
禅の修業をしている坊さんに訊いて見ましょう。
「修行とは、奈何」
「日々の行住坐臥にあり」

まるで安物の小説ですね。

ただ、イメージで、どうしてもこうなります。

道元禅師の『正法眼蔵』
難しそうで読んだことはありませんが
日々の立ち居振舞いまで細かく書いてあるそうでは
ないですか。

いかに生きるか、が仏教だから当然の帰結でしょう。

(尾道に海の見える三重の塔で有名な曹洞宗の寺があり
 私はそこの檀家なのでついこういう発想になります)


仏道修行と同様に、勉強もこちらの頭の中に
「姿勢作りだ」という意識をつねに浮かべておくこと
が大切です。

姿勢作りには長い時間を必要とし、常に辺りを見まわ
し、個々人の違い、時の流れをしっかりと押さえて
相手に向かうことが基本です。

もちろんこちらが何もしないでも自分で歩ける子も
います。
ただほとんどは一定のサポートがいるわけで、その際
大人がどういう意識を持っているかが重要です。


学校や塾の意識も大切ですが一番基本は家庭です。

よく「背中で育てる」といわれます。
保護者の「コレは当たり前」ということが子供に
伝わるのです。

何が当たり前か、は家庭により案外違っているもの
ではないでしょうか。
常々意識して話しきかせています、というレベルでは
なくて、もっと深いところの、もし何か云われたら
「失礼な、当たり前でしょう」と思うくらいのことです。

例えば、何が美しいか、良いことか
こんなところが勉強につながります。

『国家の品格』の藤原センセイが数学は美的センスと
仰ってますね。学者にならずとも心のありようが
勉強につながります。

~は出来て当たり前、の「~」の部分にどういうことが
入るか、各ご家庭で違いますね。
宿題、計算、動物愛護、家事手伝、ボランティア・・

優劣の問題ではなく文化のありようだと思います。
違って当然です。

塾は人によって違う、「~」をはやく掴んで
そこからスタートすべきなのです。

といっても、掴むこと自体も大変で、さらにそこへ
足し算することも場合によっては引き算も必要で
・・難しいことです。

to be continued        2.27


極端な秘密主義だった

2007-02-26 13:49:12 | 塾あれこれ
山口塾に勤めていたときです。

組織のことを最優先させました。
小さなことでもできるだけ他人には教えなかった。

山口塾中学部を立ち上げるときに前の塾長が
「保険」をかけたのですね。
井上という、さして実績も上げていないものに全面的
にまかせるのは不安だったのでしょう。
別会社にして発足、安定したのち吸収と以前書きまし
た。しかも発足のときに前塾長と親しい別の塾の経営
参加をさせたのですね。なんと、でしょ?

それがイヤで。
その塾をイヤというのではありません。
考えが違うところとの機械的な結合が無理なのです。

向こうも早々に引き上げられました。

そのあと次第に秘密主義が強くなりました。
毎月のテストも完全に自前で作りました。
先生方からは負担の大きさに、ぶ~ing

3A態勢になってからは他塾からの見学も
その教室だけは見せませんでした。
3Aの教室にどんな本を置いているかすらダメ

それらは企業を優先させたからです。

今は反対に
差し支えのないことは全てオープンです。
隠すほどのことは持っていないというのが正しい!

自分のオリジナルがあるならまだしも、人に教わり
本を読み、仲間と競争し、授業を盗み聞き・・
そんななかからできた「自分流」です。

中でも山口恭弘前塾長には教わりました。
塾で一番ぶつかったのが私で、一番尊敬していたのも
私でしょう。
生徒たちにはよく「あのハゲ」とか言ってましたので
先生、気分は悪かったでしょうね。


何でも書くとかいっても法令遵守はきちんと。

それとプライバシーの保護。

つまり、今の塾でのことは書けないということです。
多少個別の事例を書いているのは全て山口塾時代の
話です。(それもなるべく抽象化して)

さてそうすると、教育というのは「個別」に対応すべ
きというのに個別事例を書けないというジレンマに
とらわれるのです。

小説にモデルの人物がいるときに使う手法で書く?
考えましたが止めます。

前置きばかり長くなっていますが
書きづらいという証拠でしょうね。

今日は企業経営を考えなければ何でも言える
という話でした。
つづきます。

熱うござんすよ、お気をつけて

2007-02-25 14:00:36 | 塾あれこれ
国鉄・飯田橋の駅を出て右へ、神楽坂方面に向かうと
橋のたもとだったか上だったか、「坂下」まで降りき
る手前に何軒か食べ物屋さんがありました。

ええ、古く1970年代の話です。

神楽坂は一人でゆくスポットでした。
ちょっと無理して I とか。(1/12)

一番多かったのは映画。
佳作座、ギンレイホール。

その行き帰りにちょっと食べに寄る店で
ヒレカツが値段の割に美味い一軒と
隣にあるラーメン屋。
この二軒は今でも味を思い出せます。

特にラーメン屋さんはしばしば行きました。
ヒレカツより安いですしね。

醤油ベース、「あっさり東京風」とは少し違い
旭川ラーメン。コクがあってバランスもよい。
(真冬に旭川で食べたラーメンも美味かった・・)

この店はお爺さんがやっておられ丼鉢を出される時
「熱うござんすよ」

餃子も美味かったのですが、一人前を焼いてもらうのが
悪くて、誰か頼むと乗っかるのです。

満州の話とか、料理のコツとか、ときどき来る若者相手
ですからポツリポツリとして下さいました。

ところが孫に店を任されたのですね。
とたんに味が変わった。何か違う。
材料も作り方も同じなのに。
(ウラをとってある話です)

結局足が遠くなってしまいました。


似たことは我家でもあります。
これはレベルが低い話ではありますけれども。

カミサンと私と同じものを作るのに味が違う。
単純な料理で、材料も作り方も同じです。
時間や火加減「うんそこで強火10秒」
なんてやっても違う・・


モノを相手の料理くらいでこうですから
人間相手では一人一人の教え方が違って当然。
ギャグひとつでも他人のを使っては受けません。

仕事の話でも人が違えば
「同じ味にならない」

つまりオープンにしても商売敵を利することは
ほとんどないといっていいのではないか?
スゴイ極意があるのなら別ですけれど
私の話など誰でも知っていることですから。

それでも発信しつづけることに意味があるのです。
「同じだね」だけでもよいじゃありませんか。

ブログという可能性が大きいツールがあるのですから
読んでいただける人が少なくても
私はこう、というところを公開していきたいですね。
1日に少しの時間を割くだけでよいのです。


姿勢作り、の話がマクラの部分でお時間となりました。
またあした。