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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(14) 鎮魂!大森町大空襲(第7回)

2006年05月11日 | 大森町界隈あれこれ 空襲
東京大空襲の記録資料(2) 「東京大森海岸 僕の戦争」
東京大空襲の記録資料で大森に関しての資料は大変少ない中で、1933年に大森区入新井(現大田区大森北)で生まれ、51年間町工場の職人さんとして働き、1980年代半ばに芥川賞候補の作家として活躍された小関智弘氏が書き下ろしの「東京大森海岸 僕の戦争」(2005年筑摩書房発刊)は、戦時中軍需工場が集積した大森は空襲の標的になり、機銃掃射に遭い住居も全焼の被災者となった戦中、戦後を少年の目線で振り返り、体験を語り戦争が風化しつつあると懸念して、「戦争は戦場でだけ起こるのではなく、戦争を経験した人が『自分はこうだった』と声を上げることが必要だ」との思いで執筆したとあります。
私と同じ生まれ年である小関智弘氏は、早生まれで学年では1年先輩であるため、1945年の春小学校(当時の国民学校)卒業により、学童疎開から引き上げてきたため、東京大空襲に遭遇されたことになります。私は、運良く東京大空襲時には国民学校6年生の最終学年であり学童疎開先で過ごし、空襲の被災を直接受けることなく免れられたのです。
大森区入新井は、タイトルの「大森町界隈あれこれ」の大森町とは目と鼻の先の所(大森町戦災焼失地図)にあり、自宅から徒歩で約15分の距離しか離れておらず、若山武義氏の手記の1945年4月15日の大森町大空襲で遭われた戦災の体験を、大人と子供の見た光景の記憶は大変貴重な資料です。
手記と作家の描いた書下ろしを合わせて読むと、戦争の一層の虚しさ、悲惨さが伝わってきます。


若山武義氏の手記(1946年記述) 「戦災日誌(大森にて)」第6回
大森町大空襲は蒲田方面から京浜国道沿いに北上爆撃
おやっと思ふと警報発令だ。軍情報は
「敵機は八丈島東南方を西北進しつつあり、本土到達迄約三十分の距離なり」
と。さては来たなと、例の通り仕度を仕直して次の情報を待った。
「敵機は房総半島南端に集結しつつあり」
と。ははあ、それではいつものコースの通り土浦か太田かと判断した。とたんに空襲警報となった。
「各家庭の防火群の皆様、切に激闘を望む」
毎度の事、すっかり準備はよいかと組内を一巡してロータリーの前に立つ。
「敵機は東京湾を西北進しつつあり」
「東京湾を西北進」、さては横浜か川崎が目標だなと判断した。とたんに森ヶ崎から多摩川沿岸の探勝照灯が一勢に閃き出すと共に森ヶ崎の高射砲が轟然とうなり出した。あっと思う間もなく、京浜国道夫婦橋先に猛烈なる大炸裂音と共に一面火の海の火柱がたった。
「アッ、しまった」と思う間に背後に百雷一時に落下する凄猛なる轟音!
アッ、爆弾と直覚して地面にツッ伏した。形容の出来ぬおそろしき轟然炸裂とともに一面火の海。
立ち上がって見ると、京浜国道帝銀の前、田川食堂、赤羽根町会長宅、警備隊と一連に猛炎を吹き上げて来たと同時に、瓦斯会社方面、南は第一国民学校から十全病院に亘り次ぎ次ぎに爆撃され、三方火の海となって迫り来る。
予想に反し、あまりにも予期せぬ恐ろしさにただ顚倒、我が周囲は一瞬に阿鼻叫喚の巷と化し、恐怖に呆然と立ち竦み、名状し難い混乱となった。

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