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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(P31) 京急歴史(1) 大森海岸と大森間に電車が走る(その1)

2006年08月11日 | 大森町界隈あれこれ 京急関連
現在の高架上の大森海岸駅(京急出展駅情報参照)は、1970年に環七通りとの立体交差化のため鈴が森から平和島間の高架化により完成し、平成3年に開設した「品川水族館」の下車駅として休日には乗降客で賑わっております。

京浜電気鉄道開通で大森海岸と大森間に電車が走る
最初の大森海岸駅の敷設は八幡駅と呼ばれ、1901年に六郷橋駅と大師駅間で営業を開始した「京浜電気鉄道」が、六郷橋駅から六郷川を渡り旧東海道上の併用軌道を北上して大森村の集落を経て左折し、現在の大森海岸駅付近の八幡駅から西進して、東海道線の大森駅前の南に大森停車場前間が開通(大森停車場終点地図参照)しました。
京浜電気鉄道開通当初は、大森停車場前が終点であり、終点での折り返しは四輪電動車と電動機や運転設備のない四輪付随車を連結した2両編成の電車を、ループ状のレールを敷いて、電動車が先頭になるように向きを変えられる方法が採られました。
この様にして、開通当初は大森海岸と大森間に電車が走ることになったのです。

大森海岸と大森間が支線となる
1904年に、八幡駅(現大森海岸駅)と品川間が複線専用軌道で開通し、それまで併用軌道を走っていた八幡駅から学校裏駅(現平和島駅)間を、大森町裏を通る現在の京急路線上の専用軌道とした上、品川と川崎(1902年伸延)間が全通しました。これに伴い、大森海岸と大森間は僅か800mの支線(支線ルート説明地図参照)となり、駅名を海岸駅(昭和八年地図参照)と改称されました。
なお、現在の大森海岸駅への改称(京浜・湘南電鉄沿線案内図絵抜粋 出展横浜都市発展記念館所蔵 利用許可済)は1933年に行われました。

大森海岸と大森間廃止路線の跡を辿る
京浜電気鉄道開通の終点駅として敷設された大森停車場前駅と大森海岸駅間の支線は、役目を終了して1937に廃止(昭和十六年地図参照)されました。廃止路線跡は、道路用地となり、乗合い自動車が代替輸送で運行されました。
七月の七夕を迎えるある日、かって大森海岸と大森間を電車が走っていた痕跡を辿り探索してみました。
大森海岸駅前の廃止路線跡の道路は、第一京浜道路に接し路線跡に従い大森停車場前駅へと進みます。この道路は、JR大森駅東口の駅前広場のバスセンターから、京浜急行バス路線となり、羽田空港、森ヶ崎、大森東五丁目、平和島、船の科学館、大井競馬場などの多方面方向行きのバスのメインルートになってます。

メインルートの道路の歩道には、かっての面影を偲んで石畳のタイル絵がはめ込まれており、絵にはチンチン電車、大森海岸海苔大森貝塚大森熊手麦わら細工など大森の歴史のシンボルが、歩行しながら見られる嗜好になっております。
道路を、大森駅へと進み前方を望む と、大森停車場のループ線跡を公園にした木立ち が見えてきます。公園は、ループに沿って造形されており一巡してみました。
大森海岸側から見たループ跡の公園
公園を反時計周りにループ右側を直進してみる
公園をループ状に左カーブして進む
ループの頂点から公園内を見る
さらにループに沿って進む
カーブを曲がり切り直線部へと進む

残念ながら路線の片道を歩いて見ましたが、大森海岸と大森間の電車が走っていた痕跡は、大森停車場ループ跡の公園と道路のタイル絵のチンチン電車以外には見当たりませんでした。


公園を後にして、JR大森駅に向かうと七夕の飾り付けされた駅のホームには、日本考古学発祥の地の石碑が建っております。
石碑には、「ESモース発掘百周年記念に建立したもので、アメリカの動物学者モース博士が1879年横浜より新橋へ向う汽車の窓から大森貝塚を発見し、これが契機となって日本の考古学が発達しました。このブロンズは当貝塚出土の土器を約2倍に拡大したものです。1979年12月と書かれてあります。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
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2 コメント

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はじめまして (まーぼー)
2009-01-25 03:41:23
私は生まれて50年来大田区に住み続け、高校時代は今は無き羽田高校に通う為に毎日京浜急行に乗っていました。ボロボロの電車しか走っていなかった穴守線がとても懐かしい世代です。
最近京急蒲田近辺が様変わりしていると噂には聞いていたのですが、卒業してからはなかなか京急線を使う機会が無く、見に行けませんでした。
でも、こちら様のサイトなどを見てからはかなり気になって、最近見に行ったのですが、当時の面影が全く無くなっているのに大変驚きました。
これからは時々見に行きたいと思っていますが、行けない時はこちら様の写真を参考にさせていただきたいと思っております。

ところでこのコメントを書いた理由ですが、hkanda_1933さんが大森支線(取りあえずこう呼ばせていただきます)に付いて二つ程勘違いをなされているようだからです。
まず一つ目ですが、日本の鉄道は左側通行です。ですから、大森停車場近辺のループでは、海岸駅側から見ますと、大森停車場へ向かう電車が左側を走り、戻る電車が右側を走っていたはずです。そうなると、ループの部分は時計方向に回っていたのではないでしょうか。
実際、その当時の写真(私は見たことがありませんが、いすゞ本社近くの歩道橋脇に掲げてあるそうです。他のサイトで掲載していました)を見ますと、ビューゲルの向きから時計回りだったことが伺えます。

もうひとつですが、hkanda_1933さんの説明によりますとループは公園の所に作られていたとあります。それでは回転半径が数mとなり、いくら当時の電車が小さかったとしても、無理があるのではないでしょうか。
こちらの「昭和十六年地図」を見ますと、海岸駅から大森停車場に向かう道路上に細い線が描かれていますが、これは大森支線跡を元にしたバス路線ではないでしょうか。そして左側のループの中にある白い部分が、こちらでループ部分とされている公園になった部分ではないでしょうか。
更に地図上のループの中には「白木屋」が建っていますが、白木屋は後に東急に吸収されました。今では他のビルになっていますが、昔大森駅そばに東光(東急)ストアがあった記憶があります(今は構内にありますね)。
すなわち、実際のループは「公園を反時計周りにループ右側を直進してみる」と言う写真で、左側信号機のある道を進み、駅のすぐそばまで行ってから、右側のatre2の看板が見える道から戻って来たと思われます。

尚、先程挙げた「他のサイト」ですが、こちらを参考にさせていただきました。
http://saiquet.com/archives/2000/10/post_10.html
こちらのブログでは戦後国鉄蒲田駅から羽田線を直接結んでいた線も紹介していますが、そこに写真を提供させていただいたのは私です。
http://saiquet.com/archives/2002/07/post_4.html

ちなみに参考にしたブログのオーナー様はたまたま私が検索して知った方で、それほど深いお付き合いはありません。それなのに勝手にリンクを付けるのはまずいと思いますので、このコメントは参考にして下されば結構です。

それでは失礼致します。
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まーぼーさんコメントありがとうございます (kan-haru)
2009-01-26 18:12:46
まーぼーさんはじめまして!

大田区で50年も住まわれていたとのこと、同じ区の住
民として身近に感じます。
私も4才から大森に住んで、大森第1小学校に入学した
のは昭和15年で、高校を卒業したのは昭和27年でし
た。

大変貴重な情報をありがとうございます。ブログの記
述が調査不足でした。現在は、ヨーカ堂の横の広場に
大田区の沿道の歴史の記載板がありますので、見てき
ました。
ブログの記述当時は、たまたま情報板が撤去されてい
てありませんでした。今後は、注意していきます。
また、当時の情報は少ないですが、今後情報を収集し
たいと思っています。
今後とも、情報のご提供をお願い致します。
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