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kan-haruの日記

大森町界隈あれこれ(N30) 大森町風景 大森ふるさとの浜辺公園の砂浜開放

2006年08月07日 | 大森町界隈あれこれ 風景
拡大図
8月6日の日曜日の一日間に限り、「大森ふるさとの浜辺公園」(仮称)一部の砂浜が一般に開放され、ハゼ釣りや砂浜遊びを楽しむことができました。
「大森ふるさとの浜辺公園」は、平成19年に開園が予定される公園で、場所は大森町を流れる内川の東端河口部の大森東三丁目の元東京ガス会社大森工場跡の裏手(通称ガス裏)にあります。
一般開放日の前日の8月5日に探索に出かけてみましたが、一般公開日でないため砂浜には入ることが出来ませんでした。

浜辺公園隣接地は戦後の仮住まい跡
実は、「大森ふるさとの浜辺公園」の隣接地は、戦後の疎開先から引上げた1945年秋頃から1949年までの間、仮居住宅として複数の家庭が共同住まいをしていた懐かしい場所なのです(「大森町界隈あれこれ(1) 大森町に住んで65年!(その1) 」参照)。
61年前の内川河口先端にあった、父の勤務先事務所を改造した共同住宅付近地図で見られるように、ガス裏の小道が東京湾の海岸線でした。

元東京ガス会社大森工場の2基のガスタンクは、1基がガスの貯蔵量に応じて上下動する露出型のガスタンクで、片方のタンクは周囲を覆われたタイプのもので、鋳物川口のキューポラや千住のお化け煙突のように、大森町のシンボルでありました。
内川の対岸には、当時日本特殊鋼(「大森町界隈あれこれ(16) 鎮魂!大森町大空襲(第9回)」写真参照)があり、軍需工場であった製品の残渣などの廃棄物で埋め立てられた小島がありました。
現在、日本特殊鋼は既に存続しておらず、跡地にはマンションが建てられ、その小島も大森ふるさとの浜辺公園の敷地の一部として埋没され、戦争の歴史の痕跡は無くなります。

ガス裏の小道
ガス裏の小道は、現在公園工事のため閉鎖されておりますが、昨年の10月には歩行者や自転車通行は可能でした。
戦時中(1943年頃)のガス裏小道の地形を当時撮影の写真(左・小道の脇は海、中・海に接しているガス会社、右・防潮提)でみると、ガス会社の塀際に沿って小道があり、道が海岸線を形成しております。また、今では沖が広大な埋立地で覆われておりますので、無用となった防潮提も残っています。
戦後、ガス裏の小道はハゼ釣りの釣り場で、小1時間も釣ればたちどころに1束ほどの収穫があり、食料難時代の絶好なタンパク質、カルシュム源でした。
当時、小・中学生で引き潮時には露出したヘドロに膝下まで入って、釣りえさのゴカイを掘って自前で調達しました。

仮住まいからの通学
仮住まいからの通学は、小学校は大森第一小学校が戦災で焼失したので大森第五小学校に間借りで、旧東海道(美原通り)の外れまで通いました。当時は、戦後の混乱期で卒業式も行えず、卒業証書や通信簿を貰えませんでした。
中学校は一年生の時は旧制中学でしたが、二年生からは学制が変わり新制中学となり、やはり本校が戦災で焼失してましたので、森ヶ崎の大森第四小学校近くの工場跡地の仮校舎通いでした。

大森ふるさとの浜辺公園開放の入場口
公園開放の入場口は、元東京ガス会社大森工場の周囲を張り巡る南端の道路から行きます。南端の道路に沿って運河(サテライト)があり、海の入り口には水門が備わっています。
探索した日は、一般公開日でないため観察が出来なかったので、地図航空写真で大森ふるさとの浜辺公園の完成予想を想像してみました。
公園の工事は、平成17年10月から行われて、平成19年4月が開園予定で、完成すると昔日の大森海岸風景が復元されるとのことで楽しみです。公園には、内川の北岸と結ぶ連絡橋が掛けられ、京急平和島駅方面から公園に来られるようになります。

毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております。(7月分掲載Indexへ)
次回 大森町界隈あれこれ(N31) 大森町風景 旧東海道(三原通り) その1 へ>
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