♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■聴くこと / 関根弘興

2017年05月19日 | Weblog
2017/5/19放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 今月はキリスト教会で毎週日曜日に行われている礼拝ということについて御一緒に考えています。礼拝は賛美を捧げる時、そして神様への祈りの時、というお話をしましたね。今日は礼拝は聖書を通して神様のことばを聴くということなんだということをお話ししたいと思います。

 新約聖書のローマ人への手紙10章17節にこう書かれています。
 「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
 信仰は聞くことから始まるんですねえ。決して何か善行や修行を一所懸命積み重ねることではないんです。そして聖書からキリストについて聞くわけですが、一体キリストの何について聞くのでしょう。

 第一は、キリストが来られた目的を聞くのです。
 イエス・キリストが来られた目的は一体何でしょうか。イエス・キリストは、「失われた人を捜して救うために来た」(ルカ 19章10節)と言われました。イエス・キリストが来られた目的は救いを与えるためなんですね。自分の人生を見失い、どのように歩んで行ったらよいか分からない。まるで羊飼いのいない迷った羊のような一人ひとりを救うために来てくださいました。

 第二に、キリストの語られたことばそのものを聞くのです。イエス様は、「人は、たとい全世界を得ても、魂を損じたら、何の得になるのか。」(参照 マタイ16章26節、マルコ8章36節)と言われました。人の価値の高さを教えられたんですねえ。お互いに愛し合うことの大切さを教えられました。人が生きていく上で最も大切な愛をもって生きることを実践し教えられたんです。ですからこのイエス・キリストの語られたことばそのものを聖書から聞いていくのです。

 そして第三は、キリストのなされたみわざを聞くのです。イエス様は人々を癒し慰められました。しかしイエス様の最後は十字架に磔(はりつけ)にされたのです。でもそこには深い意味がありました。それは私たち一人ひとりの罪をイエス・キリストが身代わりに背負い、私たちの罰を受けてくださったという驚くばかりの愛のみわざだったんです。そしてイエス様は十字架につけられ、三日目に復活し、今も生きておられる、と聖書は教えます。このイエス様があなたのためになされたみわざを聞いていくのですね。

 そしてそれを聞いたら、生きることです。それが信仰の歩みなんです。

 (PBA制作「世の光」2017.5.19放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■十戒 -自由への励まし- 11 / 大嶋重徳

2017年05月18日 | Weblog
2017/5/18放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒を始めとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく自由へと導くためのことばなのです。

 十戒第二戒には、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」(出エジプト記 20章4節)とあります。

 偶像とは人間が刻む神の像のことです。

 ホイエルバッハという人は「宗教は自己の願望の投影だ」と語りました。このことばを受けて、共産主義という思想を生み出したマルクスは「宗教の人民のアヘンだ」と言い、宗教を批判したのです。つまり宗教とは自分の深いところの願望を「神」ということばに言い換えて、自分の置かれている状況を諦め、何か変革する力を喪失させてしまっている状況だ、と批判したのです。更に、何が本当に価値あるものなのか、という問いを宗教は人間から奪い、考える力・生きる力・価値判断を奪うのだ、と考えたのです。

 確かに偶像にはその力があります。偶像を造ることによって偶像の提供する価値感を無批判に受け入れ、考える事をやめてしまうことも人間には起こり得るからです。それは今日にあっても、偶像というような時代の価値観、時代の空気感は私たちから考える事を奪いに来ようとしています。偶像を造り出す側の意図に沿って、私たちはその意図に巻き込まれていくのです。

 この時代は何が本当に価値のあることのかを考えることを奪って来ます。そして人間の生きる価値については私たちが考えてあげるから、あなたはその価値を追い求めることに一所懸命になりなさい、と価値を押し付けて来る社会です。テレビをつければコマーシャルが、この車に乗っていないと本当の幸せには少し足りませんよ、と言ってきます。就職難が続く中では資格を手に入れることが大切です。資格はあなたな人生に安心を与えます。あるいは、もし資格がなかったとしてもこの保険があれば大丈夫です、と人生の漠然とした不安感を煽ってきます。そして偶像は、これさえ手に入れば大丈夫だ、入手した一瞬だけ訪れる安心感を満たしてくれる存在です。しかし満たされた瞬間から即座に、でもあれが足りないのでは、とまたもや不安感を煽って来るのです。そして今一度安心感を満たすために偶像に絡め取られていくということが起こります。

 皆さんの周りにはどんな偶像があるでしょうか。第二戒はこのことを戒め、私たちがそれと対峙しないといけないことを教えてくれるのです。

  ( PBA制作「世の光」2017.5.18放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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■あなたの神、主は、語ったが / 福井 誠

2017年05月17日 | Weblog
2017/5/17放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「あなたの神、主は、語ったが」です。 それではエレミヤ書40章の1節から3節をお読みしましょう。
 「エレミヤは、バビロンへ引いて行かれるエルサレムとユダの捕囚の民の中で、鎖につながれていた。---- 侍従長はエレミヤを連れ出して、彼に言った。「あなたの神、主は、この所にこのわざわいを下すと語られたが、主はこれを下し、語られたとおりに行なわれた。あなたがたが主に罪を犯して、その御声に聞き従わなかったので、このことがあなたがたに下ったのだ。

 今日は、紀元前586年、神がエレミヤを通して告げられた通りにエルサレムがとうとう陥落してエルサレムの住民がバビロンへと強制移住させられていく場面ですねえ。鎖につながれてバビロンへ曳いていかれるたくさんの捕虜の中にエレミヤもいました。しかし、エレミヤはその途上で釈放され自由の身になります。神のことばに従ってバビロンに降伏するように勧めたエレミヤはバビロンの侍従長の好意を得て特別に扱われるのです。

 しかしエレミヤはユダの地に残ることを決めていく、そんな場面ですね。バビロンへ連れて行かれた捕虜たちは実は優秀な人たちでした。官僚のような頭の良い人達、また鍛冶屋など技術のあった人たちで、バビロンの国に役立つ人ばかりであったのです。そして箸にも棒にもかからぬと思われた、いわゆる価値が無いとみなされた人たちはさんざん破壊された廃墟のエルサレムに残され、捨て去られました。エレミヤはそうした見捨てられた人たちと共に生きることを望んだのですね。

 私には居残りを決めたエレミヤに対するバビロンの侍従長メブザル・アダンのことばも非常に興味深いです。というのもこの侍従長、エレミヤの神の存在を認め、神が語られた通りのことが起こっている、と証言していますねえ。更に、同胞の敵視の中、主のことばに忠実に生き、神のことばを証しし続けたエレミヤに敬意を表しています。エレミヤは敵に味方した訳でも何の報酬を期待した訳でもありません。ただ不器用に主のことばに従っただけでした。しかしそれによって敵も神のことばの正しさを認めたのです。神のことばを伝えるには、ことばの巧みさではなく、主のことばへの誠実さが大切なのだと覚えたいものです。

(PBA制作「世の光」2017.5.17放送でのお話より )

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■ただ神の言(ことば)を語る / 板倉邦雄

2017年05月16日 | Weblog
2017/5/16放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「ただ神の言(ことば)を語る」という題でお話ししましょう。

 ことばというものは実に不思議です。赤ちゃんの時からことばの中で生き、成長して行きますね。そしてことばは私たちの人格を形成していくのです。私たちは「パンだけで生きる者ではなく、神のことばによって生きる者」なのです。

 さてモアブの王様バラクは占い師バラムが来たと聞いて町まで出て行ってバラムを迎えました。そして占い師バラムに言いました。「私が人を遣わしてあなたを招いた時、どうしてすぐにきてくださらなかったのじゃ。」

 占い師バラムは答えました。「見ての通り、私ははるばる遠くからあなたの所へやってきました。しかし今、何事かを自分から言うことはできません。私はただ神が私の口に授けられることばを語らなくてはなりません。」

 モアブの王様の占い師バラムへのリクエストは何だったでしょうか。それは、イスラエルの人々を呪ってくれ、というものでしたねえ。しかし神様は、イスラエルの人々は祝福されている民族だから呪ってはならない、呪うためにモアブに行くな、という命令を占い師バラムに与えました。しかしバラムがしきりに行きたがるので、神は一つの条件をつけて許しました。それは「わたしが告げることばのみを語らなければならない。」 
 こうして占い師バラムはモアブの王様と一緒に行き、王様はバラムを連れて近くの山頂まで登りました。そこからイスラエルの人々が宿営するテントの数々を眺めさせるためだったのです。

 占い師バラムの呪いのことばがどれほど人々に深く影響するか、モアブの王様は良く知っていました。占いと呪いのことばが相手の人の人格形成に傷を与えることも、相手の人を病気にさせ遂には死にまでも至らせるか、ということばの力も分っていました。

 祝福の神様のことばから離れて独り歩きすることばの魔力を私たちも知っています。私たちは神様と結びついた祝福のことばを語りたいですね。
 
 聖書のことばです。
 ヨハネの福音書
  「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
   ヨハネの福音書1章1章

  (PBA制作「世の光」2017.5.16放送でのお話より )

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■神のみこころを行う祝福 / 岩井基雄

2017年05月15日 | Weblog
2017/5/15放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。

 第三週の月曜日はマルコの福音書から学んでいきたいと願っています。今日は「神のみこころを行う祝福」と題して、神の不思議な恵みについて共に考えましょう。

 イエス・キリストがある家で多くの人々に恵みと愛の教えを語っていた時、その家にイエスの家族がやってきました。マルコの福音書3章21節にはこう記されています。

 イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ。」と言う人たちがいたからである。

 イエスの家族の者たちは、イエスの噂を聞いて心配になり、彼を連れ戻すためにやってきたのです。どうなったでしょうか。聖書はこう語っています。
   「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、外であなたをたずねています。」と言った。
  すると、イエスは彼らに答えて言われた。
   「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」 
  そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。
   「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

           新約聖書マルコの福音書3章32節から35節

 自分を疑い、連れ戻そうとしてきた家族の心を御存知であったキリストは、ご自身の本当の家族とは神の御心を行うかどうかにかかっているのだ、と語られました。

 イエスの周りにいた人たちはこのキリストのことばにどれほど励まされ喜んだことでしょうか。どんなに弱く、小さな存在であろうとも、自分の弱さや愚かさを認め、自分の思いや欲望ではなく、神の御心が行われることを求め、それを行うことを心に留め実践していく人はどんな人であってもイエスの兄弟・姉妹また母だと言うのです。どのような境遇で生まれ育とうとも、どんな過ち失敗が人生の中にあろうとも、神様に背を向ける歩みを止め、向きを変えて悔い改め、神の御心求め、それを行うことへと進んでいく者を神は喜び、豊かに祝福し、キリストにあって神の子どもとして受け入れてくださるのです。あなたもこの神の愛を受け取り、神の御心を求めて、それを行う者とされていきませんか? その者を神は豊かに祝福してくださるのです。

 PBA制作「世の光」2017.5.15放送でのお話しより)

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■悔い改めの集会 / 羽鳥頼和

2017年05月13日 | Weblog
2017/5/13放送


 世の光の時間です。お聴きくださりありがとうございます。羽鳥頼和です。
今日は先週に引き続き旧約聖書のエズラ記からお話しします。

 エズラは宗教指導者としてバビロンから帰還した人々に神の教えを正しく教え、人々の信仰生活を整える働きをしました。

 ある時エズラは、人々が異教の神々を信じている外国人と結婚していることを知ります。そのような結婚は神が厳しく禁じていたことでした。その上、そのような結婚を率先して行なっていたのが、こともあろうに指導者たちだったのです。

 エズラはその事を知り、神殿に行き、神に悔い改めの祈りを捧げました。するとそこに男性だけでなく女性と子どもたちが大勢集まってきました。彼らもみな神に悔い改めるために神殿にやってきたのです。こうして悔い改めの集会が始まりました。エズラを始め人々は神の教えに背いたことを悲しみ、涙しました。そして異教の神々を信じている外国人と結婚していた人たちは離婚することに決めたのです。何も離婚までしなくても、と思いますが、悔い改めということはいい加減なことではないのです。悔い改めというのは、ただ謝ることではありません。自分が悪かったと認めて、もし人に損害を与えていれば償わなければなりません。そして同じ悪いことはもうしない、と決心するのです。

 エズラ記の10章には、結婚に関する神の教えを守り行わなかった人々の名前が記録され、その人々は自分の罪を赦していただくためにいけにえを捧げました。罪とは神の教えに背くことです。神の教えで基礎となる教えは神を愛し、隣り人を愛することです。もしこのことを行なっていない人は悔い改めていけにえを捧げなければならないのです。罪を犯している人は悔い改めなければなりません。本心から罪を悲しみ、罪を捨てる決心をしなければなりません。

 しかし今はいけにえを捧げる必要はありません。イエス・キリストがすべての人の罪のためのいけにえとなって十字架にかかって死んでくださったからです。ですからイエス・キリストを信じる人が悔い改めるなら、神はその人を救ってくださるのです。

 明日は日曜日です。罪を悔い改めてキリストを信じて、お近くのキリスト教会にぜひいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2017.5.13放送でのお話より )
 
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■祈ること / 関根弘興

2017年05月12日 | Weblog
2017/5/12放送

 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 今月はキリスト教会で毎週日曜日に行われている礼拝ということについて御一緒に考えています。前回は、礼拝、それは神様を誉めたたえ、賛美をささげる時です、というお話をしましたね。

 今日は、礼拝は神様への祈りの時、というお話をしたいと思います。
 祈るという経験をしたことのない方は殆どいらっしゃらないんではないかと思うんですねえ。でも、誰に向かって祈るのか? と問われると、多くの方は余り考えていないようです。聖書は誰に向かって祈るのかをまず明確にします。

 イエス様は弟子たちに「このように祈りなさい」と教えられた祈りがあります。それは「主の祈り」というものですが、最初の祈りのことばは「天にいます私たちのお父さん」(マタイ 6章9節参照)と呼びかけているんですね。私たちは一体誰に向かって祈るのか。それは天にいますお父さん、つまりこの天地万物の創造者である天のお父様に向かって祈るのですよ、と教えます。そして祈りは、ただあなたのお願いをすることだけではありません。祈りは、「神様。こうして生かされてることを感謝します。この命をありがとうございます。この朝を、この一日をありがとうございます。」というように、たくさんの感謝を捧げる時でもあるんです。

 感謝のない生活を考えたことありますか? それは何とも冷たい味気ない生活ですねえ。あなたの人生に潤いを持たせたいなら、感謝を溢れさせるんです。祈りは願いと共に感謝を捧げることです。

 また祈りはあなたの神様への告白でもあるんです。「神様、私は今こんな状態にあります。助けてください。」 自分の思いを打ち明けるんです。

 また、「神様、あなたを心から信頼して歩んでいきます。」というような信仰の告白もあるんです。

 そして祈りの最後に、「イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。」とつけ加えます。それはイエス様が「わたしの名によって祈りなさい。」と教えられたからです。イエス様の名前には力があります。権威があります。その力強い名前によって祈るからこそ、祈りはあなたの人生を支える大きな力となっていくんです。「天のお父さん」と呼びかけ、最後に「イエス・キリストのお名前によって祈ります。」と祈っていくんです。どうでしょう。あなたも「天のお父様」と祈ってみてはいかがでしょうか。

 (PBA制作「世の光」2017.5.12放送でのお話しより)

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■十戒 -自由への励まし- 10 / 大嶋重徳

2017年05月11日 | Weblog
2017/5/11放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 聖書には十戒と呼ばれる神と人との間に結ばれた約束があります。十戒を始めとした聖書のことばは人間を縛りつけるものではなく自由へと導くためのことばなのです。

 十戒第二戒には、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」(出エジプト記 20章4節)とあります。第二戒が私たちに指し示す自由への生き方とは何でしょうか。それは不思議に聞こえるかもしれませんが、闘いに生きることです。クリスチャンなのに闘うのですか? と尋ねられるかもしれません。しかし神と人を愛する歩みに闘うべき戦いがキリスト者にはあるのです。

 目の前にある神様を神とせずに立ち上がって来る様々な問題に対して沈黙を保ち、虐げられている人のために共に痛み声を上げることをしないことは、愛する次世代の子どもたちに信仰をつないでいくことができないようなことになることがあるからです。第二戒、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」という戒めは、通常の生活では見えにくい闘いの相手を自覚的に意識することを求めてきます。

 では偶像とは何でしょうか。それは人間が刻む神の像のことです。偶像を造る事の一番の問題点は、人間の思い通りにできる神を造り出すことです。偶像はものを言いません。偶像を刻むとき、人間は自分の狙い通りの神を造り出すことができます。そしてこれこそが神なのだと、その神にものを言わせ、実際は自分のやりたい事に神の権威付けをすることができるのです。そして人間は偶像を刻むことによって自分が神になれる道筋をつけることができるのです。

 第二戒は、私たちから「イエスは主」と告白することを巧妙に奪おうとする力があることを自覚させます。そして神様を神様とすることを骨抜きにし、知らず知らずの内に偶像礼拝をさせようとする力の本質を見抜くことを求めるのです。第二戒はキリスト者が闘うべき相手がいること、闘うべき時を知らせてくれるのです。そして聖書の語る神は人間が神となっていく傲慢な道を第二戒で閉ざします。偶像は自分に都合の悪い事を言ってきませんが、聖書の神は私たち人間の罪をはっきりと示します。そして偶像を刻む生き方に、はっきりと闘うように求めて来るのです。

  ( PBA制作「世の光」2017.5.11放送でのお話しより )

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■わたしはあなたに答える / 福井 誠

2017年05月10日 | Weblog
2017/5/10放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「わたしはあなたに答える」です。 それではエレミヤ33章1節から3節までをお読みしましょう。
 エレミヤがまだ監視の庭に閉じ込められていたとき、再びエレミヤに次のような主のことばがあった。
  「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」



  33章はイスラエルがバビロンに攻められ陥落寸前であった時の出来事です。エレミヤはこの時、監視の庭に閉じ込められていました。エレミヤはエルサレムがバビロンの攻撃に屈すること、それが神のこらしめの鞭であるのだから降伏して悔い改めることを勧めていて、イスラエルの指導者や民の反感を買っていたのです。

 確かに敗戦や降伏など受け入れられるようなことではありませんでしたし、イスラエルには神風信仰と言うべきか、神の奇跡的な介入による逆転勝利の考え方もありました。それで指導者たちはこれ以上余計なことを言われないようにエレミヤを監視の庭に閉じ込めていたのです。しかしそれでもエレミヤはその監視の庭からイスラエルの人々に主のことばを語り続けます。
 
 降伏は単なる敗北に終わるものではない。そこには神の計画があり、民族再生の道が用意されている、と。イスラエルの民はバビロン捕囚という悲しい運命にさらされるのですが、再びエルサレムの地に戻って来る。バビロンによって破壊された荒れ廃れた町は再び建て直され、繁栄が取り戻される、というのです。

 エレミヤは裁きと滅びのメッセージのみならず、回復のメッセージを語りました。そしてそれは昼が来て夜が来てまた朝が来る、自然の秩序と同じほどに確実な出来事であると言います。当時の人々がどれだけあらかじめ語られたこれらのことを受け止められたのかとも思います。けれども、それらエレミヤによって語られたことは全て実現して行きました。

 神は私たちの将来についても同じように語りかけています。それは確実な祝福の約束です。ぜひ聖書を読んで、イエスの十字架にある祝福を知っていただきたいと思います。
 
(PBA制作「世の光」2017.5.10放送でのお話より )

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■神が目を開かれる / 板倉邦雄

2017年05月09日 | Weblog
2017/5/9放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「神が目を開かれる」という題でお話ししましょう。
今日は一匹の動物を通して命拾いした人の話をします。その人の名は占い師バラムです。民数記22章の続きです。

 さて占い師バラムはモアブの国へ行く途中でした。神様が行くなと言うのにゴリ押しで出発しました。道の途中で、神の使いが剣を持って立ちふさがっているのを主人を乗せたロバには見えました。主人を助けるためにロバは畑に入ったりその場に座り込んだりしましたねえ。怒った主人のバラムは三度もロバを杖で打ったのです。その時ロバが口を開いて主人バラムを諭しました。

 この時です。主なる神様が占い師バラムの目を開かれたので、バラムは神の使いが手に剣を持って道に立ち塞がっているのが見えました。

 私たちは主なる神様によって心の目が開かれる時に、今まで見えなかったものが見えて来るようになるのです。心の目とは理性と感性そして意思の目ではないでしょうか。私たちの心はこの三つの領域で構成されていると言われています。またある人は、心の目とは魂と魂と霊の目だという人もいるでしょう。とにかく見えるものよりも見えないものの方が私たちにとっては大切なのです。

 神の使いは占い師バラムに言いました。「なぜあなたは三度もロバを打ったのか。あなたが誤って道を行くのでわたしはあなたを妨げようとして出てきたのだ。もしロバが身を巡らしてわたしを避けなかったら、わたしはきっと今あなたを殺しておいたであろう。」 「私は罪を犯しました。それで今、お気に召さないのであれば私は帰ります。」 「いや、この人々と一緒に行きなさい。ただしわたしが告げることのみを語らなければならない。」

 アメリカであった話ですか。主人が犬を連れていつもの散歩をしようとしていました。しかし犬は外へ出たがらないのです。主人を地下室へ引っ張っていくのでした。地下室に入って間もなくです。竜巻のハリケーンが上空を通り過ぎ、家もろとも無くなってしまいました。そして主人は守られたのです。

  (PBA制作「世の光」2017.5.9放送でのお話より )

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