昭和33年7月18日、諏訪駅が立ち退いた跡を東に見る。諏訪劇の看板をくぐってまっすぐ行くと、右に三泗百貨店(現サンシ)がある。三泗百貨店前に並んでいた線路を背にした小さな店の並びは、取り壊される。キタオカの角に堀田美容室。その向こうに少しさがって、草野洋服店が建つ。堀田美容室の建物は現在のままだから、草野洋服店が前へ出てきたことになる。一番街の通りが作られつつある頃だ。
正面に諏訪劇場、左に弥生館と三重劇場の看板。駅前は映画の看板だらけだった。
凌霜書房の奥さんが外を見ている。
本日の1番街(東方向)
昭和33年2月23日。諏訪百貨店の東側に建つマルモ物産の店頭。この頃すでに諏訪駅は取り壊されて店の前には空き地が広がっていたはずだ。甘酒の素の看板が見える。鮪味付け4個90円?鮪の醤油付け(醤油漬け?)したものを焼いて食べたのだろうか?
本日の1番街(南方向)
夕方、店の前で子供を負ぶったお母さんと、店の兄ちゃんが立ち話をしている。
「あきちゃんなあ、四月に結婚するんて」
「へえ、もうそんな歳になったんかいな」
「まだ子供やと思とったのになあ」
「ええ鯵の干物入ったで、買うてって」
“諦観”は、抱えきれないほどの悲劇を抱え込込んだ末の、生きていく術だったのかもしれません。女性は強いデス。今も昔も・・・
私がまだ小学校の低学年だった頃のこと。
四日市の三泗百貨店前に、近鉄の線路を背にして
並んでいた小さな店の並び。その中にあった小間物屋さんの女主人。
戦争で夫を亡くされたことを私の母親に話したときの女主人の口調が、子供心にも鮮明な記憶として残っている。
自分のことなのにまるで他人事を話す様に、そこから一歩退いたような諦観の混じった無表情な声。
直視するのがあまりにもつらかったのだろう。
それから25年位経った四国松山から大阪へ向かう夜行フェリーの三等船室でのこと。
中年女性の話す諦観に満ちた声を聞いて、25年位前のあの記憶が鮮明に甦ってきた。