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ラジオによる共和国、市民育成という理想のゆくえ

2020-04-05 20:52:16 | 読書ノート
デイヴィッド・グッドマン『ラジオが夢見た市民社会:アメリカン・デモクラシーの栄光と挫折』長崎励朗訳, 岩波書店, 2018.

  メディア論。ただの米国ラジオ史ではなくて、1930年代という限られた期間の米国のラジオをめぐる言説史である。この時期に、ラジオ放送による市民社会の形成という理想が多く語られて、その後幻滅させられていったというのである。アドルノとラザースフェルドのメディア研究にも章を割いて言及している。著者はオーストラリア人で、原書はRadio's civic ambition : American broadcasting and democracy in the 1930s (Oxford University Press, 2011.)。

  米国のラジオ放送事業者は、政府の放送への介入を退ける──規制だけでなく国営放送事業もあきらめさせる──ために、民間経営の効用を盛んに主張した。当初は知識を伝達するという単純な教育的効用が主張されたが、すぐに「さまざまな情報に触れて意見を形成する市民の育成」というジョン・デューイ的な教育観が主流となった。この時期、スポンサーを持たない、商業的意図を廃した放送局の独自制作の番組として、一般市民を登場させる討論番組や、地方のセミプロ音楽家を登場させる番組が多く作られており、実際に民主的かつ大衆包摂的な傾向も見せた。もちろん商業主義との緊張関係もあった。だが、米国のラジオにおける多様性と自由は、ヨーロッパでラジオが政府のプロパガンダに使われたこともあって、アメリカ社会の優位を象徴するものとおおむね受けとめられた。

  一方でほころびもあった。公共性やコスモポリタニズムへの志向が、クラシック音楽を文化的に優位であるかのように見せた。ジャズなど大衆音楽の放送回数が少なかったというわけではない。クラシック音楽の聴衆は少なかったにもかかわらず、放送局側はそれに多くの投資をしたのだ。当時は、クラシックは聴衆の階級に捉われない「普遍性を持つ」と考えられていたのである。聴衆間の社会階層の違いという問題は、オーソン・ウェルズの『宇宙戦争』によって引き起こされたパニックによって顕わになった。インテリ側は、パニックを起こした人たちを知能が低い・批判精神を持っていないなどと嘲笑した。彼らは、一般大衆によるラジオの聴き方(多様な意見や自己批判を嫌う)を理解できなかったのである。そして、第二次大戦勃発に伴う国論統一という必要性もあって、ラジオにおける市民社会志向は忘れられていった。

  以上。結論では、テレビやネットの研究を例に挙げながら、新メディアに対する過剰な期待は繰り返されるものだと指摘している。こう書くとシニカルな内容に思えるかもしれない。だが、そのすぐ前の箇所で、『孤独なボウリング』で示された「第二次大戦を経験した世代は公共心が高い」という傾向は、1930年代のラジオ放送が貢献した可能性もある、と著者はほのめかしている。マスメディアによる市民育成について懐疑一辺倒ではなく、効果があった可能性を認めているのだ。この点、階級分断をことさら強調するような社会学的な議論に距離を置いている。図書館情報学研究者としては、本書に図書館への直接の言及はないものの、当時の米国の啓蒙運動の雰囲気がわかって興味深いものだった。
  
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