元気だった四日市の産業は、戦況が悪化するにつれ、目に見えて弱体化が進んだようだ。事業所の合併が進み国の方針に従わざるを得なくなる。昭和18年 平田漁網は織物機械を軍に供出している。昭和18年5月、午起海岸(海水浴場)で起工式を迎えた浦和ドッグは、木造の造船所だったので、空襲の際には、火だるまとなった船の形が、まるで仕掛け花火のようだったという。当時の起工式の様子(写真集 四日市の100年より)
浦和ドッグ起工式の様子
しかし、終戦になるや復興への息吹が沸き上がる。日本肥料㈱四日市工場は、海軍燃料廠跡に工場を立ち上げることとなる。
国道1号線の拡幅工事は、昭和17年に三滝川から諏訪神社まで進められていた。空襲後の航空写真を見ると一目瞭然である。
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