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国際情勢に合わせて集団的自衛権の解釈は変わる、と

2016-10-14 21:48:53 | 読書ノート
篠田英朗『集団的自衛権の思想史:憲法九条と日米安保』風行社, 2016.

  タイトル通り。今年7月に発行されていた本だが、書評をいくつか目にしたので読んでみた。著者は国際政治学者で、憲法の理念である国際協調主義を重視している。このため、日本の憲法学者に批判的な記述となっている。

  大雑把に言って二つのトピックがある。一つは、戦後の日本で集団的自衛権がどのように解釈されてきたのかについての歴史である。その解釈は、憲法九条だけでなく、日米安保の状態とそれを取り巻く世界情勢次第で変化してきた、というものである。安保闘争の頃には、政府は米軍と同盟すること自体が集団的自衛権の行使であると国会で答弁していた。だが、沖縄返還の頃になると、不人気なベトナム戦争が距離を置くために、米軍の沖縄にある基地の使用は集団的自衛権の行使ではない、と政府は解釈を変更している。すなわち、その解釈は変わるし、実際に変わっている、と。

  もう一つは、東大憲法学に対する理論的な疑義である。日本国憲法は米国の占領下で制定されたものであるのに、憲法学者はそこに存在しない大陸法的「国家」概念を持ち込んでいるとされる。すなわち、これによって国の主権と国民主権が分割されてしまい、政府を通じた国民の幸福・安全の追及が制限されることになっている。ということのようだが、率直に言ってこの指摘が言わんとすることについては僕はよくわからなかった。九条というコンセプトだけではなく、日本の憲法学の特殊性が集団的自衛権解釈を掣肘しているというのだが、もう少し説明がほしい。

  日本の安全保障論議の不毛さへの著者の苛立ちはよくわかった。政策の効果以前に合憲か否かで話が止まってしまう。実のところ、悪魔的に描かれる現政権もまた、護憲派の反応を予測しての微に入り細をうがつ対応しかできていないのが実情である。憲法解釈はそういう不毛なレベルでの整合性を目指すものではないだろう、というのが著者の言いたいことなのだろう。
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