農を語る

自然にやさしい不耕起栽培

病害虫に対する考え方に大きな差、天敵の数でなく個体内の窒素レベル

2018-01-20 09:35:09 | 日本不耕起栽培普及会

虫が発生したからどのように殺すかを考えるのではなく、その時どのような施肥をして硝酸態Nが個体内に増えてしまったのかを考えるべきであった。天敵をどのように増やすか、とか雑草は刈らない方がいいといった対応をしてきたしかし私たちはもともと少肥であるからほとんど害虫の発生が体験できなかった。でもカメムシ被害などたまに体験したり、有機栽培農家の稲を見る機会があると案外虫の被害が深刻であったりする。人間でも今半病人とか薬に頼らざるを得ない環境が当たり前となりましては2人に一人が癌にかかるといった時代になると、元をただすことが出来ず、作物もおなじように薬に頼りたいとか、年を重ねるにつれ草をどうするかで除草剤を考えてしまう。岩澤信夫さんのいう冬期湛水・不耕起栽培で土を動かさなあいことで徐々に発芽する種の条件が奪われ畦周りから侵入する雑草だけ注意すればよくなる。私の体験ですでに13年続けて雑草は気にしなくても大丈夫な環境をつくりだしている。続木善夫さんは浮離アミノ酸が害虫を呼ぶと言ってその成分を減らすことが大切でアミノンー25というブラジルで製造され、輸入されている物質を液肥として葉面散布でへらせるということである。


我々が60年代に教わった農業教育には基本的に大きな誤りがあった

2018-01-09 11:04:08 | 日本不耕起栽培普及会

大学やマスターの教育を受け、農業高校で35年教鞭を行ってきたが、大学や試験研究機関はいづれも化学肥料と農薬ありきのシステムが行われて生産に携わるようになれば農協と共済組合がその支配権を握ってきた。除草剤は農民のいのちを救ったとまで農業の指導者は使うことの正当性を論じた。

ところが最近わたしたちを勇気づける本にめぐりあった。新技術「病虫害の生理的防除」の理論と実際、続木善夫

続木さんは1929年生まれ大阪府大農芸化学科卒1953年ブラジル移住、農協の営農指導員、ドイツバイエルのセイルス員、を経て独立、農薬販売会社設立、1981年有機農業に転換、農薬を使わない科学的農法に移行、土壌改良剤と除草機の販売に切り替えた。その間フランスの学者F・シャブスー著中村英司訳「作物の健康」とヨーロッパでも農薬を使わない研究がおこなわれていた。

 


多古での取り組みを改めて紹介すると、9年目となる鈴木理一さんの水田から

2018-01-08 14:22:21 | 日本不耕起栽培普及会

2009年休耕田を多古染井地区の鈴木理一さんから3セを借りスタートした。1年の開墾で若い女性が果敢に挑み室舘ファミリーが入れ替わり立ち代わりススキ、ガマ、柳、つる性のクズを除去し水田の傾斜を修正した。初年度はとにかく3俵も採れる力の入れようであった。岩澤信夫さんの塾生であったから冬期湛水と水を張った。その後代が代わり2011年には大学の先生が気晴らしのために始めた。暑い波板を巡らし湛すいが完璧におこなわれた。周辺の農家に考えとは1味違うために水争いは絶えなかったが何とか地域の方々とも折り合いがつくようになった。

その間2013年周辺の水田を広げられるチャンスがあり14aにひろがった。冬期湛水の区域が広がったことで自然回帰が強まったと予想される。翌2014年この周辺田んぼにコウノトリがやってきた。3月6から9日の3泊4日ではあったが多古の自然がいまだ空散地帯であってもカメやドジョウ、アカガエルが沢山生息する土水路、湧き水地帯であることが鳥たちの生活圏を守っている。3枚の水田のうち1枚を畑にして高畦にしたりしている間に畦を掘ると30センチに1匹はドジョウが出てきて、地域の人はドジョウがいることを知っているので仕掛けを掛けて採取してもいる、3年ほど畑にして小麦や大豆を栽培したがカヤネズミがでたり、ウサギが大豆の芽を食べに来たり、畑シメジが発生したりで希少生物との遭遇が頻繁であった。

コウノトリの写真は地域の方々が撮影し。長野の上田から飛来した同じ個体であることがコウノトリ里の豊岡で足環で確認されている。その時の写真を記事とともに掲載する。


2018新年に当たって、今年の稲、大豆の塾企画

2018-01-06 11:05:17 | 日本不耕起栽培普及会

ここ3年高浜大介さん企画するアースカラーの傘下で日本不耕起栽培普及会の活動を続けてきたが、そこから自立して佐倉の地で不耕起栽培の稲と大豆の塾を継続することにした。当面のサポーターは5年ほど私と行動を共にしている広島から通っている今井孝さんと、事務的な作業を担当する福田大輔さんー17年度塾生の3人で企画運営にあたる。またこの佐倉の和田地区は岩澤信夫さんが生前最後の活動の場として選ばれ、印旛沼の浄化を大きな課題として、地域の方々に働きかけた経緯があり和田地区に未来農業研究会が設立され、私も其の会の会員でもあり、年配の藤井毅、藤崎言行、斉藤和等の地域業を支える逸材が控えている。

最近の塾の会員は農薬、除草剤使わず化学肥料を使わないで自給的なお米、大豆作りの半農、半xの比較的若い方々とやはり定年前後の方々が多い。和田地区の実験田は和田小学校のすぐ脇にあり休耕田をアースカラーの最初の活動で開墾に取り組んだ。今ではその小学校の5年生が毎年田植え、いきもの調査、稲刈りを体験できる場となっている。また神崎の近くにある寺田本家の酒屋では岩澤信夫さんが30年近く実験田としていた藤崎芳秀さんのお孫さんが近い将来農業後継者として働ける準備を始めている。高卒で勤め始めたのである。若い世代の方々も農薬、化学肥料、除草剤を使わない新しい感覚の人々が育っている。それらの力を育てていきたい。


咲き続ける水仙に感動

2018-01-03 10:50:32 | 日本不耕起栽培普及会

冬型の今年の正月は温暖なはずの旭も厳しい空風を受けて寒い、10年ほど経験したことのない展開になりそうである。しかし我が家の庭先では水仙が昨年の11月から咲きだして今が盛りである。風で倒れた花だけを切り取って部屋で楽しんでいるが最高な楽しみである。きっかけは水仙の周りにビワの木があって、自然発芽したビワであったが数年前から実をつけ食べられるようになったが、隔年結果でなったりならなかったりなので平均に毎年ならせたいと、干潟にある畑でも梅と柿について肥料のやり方を変えて自分で米ぬかとか自家製の酵素液を生ごみから作り施してみているが、農薬は全く使わずともほどほどに結実するようになった。そのおこぼれで水仙がきれいに咲き感動をあたえる。昨年梅ははずれ年にもかかわず1本で5キロ収穫できた。柿の実はこれまで4,5個しかならなかったのが150個もなってびっくりであった。柿は昨年渋柿で佐倉で干し柿にしてもカビで黒くできなかったが、今年は11月以降寒い冬がやって来たので干し柿が可能であった。多古ではいまだに野生に近い小粒柿が木にそのままなっていて収穫する人もなく枯れるのをまっている。