農を語る

自然にやさしい不耕起栽培

生活の質を上げるということは何が基準となるか

2017-01-08 13:28:15 | 日本不耕起栽培普及会

19年前息子がカナダにいる頃妻と旅行したがその頃駅のトイレに入ったら蛇口をひねるとお湯が出てきた。ずいぶんと進んだ社会だと思った。でも今では生活のスタイルが日本でも進化し子供たちの住まいでは蛇口をひねればお湯が出なければそこでは生活できないと感覚がすっかり変わってしまった。妻との2人生活ではいまだに蛇口からお湯は出ない生活である。お風呂に至ってはいまだに木を燃やす灯油との併用型の釜を2代目でも使っている。クーラーは昨年5月妻が床につく生活を始めたので、8月になって設置した。もちろん6畳の1部屋だけである。

そしてこのクーラーの使い方でも昼間は天気が良ければ太陽がいっぱいであるからほとんど使わず夜だけ18度、この頃室温が12度まで下がるので20度の設定にしている。妻の長野の実家では最新鋭のドイツ仕立ての住宅で3重ガラスでセントラルで常時20度という環境である。私の古い住宅では20度に設定しても寝床の位置では15度である普段の生活では冬支度の厚着をし灯油ストーブと足を温める電熱ストーブ1台づつで間に合わせている。長野育ちも妻は寒さには強いし、私は主に出歩いているからほとんど家にはいない。ただ様式トイレへの転換はやはり妻がアキレスけんを切ったとき20数年前に転換した。お尻を清潔にしておきたいという願いからであった。


時代を読むで「上野村の正月」内山節さんを今朝読んで感じたこと

2017-01-08 09:34:05 | 日本不耕起栽培普及会

私も東京で学生をやっていた25,26歳の頃東京に住んでいたが、松戸や神奈川の空とは異なり毎朝起きると今の北京と同じ状態で汚れた油煙が空から降りてくる環境だった。私がその時思ったのは次世代の子供を育てるのには東京は適していないと直感した。その後現在の旭市の農業高校の教師を35年勤務することになるが、後継者育成ということで自分なりの努力はしてきた。農業の立地条件、海にも近く豊かな海の幸にも恵まれて私の世代は順調に過ごせたように思う。ただ自分の中でより安全な生活を求めたいという欲求があって、農薬や化学肥料を使わない農法の探求が始まっていた。これは長崎で生まれ父親が被ばくした体験とかもともと双子で相棒は3歳で亡くなったが幼少時代ひ弱な生活を送ったこと、兼業であったが愛知県でサツマイモや小麦を栽培したり鶏をかったりしていた。時にかっていた鶏が腸を出して死んだことも幼い時に体験した。教員時代もその農薬を使わない技術のありようが常に頭の中から抜けることがなかった。

上野村の生活は同じローカルな村の生活という点ではあさひもまったく同じように生活がしやすい市であった。