♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■十字架のことば③ / 関根弘興

2024年07月05日 | Weblog

2024/03/29放送

 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。

 今週は、イエス・キリストがどうして十字架につけられたのか、ご一緒に考えています。

 イエス様は、その口に偽りはなく罪のない正しいお方でした。しかしイエス様はむごたらしい十字架につけられました。

 イエス様が十字架につけられたのは午前九時でした。しかし十二時になったとき、突然全地が暗くなり、三時まで続きました。

 そんな中でイエス様は、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。訳すと、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と言う意味です。悲痛な叫びです。
 ある人はこのことばを読んで、「神に見捨てられたのだから、イエスの十字架は失敗だった」と言う人がいます。しかしそれは、聖書もイエス様の十字架の意味も全く知らないからそう言うのです。

 聖書は、イエス様の十字架は私たちの代わりに罪を背負い、罪の罰と呪いをその身にすべて引き受けてくださったものだ、と教えています。私たちの罪を背負い、罪なきイエス様が罪人となってくださったということは、愛と義といのちの源である父なる神様との関係が完全に絶たれるということを意味しているのです。 正しい神様は罪ある者と交わることが出来ないからです。
 つまり、イエス様が十字架で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのは、歴史上世界中でたった一人イエス様だけが私たちの罪を背負って愛なる神様から引き離され、罪の苦しみをその身に一心に背負われたことの叫びなのです。

 そしてイエス様は、「完了した」と言われました。このことばは「成就した」「成し遂げた」という意味です。もし十字架が失敗なら「失敗した」と言うでしょう。またもし意に反して十字架につけられたのなら、「やり残したことがまだある! 不当な仕打ちだ」と叫ぶのではないでしょうか。
 しかしイエス様は「完了した」と言われました。それは、イエス様が十字架につけられることによって救いのみわざが完成したと言う宣言なのです。イエス様の十字架によって、私たちの罪が赦される道が開かれました。十字架は決して偶発的な出来事ではありません。最初から神様のご計画によって定められ、イエス様がその神様のみこころに従って自ら進んで十字架にかかり、想像を絶する苦しみを味わい、救いのみわざを完了してくださったのです。


 ( PBA制作「世の光」 2024.3.29放送でのお話しより )


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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。
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