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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ 大森町学びや もりこう会の集い(その3)

2006年11月15日 | 大森町界隈あれこれ 大森町学びや
海苔枠乾し 戦後急速に普及した障子の桟状の木枠に海苔簀を
掛けて乾す方式で、持ち運びが便利で道端でも河岸でも乾せる。
(出展:大田区海苔物語 大田区立郷土博物館)

大森工業高等学校の歴史(3)
・大森工業学校から大森学園中学校へ
1945年(昭和20年)8月の終戦によってわが国は連合国軍の占領下におかれ、国政がすべて占領行政のもとにあって行なわれていました。この間各分野にわたり改革の実施が要請され、教育改革は特に重要なものとされました。
連合国軍最高司令部は、戦時教育体制を根本から改めるために1946年(昭和21年)1月、教育使節団の派遣を本国へ要請し、民間情報教育局にはアメリカ教育界の専門家が多数来日して、その助言・指導のもとで教育改革が進められました。
この教育改革により、「教育基本法」が制定され「学校教育法」、「社会教育法」、「教育委員会法」などの立法が行なわれ、戦後教育の体制をつくりあげる基本規定となりました。
これにより学校制度の改革は、基本となる学校体系を六・三・三・四の編制に改めると云う大改正となりました。

これにより、六年制初等教育の戦時下の国民学校は小学校に改名し、新制度へは問題なく移行が進みました。
しかし、1872年(明治5年)以来我が国の学校制度は、初等教育の小学校は、尋常小学六年と高等小学二年の八年制を実施しており、中等教育の五年制の中学校(旧制中学)に進学する者は小学六年卒業で入学する制度でした。
改革の三年制の新制中学校には、それまでの国民学校高等科と定時制の青年学校の二学年生と、さらに中等学校(旧制中学)の二、三年生を編入することとなり、文部省内には三年制の中学校をただちに創設することは、多くの困難が明らかなため、改革には年数をかけて徐々に行なうようにする意見が強かったのでした。
しかし、総司令部側の強い意見で、六・三制の新制中学校を1947年(昭和22年)の春から実施を強行することになりました。

また、六・三・三制の新制高等学校には、旧制中学(中学校、高等女学校、実業学校)の四、五年生を編入した三年制高等学校に改めましたので、切替えには中学設置のような困難な問題はありませんでした。
この学校制度改革より、旧制実業学校の大森工業学校は、新制中学の大森学園中学校を新設すると共に、大森工業学校は新制高校の大森工業高等学校と、二校の私立新制中学と新制高等学校がスタートしたのです。
なお、大森工業学校は、大森機械工業徒弟学校の流れを汲んだ学校で、夜学部がありましたが、新制の大森工業高等学校も昼間働いて学ぶ生徒のため夜学部は継続しました。

無理やり大森学園中学に編入
この改革により、旧制実業学校に入学したのであるが、一年後には有無を言わさずに無条件に私立の新制中学生に編成されたのです。新学制の新制中学では、職業科目は無く普通科となり、折角電気を勉強しようと入学したのですが、強制的な学制改革により翻弄されたのです。
ただ、新制中学の改革年に学校の近くに住む、電気に詳しい新入の先生が来られ、放課後その先生の家に有志が詰めかけ、ラジオの製作に没頭しておりました。中学2年生の頃に、ラジオ部品などの電気部品などを販売していた露店街が、須田町交差点付近から秋葉原に店を構えた電気店街(「秋葉原界隈(その1)」参照)が誕生したのです。
これが、社会に出て、技術志向に進むきっかけになりました。

大森工業学校一年生遠足 鎌倉鶴岡八幡宮 筆者:前から4列目の右から5番目
大森学園中学校二年生遠足 観音崎灯台 筆者:最後列の左から4番目

新制中学の一年生は、中学校の新設が困難であるため、大森学園中学校の近くにある大森第四小学校(大森町学びやマップ再掲 マップ⑦参照)卒業生のクラスの一部を、大田区からの委託を受けて二年継続して預かったのです。
したがって、当初大森学園中学校は、新制中学に志願して入学した訳でない二、三年生の結果的の志望学制と、委託学制の色分けされた生徒構成の学校となりました。これも、学校制度改革の強制実施の過度期の歴史です。
委託学制が入ったお陰で、やっと机と椅子はどうやら調達されましたが、その他の学校教育の設備は殆ど無い戦後の混乱の中での授業風景でした。

戦後一年が経ち、一面の焼け野原の中で、いち早く復興したのは漁業でありました。敗戦後の混乱で、誰もが物資欠乏に苦しんでいましたが、生きるためにはまず食べなくてはならないのです。
空襲によって工場、人口、家屋ともに激減していたため、工場排水や家庭排水など、ほぼゼロに近く、終戦当時の海は明治末期くらいの状態にまで水質が回復し魚介類は豊富でした。
そうした資源の回復と、折からの食糧難のために、漁民の再興復帰への意欲はいっそうかき立てられましたが、伝統産業である海苔養殖業は、ある程度の道具(海苔舟、竹ヒビなど)が必要なこともあり、終戦後、すぐに再開するのは困難でありました。まずは、現金収入に結びつく磯物取りが中心でありました。
戦中から1947年(昭和22年)にかけて低落の一途をたどった養殖海苔生産も、1948年(昭和23年)から反転に転じ、その後回復へと向かいました。

この頃大森学園中学校、大森工業高等学校は、1948年の春に森ヶ崎の仮校舎の工場建屋を購入して、古巣の現大森学園高等学校に念願の校舎を建てて再建し、新校舎で新制中学校を卒業しました。

大森学園中学校卒業記念 筆者:前から4列目の右から2番目

また、時を同じくして仮住まいの共同住宅から、現大森町駅の近くに平屋のバラック建て住居に移転し、今日までの居住宅となっております。

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