
つたや旅館
草津温泉つたや旅館(群馬県吾妻郡草津町大字草津69)は、草津温泉バスターミナルから徒歩10分ほどの細い裏通りの静まった処にある、客室が10室のこじんまりとした創業八十余年の老舗旅館ですが、施設は湯畑源泉からの24時間利用可能な掛け流しの温泉以外には何も無く、トイレ・洗面所は外の共通利用という典型的な昔の日本旅館です。
泉質主義の草津温泉にもゆったりと浸かりましたので、6時半に食事を頼んでおきましたので、同窓旧友との宴会です。
並べられたお膳の献立は、お膳が二人で3膳と変わった配膳でした。今まで旅行してきた、熱海、筑波山、石和、水上、裏磐梯、湯河原の献立と比べると旅館ごとに変化があります。
お酒が入りあつい鍋をつっつけば、遠慮気兼ねのない同窓の宴会は盛り上がります。時間の経つのもあっという間でした。
食やすみ後には、二度目の温泉に浸かり、恒例の囲碁会などにより初日の夜は更けました。
西の河原探索
朝食を済ませ、9時に旅館の前で記念写真を撮り、2日目の予定の西の河原の探索(地図参照)へと出発しました。
西の河原へは、前日の散策した湯畑から、お土産やが並ぶ狭い曲がりくねった西の河原通りを、饅頭やが配る食べ比べの温泉饅頭を一個だけ受けとり、あとは避けながら進むと草津片岡鶴太郎美術館の前です。
美術館を過ぎるとすぐ西の河原園地の立て札があり、ここからが西の河原で草津の西側に位置することと、賽の河原の意味の両方から呼ばれています。河原は湯川源流に約600メートルにわたり数十ヶ所から毎分1万5千リットルのお湯が湧き出しており、荒涼とした風景が特徴です。河原の遊歩道は、石畳が敷いてあり歩きやすい道です。

入り口の最初の大きな瑞祥の池も温泉が湧いています。続いて幸いの池があり、すぐ先には瑠璃の池、琥珀の池と続いております。
西の河原付近を昔は鬼泉水と呼ばれており、”鬼の茶釜”は河原一帯から湧き出す代表的な温泉湧口で、茶釜が沸騰するように音をたてて湯を噴出していたそうです。今でも、茶釜から溢れて道路の側溝に流れている湯は、手を入れとかなりの高温の温泉です。

茶釜を過ぎると、草津穴守稲荷神社の赤い鳥居が並んでおります。穴守稲荷は、明治40年頃東京の山崎染物店の主人が、草津へ湯治に通い、病気が平癒した記念に信仰していた、東京大田区羽田五丁目に鎮座している穴守稲荷をこの場所に分霊し祀ったとのことで、ご祭神は豊受姫命です。(以下の西の河原風景の解説は草津町教育委員会の説明文から抜粋)
神社の少し先に、明治のころ草津を見出し欧米世界にその存在を知らしめたエルウィン・ベルツ博士と、その同僚でやはり草津を訪れたジュリウス・スクリバ博士の昭和10年に建てられた胸像が道辺に建てられてます。ベルツ博士はドイツ人医学者で、東京帝国大学医学部教授として、1876年(明治9年)に来日してから、滞日30年に及び我が国近代医学の基礎を築かれました。明治11年に草津温泉を訪れ、温泉の優れた効能に魅せられ、高温入浴法(時間湯)を研究テーマとして内外の学会に発表しました。
スクリバ博士は、帝国大学に『内科にベルツ・外科にスクリバあり』といわれた両博士とも無二の親友で、草津町民に無料で診察を施し、町民から深く親しまれました。
帝国大学にあった胸像が戦時中供出れた時に、コンクリートの複製を展示してあったものを、戦後草津町に贈られ、1992年(平成4年)5月に草津町との姉妹都市締結記念事業に立て替えられたものです。

ベルツ博士胸像の傍らに水原秋桜子碑が建っており、俳人水原秋桜子が、胸像にそそぐ秋日和のすがすがしさは、ベルツの心にふれているようだと、草津町の恩人ベルツ博士の遺徳をたたえて詠んだ句碑で、昭和 57年10月21日、ベルツ博士の生誕地であるビーティッヒハイム・ビッシゲン市と草津町の姉妹都市締結20周年祭りの折、除幕建立されました。
西の河原公園の奥には斉藤茂吉碑が建てられており、斉藤茂吉(1882-1953)は山形県金瓶村(現在上山市)に生まれ、ドイツに学び精神医学者、長崎医専教授、東京・青山脳医院長などを歴任したアララギ派の歌人です。現代歌人の最高峰と評価され、文化勲章受賞し、戦後山形県にこもったが、晩年の歌集は頂点に聳える作品といわれております。
草津には、昭和8年9月16日に夫人と共に訪れ、望雲館に宿泊し、そのときの日記には宿から白根山を見たスケッチが残っております。
歌人斎藤茂吉も、草津を愛した一人で、その歌碑には『いずこにも湯が噴きいでて流れゐる 谷間を行けば身はあたたかし』の歌が記されています。
今回の草津温泉旅行での誠に残念だったことは、草津一の総面積が500平方メートルで有名な西の河原大露天風呂が、11/8(水)~12/22(金)まで 改修工事で休館のため、見ることも入ることも出来なかったことです。
残念ですが、西の河原露天風呂(施設)はWebから見ることにしましょう。
戻りは行きに素通りした片岡鶴太郎美術館(Web)が、ご夫人方に売りの最も楽しみとしていた処ですので、恒例により希望の方で見学をしました。
美術館は、1998年12月に開館し、片岡鶴太郎氏が日々の暮らしで感じたものやロケの旅先で出会った魚、花、虫などを題材にした「普段着の絵」の作品が常時約130点展示してあります。
いよいよこれで同窓旧友の草津温泉旅行も終わりが近ずき、途中のお土産店を物色しながら帰路に付き、来たときの西の河原通りとは別のわき道で共同浴場の関の湯の脇を通り、湯畑から旅館に戻り大型タクシーで途中道の駅に寄り浅間酒造のオリジナルの地酒を買って、草津駅発の特急で帰りました。
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(11月分掲載Index前へ、Index後へ)
<前回 旅ものがたり(3) 同窓旧友たちの旅 草津温泉(その1) へ
次回 旅ものがたり(4) 夏の想い出 九州旅行 その1(博多・唐津) へ>
草津温泉つたや旅館(群馬県吾妻郡草津町大字草津69)は、草津温泉バスターミナルから徒歩10分ほどの細い裏通りの静まった処にある、客室が10室のこじんまりとした創業八十余年の老舗旅館ですが、施設は湯畑源泉からの24時間利用可能な掛け流しの温泉以外には何も無く、トイレ・洗面所は外の共通利用という典型的な昔の日本旅館です。
泉質主義の草津温泉にもゆったりと浸かりましたので、6時半に食事を頼んでおきましたので、同窓旧友との宴会です。
並べられたお膳の献立は、お膳が二人で3膳と変わった配膳でした。今まで旅行してきた、熱海、筑波山、石和、水上、裏磐梯、湯河原の献立と比べると旅館ごとに変化があります。
お酒が入りあつい鍋をつっつけば、遠慮気兼ねのない同窓の宴会は盛り上がります。時間の経つのもあっという間でした。
食やすみ後には、二度目の温泉に浸かり、恒例の囲碁会などにより初日の夜は更けました。
西の河原探索
朝食を済ませ、9時に旅館の前で記念写真を撮り、2日目の予定の西の河原の探索(地図参照)へと出発しました。
西の河原へは、前日の散策した湯畑から、お土産やが並ぶ狭い曲がりくねった西の河原通りを、饅頭やが配る食べ比べの温泉饅頭を一個だけ受けとり、あとは避けながら進むと草津片岡鶴太郎美術館の前です。
美術館を過ぎるとすぐ西の河原園地の立て札があり、ここからが西の河原で草津の西側に位置することと、賽の河原の意味の両方から呼ばれています。河原は湯川源流に約600メートルにわたり数十ヶ所から毎分1万5千リットルのお湯が湧き出しており、荒涼とした風景が特徴です。河原の遊歩道は、石畳が敷いてあり歩きやすい道です。

入り口の最初の大きな瑞祥の池も温泉が湧いています。続いて幸いの池があり、すぐ先には瑠璃の池、琥珀の池と続いております。
西の河原付近を昔は鬼泉水と呼ばれており、”鬼の茶釜”は河原一帯から湧き出す代表的な温泉湧口で、茶釜が沸騰するように音をたてて湯を噴出していたそうです。今でも、茶釜から溢れて道路の側溝に流れている湯は、手を入れとかなりの高温の温泉です。

茶釜を過ぎると、草津穴守稲荷神社の赤い鳥居が並んでおります。穴守稲荷は、明治40年頃東京の山崎染物店の主人が、草津へ湯治に通い、病気が平癒した記念に信仰していた、東京大田区羽田五丁目に鎮座している穴守稲荷をこの場所に分霊し祀ったとのことで、ご祭神は豊受姫命です。(以下の西の河原風景の解説は草津町教育委員会の説明文から抜粋)
神社の少し先に、明治のころ草津を見出し欧米世界にその存在を知らしめたエルウィン・ベルツ博士と、その同僚でやはり草津を訪れたジュリウス・スクリバ博士の昭和10年に建てられた胸像が道辺に建てられてます。ベルツ博士はドイツ人医学者で、東京帝国大学医学部教授として、1876年(明治9年)に来日してから、滞日30年に及び我が国近代医学の基礎を築かれました。明治11年に草津温泉を訪れ、温泉の優れた効能に魅せられ、高温入浴法(時間湯)を研究テーマとして内外の学会に発表しました。
スクリバ博士は、帝国大学に『内科にベルツ・外科にスクリバあり』といわれた両博士とも無二の親友で、草津町民に無料で診察を施し、町民から深く親しまれました。
帝国大学にあった胸像が戦時中供出れた時に、コンクリートの複製を展示してあったものを、戦後草津町に贈られ、1992年(平成4年)5月に草津町との姉妹都市締結記念事業に立て替えられたものです。

ベルツ博士胸像の傍らに水原秋桜子碑が建っており、俳人水原秋桜子が、胸像にそそぐ秋日和のすがすがしさは、ベルツの心にふれているようだと、草津町の恩人ベルツ博士の遺徳をたたえて詠んだ句碑で、昭和 57年10月21日、ベルツ博士の生誕地であるビーティッヒハイム・ビッシゲン市と草津町の姉妹都市締結20周年祭りの折、除幕建立されました。
西の河原公園の奥には斉藤茂吉碑が建てられており、斉藤茂吉(1882-1953)は山形県金瓶村(現在上山市)に生まれ、ドイツに学び精神医学者、長崎医専教授、東京・青山脳医院長などを歴任したアララギ派の歌人です。現代歌人の最高峰と評価され、文化勲章受賞し、戦後山形県にこもったが、晩年の歌集は頂点に聳える作品といわれております。
草津には、昭和8年9月16日に夫人と共に訪れ、望雲館に宿泊し、そのときの日記には宿から白根山を見たスケッチが残っております。
歌人斎藤茂吉も、草津を愛した一人で、その歌碑には『いずこにも湯が噴きいでて流れゐる 谷間を行けば身はあたたかし』の歌が記されています。
今回の草津温泉旅行での誠に残念だったことは、草津一の総面積が500平方メートルで有名な西の河原大露天風呂が、11/8(水)~12/22(金)まで 改修工事で休館のため、見ることも入ることも出来なかったことです。
残念ですが、西の河原露天風呂(施設)はWebから見ることにしましょう。
戻りは行きに素通りした片岡鶴太郎美術館(Web)が、ご夫人方に売りの最も楽しみとしていた処ですので、恒例により希望の方で見学をしました。
美術館は、1998年12月に開館し、片岡鶴太郎氏が日々の暮らしで感じたものやロケの旅先で出会った魚、花、虫などを題材にした「普段着の絵」の作品が常時約130点展示してあります。
いよいよこれで同窓旧友の草津温泉旅行も終わりが近ずき、途中のお土産店を物色しながら帰路に付き、来たときの西の河原通りとは別のわき道で共同浴場の関の湯の脇を通り、湯畑から旅館に戻り大型タクシーで途中道の駅に寄り浅間酒造のオリジナルの地酒を買って、草津駅発の特急で帰りました。
毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(11月分掲載Index前へ、Index後へ)
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