苫野一徳『どのような教育が「よい」教育か』講談社選書メチエ, 講談社, 2011.
タイトル通りのモノグラフ。それによれば、現在の教育哲学は価値相対主義に陥り、公教育において何が「良い」ことなのかを判断できなくなっているという。規範なしには教えることができない。著者のこの問題意識には大いに共感させられるところである。こうした混迷に対して、現象学やヘーゲル哲学を参照しながら万人に許容できる教育の「良さ」の理論を打ち立てるというのが本書の試み。
しかしながら、その説得はうまくいっていないように思う。結論として、教育は社会の参加者の「自由の相互承認」を実質化するよう行われるべきだということが主張される。だが、その答えはかなり抽象的なレベルにとどまったままで、公教育の具体的な方向性を得るには至らない。というか、教育哲学が価値相対主義に陥るのは「自由が相互承認された状態」についての意見の一致をみないからであり、そこをクリアできないと前進とはいえないだろう。
以上のような不満はあるものの、著者の今後の理論構築次第というところだろうか。手堅い学説史研究とは異なる、一から理論構築を目指した大胆で冒険的な試みであり、そこは評価したい。
タイトル通りのモノグラフ。それによれば、現在の教育哲学は価値相対主義に陥り、公教育において何が「良い」ことなのかを判断できなくなっているという。規範なしには教えることができない。著者のこの問題意識には大いに共感させられるところである。こうした混迷に対して、現象学やヘーゲル哲学を参照しながら万人に許容できる教育の「良さ」の理論を打ち立てるというのが本書の試み。
しかしながら、その説得はうまくいっていないように思う。結論として、教育は社会の参加者の「自由の相互承認」を実質化するよう行われるべきだということが主張される。だが、その答えはかなり抽象的なレベルにとどまったままで、公教育の具体的な方向性を得るには至らない。というか、教育哲学が価値相対主義に陥るのは「自由が相互承認された状態」についての意見の一致をみないからであり、そこをクリアできないと前進とはいえないだろう。
以上のような不満はあるものの、著者の今後の理論構築次第というところだろうか。手堅い学説史研究とは異なる、一から理論構築を目指した大胆で冒険的な試みであり、そこは評価したい。