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市井からの眺め46弾丸列車⑥

2020年05月09日 | レモン色の町

島 安次郎氏の四日市での偉業を中心に書かせていただきます。

明治27年、帝国大学の機械工学科を卒業した島 安次郎は、私鉄の雄・関西鉄道(四日市)に入社し、すぐさま技師長のような役職に就いた。『亜細亜新幹線』 前間孝則 講談社文庫より

たちまち実力を発揮した安次郎は、次々と新しいアイデアを出して、鉄道会で注目を浴びることとなった。例えば、高速時に不安定になりがちな機関車の動輪のバランスをとりやすくするクロス・バランシング方式を採用した。二軸貨車の四つのバネの硬さをそろえて脱線を防いだり、客車内の照明がまだ石油ランプでしかなかったころ、ピンチガス灯(車載ガス灯)を採用した。また、車体の外側に赤、青、白の色帯を塗り、客車の等級を見分けやすくするなどの斬新なアイデアは高く評価された。

明治39年当時における私鉄の主要幹線17社の鉄道は、4834キロにも達し、官営の3200キロを凌駕していた。そうした中、政府は戦時に不可欠な輸送力の増強を推し進めることとし、3月31日「鉄道国有法」を公布して主要幹線を国有化、これは全国どこへでも自由に通車できるようにという考えに基づいていた。島は、国有化に先立ち官界に入ろうとする関西鉄道社長 田健次郎にスカウトされ鉄道工作課長に就任することになる。

発足間もない鉄道院は、私鉄の寄り集まりだったため車両の種類が多く、まず設計規格を統一した。そして、民間会社で車両を修繕・製造できるように育成することとした。

当時、車両間を連結器でつなぐ作業は、作業員の1割が死傷するといった危険をはらんでいた為、自動連結器に交換することとなった。ところが、日本国内の5万台を超える全車両の作業を、輸送を止めずにいかにスムーズに交換するかということが大問題となっていた。島は、4年半かけ周到な準備をし、貨物が閑散で晴れの確率が高い大正14年7月17日と決め、ほとんどの職員を動員して1日で交換する神業を成し遂げた。

昭和12年の盧溝橋事件をきっかけに、東京から満州を高速で結ぶ『弾丸列車』構想が出るのは昭和14年の事である。

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