♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■神のわざが現れるため 8 / 大嶋重徳

2014年10月21日 | Weblog
2014/10/21放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。ヨハネの福音書9章には生まれつき目の見えない青年がイエス様と出合い、イエス様が唾をつけた泥をこねて青年の目に塗った話ができます。そして青年がシロアムの池に行って目を洗うと彼の目が見えるようになったというのです。

 聖書の中に、イエス様が病の人や目の見えない人を癒した記事が幾つもでてきますが、それらのすべてにイエス様が唾を吐いて泥をこねて塗られたとは書いてありません。もしそうだとすると、イエスの唾付き泥は相当高くれたことでしょう。神様のなさることにはマニュアルがあるわけではありません。救いも神様の恵みも他の人に起こったことが自分にも同じように起こるわけではありません。私たちの願うように神様がいつも働いてくださるか、と言うとそんなことはないのです。むしろ神様を信じて生きるとき、私たちは多くの「なぜ?」を抱えたまま生きることとなります。

 誤解を恐れずにあえて言いますと、キリスト教信仰は信じやすい信仰ではありません。信じる内容はシンプルなものです。神様が私を創造され、独り子イエス・キリストを十字架にかけるほどに愛してくださり、イエス・キリストは私の罪を身代わりに十字架で負ってくださり、復活されて今わたしと共にてくださる、ということを信じる。しかしそれは信じやすいことか?、と言うとそうではないと思います。信じたらこういう分りやすい特典が付いてきますよ、すべてあなたの人生に幸福が舞い降りて来ますよ、と言うものでもありません。クリスチャンになっても、「なぜこんな事が起こるんだろうか」と言うことを抱えながら生きると言うことがキリスト教信仰には求められるのです。

 しかし信仰者は「なぜこんなことがあるのか!」というその叫びを神に問い掛けることができます。「なぜこんなことが」の向こう側におられる神のご計画を想いはかりながら生きることができるのです。「この深く痛みを伴う問題に神様の栄光が現れるとは一体どういうことなんでしょうか」と問いながら、私の人生を十字架の愛で愛してくださった神がなさることだと知って生きることができるのです。

 ここに信仰の豊かさがあります。この豊かさをぜひ受け取っていただきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2014.10.21放送でのお話しより )

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さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


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このサイトは URL名として  http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


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