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kan-haruの日記

風景・風物詩(B11) 冬の風物詩 義士祭 泉岳寺

2006年12月18日 | 風景・風物詩
泉岳寺
12月14日は、大石内蔵助良雄以下の赤穂浪士四十七士が、吉良屋敷に討ち入りして、吉良上野介を討ち果たし、その首を泉岳寺の主君浅野内匠頭の墓前に捧げた討ち入りの日です。
浪士たちは四大名家へお預けとなり、幕府は武士としての体面を重んじた上での切腹を命じ、1703年(元禄16年)2月4日、46人の赤穂浪士はお預かりの大名屋敷で切腹となり、泉岳寺に葬られました。46人が泉岳寺に着いたのは、門前で加盟者のうちただ一人の足軽寺坂吉右衛門を逃がし、ゆかりの者に報告させるためなのです。

泉岳寺(東京都港区高輪2-11-1)は、萬松山・曹洞宗江戸三箇寺で1612年(慶長17年)の江戸幕府初めに外桜田の地に創立されましたが、1641年(寛永18年)の寛永の大火により焼失し、将軍家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名により、現在の高輪の地で再建されました。ご本尊は、釈迦如来が祀られております。

殿中刃傷事件を起こした浅野長矩公の墓は、1701年(元禄14年)に建立され、討ち入りをした赤穂義士は1703年(元禄16年)に主君の墓側に葬られております。
泉岳寺では、毎年討ち入りの日は旧暦12月14日(15日未明)でありますが、新暦の12月14日に義士祭を催しております。

雨の義士祭
12月14日の午後6時頃、10数年振りに日本人の心に沁みた年末の風物である夜の義士祭の泉岳寺(地図航空写真参照)に行ってみました。
泉岳寺へは、大森町からは京浜急行電鉄の北端の泉岳寺駅まで直通で行けます。泉岳寺駅は都営地下鉄浅草線(1号線)との合流駅で、押上駅まで都営、京成電鉄、北総鉄道、芝山鉄道と相互乗り入れしております。
泉岳寺駅に着いた頃雨が降り出し、小雨でしたが門前や境内は屋台(風景)が連なり、人出で賑わっておりました。14日の義士祭の日に限り泉岳寺の閉門時間は、22時となっております。

泉岳寺義士祭典修行は、11時に浅野長矩公之墓所で墓前供養を行い、12時に東阿部流献茶式と義士追善供養が本堂で行われますが、一般には非公開です。
泉岳寺駅前の道の坂を上がったところに中門があります。中門は、1836年(天保7年)に再建されたもので、1932年(昭和7年)に大改修されたとあります。中門を潜り先に進むと1832年(天保3年)に再建されたと云われる山門があります。山門の「泉岳寺」の額は、大野約庵の書です。山門を通ると境内には、沢山の屋台が並んでおります。
本堂は、第二次世界大戦の空襲で焼失、1953年(昭和28年)に落成した鎌倉様式の建築です。本堂の「獅子吼」の額(トップ写真)は、「ししく」と読み、お釈迦様の説法のことです。

中門

泉岳寺の義士の墓に通じる道沿いには「主税の梅」「血染めの梅」「瑶池梅」などと名づけられたウメが、今に義士の忠誠を伝えております。
「主税梅」は、1703年に大石主税が松平隠岐守三田屋敷に於ける切腹の書院前庭の梅です。「血染めの梅」は浅野長矩公が田村邸で切腹を命ぜられ、磯田源太夫が介錯の時、血潮がほとばしって傍らの庭石と梅にかかったと言われます。明治39年に田村家移転の時、泉岳寺に移植されたものです。「瑶池梅」は義士の墓守りをした妙梅尼が瑶泉院(浅野長矩公夫人)から頂いた鉢植の梅を地におろしたものでこの名が付けられていると云われております。

首洗井戸は、吉良上野介の首をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから呼ばれております。
義士の墓に通じる道には、四十七士墓所の門があり、浅野家の鉄砲洲上屋敷の裏門を移築したと云われてます。
四十七士墓所には、お線香を手向けるため購入しましたが、小雨の中多くの人がお線香を上げる行列しており、待ちの時間がかかりそうなので諦めてお墓の入り口にお線香を上げて戻りました。

帰り道の参道のお土産やさん は、久しぶりで懐かしいので覗いて、昔懐かしい飴を買って帰路につきました。


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