花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

レモン色のまち 第5回

2016年09月14日 | レモン色の町

昭和三十二年二月二十二日 荒涼とした光景。ここを何処だと思われますか?諏訪駅の線路をはずされた空き地沿いに、現在ふれあいモールのある西側の光景です。寒い日の早朝。街路灯はまだ点灯したままです。犬がぬかるみの中でこちらを見ています。

この先に名古屋へ向かう線路が通っているはずですが、よく分かりません。新しい駅は開業しています。(旧線路は昭和31年9月22日まで稼働していました)まもなく通勤の人々が、ここをまたぐようにして通っていくことでしょう。左が川村鉄工所、右が二番街になります。これから一気に、一番街が形成されます。

 

諏訪駅が撤去され、駅から西方向、名古屋行、湯の山線、内部・八王子線の三路線撤去跡が残った。荒涼とした空き地が広がる。左、ラクダヤさんの看板が見えるところは川村鉄鋼か?新しくできた近鉄四日市駅から、町へ向かう人が空き地を横切る。3枚の写真は少しずつ右へずれて写されているのが建物の位置からわかるが、最後の写真、弥生館の看板の向こうに、堀田美容室と水谷食堂の字が読める。これは、辻さんが撤去直後の諏訪駅跡地から西方面を撮った写真だ。

 

諏訪駅西の空き地の広さが想像できなかったので、昭和31年8月の航空写真を掲載しました。

 

そしてこの写真は、江田町の航空写真。国鉄四日市駅から手前の諏訪駅に線路が伸びています。(残念ながら諏訪駅は写っていません)下に諏訪劇場、左に諏訪マーケット、そこから上へアーケードがあって三泗百貨店が右に建ちます。


レモン色のまち 第4回

2016年09月13日 | レモン色の町

 

若かりし頃の辻俊文さんの写真です。

 

昭和三十一年八月三十日。夏の宵。諏訪駅跡の空き地で(東向)「歌のびっくり箱・クイズ合戦」という催事が行われた。主催は江田町発展会。諏訪駅から南、中央通りまでが江田町だった。諏訪駅から南西へ伸びる内部・八王子線跡地が江田町西部地域会と呼ばれていて、江田町は今の一番街を包括するほど広かったのだ。

 大勢の人が集まっている。前を陣取った子供たちがキャラメル欲しさに舞台へと群がる。

家にテレビは無い。暑さと退屈で街へ飛び出す。

 

解体準備が進む諏訪マーケット前。諏訪マーケットから西へ、らくだ洋服店、カメラ光映堂、やきそば柏屋と並ぶ。

 

昭和三十二年二月。諏訪駅が取り壊された跡に、広い空き地が残った。右西から、まるみやパチンコ店、スワン美容室の裏口、今村書店と並ぶ。その東に辻写真館へ抜ける狭い路地があって、奥に見えるのが諏訪劇場の大きな屋根だ。写真の左に諏訪百貨店が建っている。この道は、すでに取り払われている内部・八王子線沿いの道路だ。新しい駅へ通勤の人々がこの近道を通る。

 寒い日の午後。昼頃まで時雨れていた空がようやくあがった。ぬかるみの中を子供たちが遊ぶ。街のいたるところが遊び場になった。

新しく出来た空き地を、僕が走る。

だだっ広い空き地を二人乗りの自転車が通る。さてここは???


レモン色のまち 第3回

2016年09月12日 | レモン色の町

昭和三十三年七月十八日、凌霜書房前の様子。凌霜書房は、諏訪百貨店、通称スワマーケットの入り口にあった。店番をしながらこちらを見ているのは、現在の白楊のおばあさんだそうだ。

白楊へは今でもよく出かけるが(現在、1番街店は閉店している)、凌霜書房は記憶にない。「ぼくら」「少年画報」「おもしろブック」「少年」などの雑誌が月初めになると発売された。付録がたくさんついていて膨れ上がった本を紐でくくってあった。昭和三十四年、週間「少年サンデー」、続いて週間「少年マガジン」が発売され、子供向けの月刊誌は徐々に姿を消していった。

 

マルモ乾物店の西に並んで凌霜書房があった。そこから中へ入ると右に“まつ重文具店”左に洗剤や化粧品を売っている店。奥に八百屋さんがあって、U字型に回ると西に中村履物屋さんとボタン屋さんが並んでいたと想像できる。

 

昭和三十五年十二月二十日。諏訪百貨店、通称スワマーケット内部のボタン屋さんだ。この写真を見て驚いた。豊富な在庫、明るい店内。若々しい店員の手際のよい接客。二,三坪の店に活気があふれている。しかも、ここの屋根の上では、すでに解体工事が始まっているのだ。ほとんどの店が閉店している中、この店は未だ営業を続けている。「お客さんがみえるから商売させていただいてるんです」そんな答えがこの店から返ってきそうだ。ボタンで、商売が出来た時代だった。

隣の店に下駄が吊るしてある。中村履物屋さんだろう。

写真右にボタン屋さんの箱が積んである。狭い店内に山のように積まれているのは下駄とつっかけ。そして鼻緒が下げられている。


レモン色のまち 第2回

2016年09月11日 | レモン色の町

諏訪駅前の“諏訪百貨店”は通称“諏訪マーケット”と呼ばれ、戦後、にわかに建てられた集合店舗です。中は“コ”の字型になっていて常設市場の様相でした。奥の八百屋でスイカの切り売りを食べた記憶があります。諏訪駅移転の後、昭和35年12月20日に解体工事が始まり、昭和37年、諏訪百貨店として新しくオープンします。

 

昭和三十三年七月十八日、諏訪駅が立ち退いた後を東に見る。諏訪劇の看板をくぐってまっすぐ行くと、右に三泗百貨店がある。三泗百貨店前に並んでいた線路を背にした小さな店の並びは、取り壊される。キタオカの角に堀田美容室。その向こうに少しさがって、草野洋服店が建つ。堀田美容室の建物は現在のままだから、草野洋服店が前へ出てきたことになる。一番街の通りが作られつつある頃だ。

 正面に諏訪劇場、左に弥生館と三重劇場の看板。駅前は映画の看板だらけだった。凌霜書房の奥さんが外を見ている。

 

昭和三十三年七月二十一日。諏訪駅前にあった、スワマーケットの凌霜書房前の様子。東向き、三泗百貨店方角に撮られたもの。

すでに前の諏訪駅は移転済みで、三十七年九月の四日市スワ百貨店開店に向けての建て替えの話が進んでいるはずだ。

 かごを持ったおにいちゃんが通る。出前の帰りか?凌霜書店の隣にはゑびす餅の看板、地下水で冷やされたジュー

 

ス。諏訪劇場の看板に片岡知恵蔵の新撰組とある。弥生館では若い野獣と駅前旅館が上映中。この道は八王子線沿いにゆっくり西南へカーブしていて近鉄四日市駅前に出る。

 

昭和三十三年二月二十三日。諏訪百貨店にあるマルモ物産の店頭。この頃すでに諏訪駅は取り壊されて店の前には空き地が広がっていたはずだ。甘酒の素の看板が見える。鮪味付け四個九十円?鮪の醤油付けしたものを焼いて食べたのだろうか?

夕方、店の前で子供を負ぶったお母さんと、店の兄ちゃんが立ち話をしている。

「あきちゃんなあ、四月に結婚するんて」

「へえ、もうそんな歳になったんかいな」

「まだ子供やと思とったのになあ」

「ええ鯵の干物入ったで、買うてって」

 


レモン色のまち 第1回

2016年09月10日 | レモン色の町

辻さんが亡くなられて6年ほど経つか?20年ほど前のことですが、辻さんが撮られた写真のことを知り、作品のコピーをお願いした。辻さんは快く了解していただき、その年にスワ前商店街で“昭和レトロ物語”のイベントを行った。

近鉄諏訪駅が解体され、近鉄四日市が出来た昭和32年頃は、街の中心が諏訪新道から1番街へ移行する変化の大きい年だった。写真屋を営んでいた辻さんはカメラを持ってその変化を記録した。

今回“まちゼミ”で辻さんの写真を投影したいと思い立ち、パワーポイントで編集していたらイベントに使った解説があった。拙い、間違いも多い文章ではあるけれどここに再公開させていただきます。写真も再掲載になりますが、ご勘弁ください。

第1回は、諏訪駅廃止となった駅周辺を散策します。

 

昭和三十二年四月。諏訪駅が現在の近鉄四日市駅へ移転した。

 

当時舗装もされていない道を、なんと大勢の人が押し寄せたことか。一階の東海ストアはオープン記念の売り出し中。一階左から、近鉄観光と事務所。真ん中に改札口があって、北半分が食品売り場。エスカレーターで二階へ上がると売り場の南側には食堂があった。お子様ランチに胸をときめかせた。

はじめは家族と訪れたが、すぐ一人で行くようになる。おもちゃを買うのにいつまでも迷った。ポケットの中の百円札を握りしめて。

 

昭和三十年頃の四日市諏訪駅。東海道筋にあった諏訪駅は、戦後現在のパチンコホームランの辺りに移された。国鉄四日市駅から出た近鉄電車は諏訪駅を通り、ここから北へカーブして名古屋へと向かっていた。ホームの南には三岐鉄道が入っている。ちょうど内部・八王子方面へ向かう電車が停まっているところだ。

諏訪駅がここにあったのは、わずか十年ほどということになる。線路をまたいだ北側にも改札口があった。左に諏訪百貨店が建つ。雨の中の諏訪駅。貴重な写真だ。一雨ごとに季節は秋へと向かう。

 

昭和三十年六月八日。当時一番街中央にあった諏訪駅から東を見た写真。駅移転の話が巷の話題になっている頃。諏訪駅を降りると右に諏訪百貨店、左が駐輪場だった。正面に大きな映画館の看板が並んでいる。弥生館には志村喬、諏訪劇場には菅原謙二の顔が描かれている。映画は当時唯一の娯楽で、二本立て

 

や三本立てが普通。内容は毎週変わった。

右へ行くと諏訪劇場、左が国鉄四日市へ向かう線路が通っていた。まっすぐ進むと三泗百貨店。駅の移転をきっかけにこのあたりも大きく変わることになる。 つづく

 


映画“杉原千畝”

2016年09月07日 | 映画の名言、映画の迷言

渡航ビザを発行して6000人のユダヤ人を救った“杉原千畝”のDVDを観ました。

日本大使館が閉鎖され、リトアニアから列車で去るとき、見送る事務官のグッジェは杉原にリストを渡します。

「杉原領事 これを」

「・・・」

「あなたが救った命のリストです これがなければ 

私は“よき人”と感謝される・・・喜びを知りませんでした」

「グッジェ」

「世界は車輪です

 今はヒトラーが上でも

 いつか車輪が回って 下になる日が来るかも」

「車輪が回ったとき

 お互いが悔いのなきよう努めよう」

「そうですね 領事」

 

杉原千畝の母校 ハルピンの学校の自治三決です 映画の中では二度繰り返して紹介されます。

 人のお世話にならぬよう

 人のお世話をするよう

 そして 報いを求めぬよう


“続 男はつらいよ”ご紹介

2016年09月06日 | 諏訪商店街振興組合のこと

9月23日(金)午後6時より“続 男はつらいよ”を上映いたします。第2作目の寅さんは、怒りっぽくて元気です。松竹を説得した第1作上映は成功、わずか3か月後に第2作を公開しています。

寅さんの恩師・坪内散歩先生を演じる東野英次郎と、その娘役・佐藤オリエは、テレビ版「男はつらいよ」のメインキャスト。役名が冬子から夏子に変更されています。瞼の母が京都のラブホテルの女将だったという皮肉な展開。母・菊を演じたのは芸達者なミヤコ蝶々。感動の再開を期待していた寅さんに、「金の無心か!」と悪態をつきます。そこから苦労を重ねた彼女の半生が垣間見えるのです。前半、寅さんが胃けいれんで入院した病院で、盲腸の手術をしたばかりの患者(財津一郎)が、寅さんの笑い話に苦悶の表情を浮かべるシーンが秀逸。そして散歩先生と寅さんの交流。インテリと寅さんの取り合わせはシリーズの重要なエッセンスとなりますが、その萌芽があります。病床の散歩先生が江戸川の天然うなぎを食べたがり、寅さんが釣り糸を垂れる、後半のエピソードは深い印象を残します。

(封切り=1969年11月15日 上映時間=93分)

 

中学時代の恩師、坪内散歩先生(東野英次郎)を訪ねた寅さん、先生の娘で幼なじみの夏子(佐藤オリエ)に一目ぼれする。その晩、先生と酒を酌み交わし、しみじみ人生を語り合っていたら胃けいれんを起こし入院する。だが、病院を抜け出し、無銭飲食を起こして警察沙汰に。再び旅に出た寅さん。京都で先生と夏子に偶然出会い、寅次郎の母親を探すことになる。

権威を笠に着たり、学があることを鼻にかけたりする人は大嫌いな寅次郎。山崎努演じる医師に向かって「おう?てめえ、さしずめインテリだな」と皮肉る。「さしずめ」は脚本にはなく渥美清のアドリブ。「僕には考えもつかなかった、生き生きとした言葉」と山田監督は言う。

 渥美清は人を笑わせるのが何より好きだった。突然ひらめいたのだろう。こんなアドリブもあった。

「お前と俺とは別な人間なんだぞ。早え話がだ、俺が芋食って、お前の尻からプーと屁が出るか?」

         渥美清 没後20年“寅さんの向こうに”小泉信一監修より

坪内散歩先生と寅との会話から

「あーあー、人生相見ず、ヤヤモスレバ参(シン)ト商ノ如シ。今夕(コンセキ)マタ何ノ夕ベ コノ灯燭ノ光ヲ共ニス。寅、分かるかこの意味が!」

「ダメだよ先生。オレ英語全然ダメよ。」

「バカだな~、これは英語ではない、漢詩だ」

「カンシ・・・」

「人間というのは再会するのは、はなはだ難しいということだ。今夜はなんと素晴らしい夜であることだ。古い友人が訪ねてきたのである。お父さんの友達が来たというので子供たちが質問攻めにする。酒をもってこいと追っ払い。二人は杯を重ねる。

外は雨がしとしとと降っている。二人の話は尽きない。明日になれば君は、また別れを告げて山を越え、私はここに残る。ひとたび別れれば人生は、茫々としてお互いの消息は絶え果てる。

アーアー明日山岳ヲ隔ツ、世事両(セジフタツ)ナガラ茫々。だな」


映画“ワイアット・アープ”

2016年09月03日 | 映画の名言、映画の迷言

ワイアット・アープは1994年の映画です。スケールのある英部劇そのものの作品で、ケビン・コスナーが主人公、おやじ役がジーン・ハックマン。若いころ、妻を病気で亡くしやけになり、酒におぼれて留置場に入る。ある夜、おやじが救いに来る。

「馬泥棒?」

「それは」

「黙れ!死ぬ気か?

馬泥棒は縛り首だぞ」

「構うもんか」

「愛するものを失ったから?

人生は失うことの連続だ

それにくじけて どうする

それに耐えるのが人間だ」

人生は 失うことの連続 

それに耐えよと 諭します