米国と北朝鮮の戦争は起こらない


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米国と北朝鮮の戦争は起こらない

 北朝鮮の金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長は2018年1日午前9時(日本時間同9時半)、新年の辞を発表し、米本土を攻撃できる核弾頭を搭載した大陸間弾道ミサイル(ICBM)の実戦配備を宣言した。正恩氏は新年辞で「米本土は核打撃圏にある」とし、「核のボタンは私の事務室の机の上にある」と強調した。
 北朝鮮はミサイルと核実験を繰り返し、米国との戦争も辞さないことを宣言している。

「北朝鮮との交渉では、核兵器かICBMか、少なくともどちらか一方を放棄してもらう。それが嫌だと言うなら、もう我慢はしない。迷わず北朝鮮を叩く。その頃には、わが軍も北朝鮮攻撃の準備が整っているだろう」
と、米国のトランプ大統領は核とミサイル開発を止めない北朝鮮とは戦争をやるしかないような発言を繰り返した。
 トランプ大統領と金正恩の発言は戦争が差し迫っていることを感じさせるものであった。
 
 2017年は米国と北朝鮮との緊迫が強まりいつ戦争が始まるかという雰囲気が高まっていった。
2018年の初頭には米国が北朝鮮を攻撃するという噂が広まった。安倍首相が衆議院選挙を10月にしたのは2018年初頭には米国が北朝鮮を攻撃するから、北朝鮮を攻撃すれば自民党の支持が下がり敗北するかもしれないと判断したからだという噂もあった。
元自衛隊員だった人物からの伝聞としで、公にはなっていない米国の情報とでは北朝鮮のミサイルを無力化する戦術などがあり、三月にはミサイルを無力化して一気に北朝鮮を攻撃するという噂も聞いたことがある。

 八重山日報に掲載してある正論12月号の広告を見ると、北朝鮮の危機が散りばめられた題名が並んでいる。

櫻井良子よしこ「なぜ国難を論じない・・・迫り来る北朝鮮の有事、中国の脅威・・・。我が国は国難と正面から向き合うべきだ。しかし、相変わらず核武装を論じることもできない・・・」。 
麻生幾氏「忍び寄る恐怖・・・半島有事が静かに始まる・・・」。
久保田るり子氏「破局のカウントダウン・・・核ミサイルはどうなっている? 米国はいつ軍事攻撃を始める?・・・」
渡部昇一、小池百合子、西尾幹二、日下公人、中山恭子、吉川勝久、吉川元偉「核戦争勃発に備えろ・・・北朝鮮有事を考えるための7論文」

評論の題名は北朝鮮危機に米国の北朝鮮攻撃が現実に差し迫っているのを感じさせるものである。
 
北朝鮮は2015年から核開発とミサイル実験が激しくなっていった。アメリカと韓国を威嚇する狙いで弾道ミサイルを発射しただけでなく、、ノドンとみられる弾道ミサイルを秋田県沖の日本の排他的経済水域に発射した。これまで直接的な威嚇の対象にはなりにくかった日本にまで強いメッセージを送り、日本もミサイル攻撃の対象であることを宣言した。日本の緊張も一気に高まった。
北朝鮮のミサイルは開発が進み、核爆弾を装着したICBMは米本国まで届くと豪語するようになった。そして、金正恩は1月1日の新年のあいさつで米本土を攻撃できる核弾頭を搭載した大陸間弾道ミサイル(ICBM)の実戦配備を宣言した。

なぜ、北朝鮮の金正恩は核実験を頻繁にやりミサイル開発を進めているのか。米国を攻撃するためだろうが、そう思う人は多いかも知れない。

金正恩は米国と戦争をしようとしているのか。
答えはNOである。

金正恩は核開発をする理由を、
「責任ある核保有国として、敵対勢力が核で自主権を侵害しない限り、先に核兵器を使わず、核拡散防止の義務を履行し、世界の非核化実現に努力する」と述べている。
もし、米国が北朝鮮を攻撃した時に北朝鮮も韓国、日本、米本国に核ミサイルで反撃して多大な被害を与えることができるようになれば米国は北朝鮮を攻撃することができないと考えているのが金正恩である。だから金正恩は核、ミサイルを開発しているのである。金正恩の発言からは米国から攻撃されないために核、ミサイル開発をしていることが分かる。金正恩は米国を攻撃するためではなく北朝鮮を米国の攻撃から守るために核、ミサイル開発をしているのである。
金正恩が核、ミサイルを持てば米国に攻撃されないが、持っていなければ攻撃されると思っている理由がある。
かつて米国は朝鮮戦争、ベトナム戦争をやっている。そして、アフガン、イラク戦争もやった。シリアにも参戦している。過去の歴史を見れば米国が米国と対立している国を攻撃してきたことは明らかである。しかし、米国は核を保有している旧ソ連や中国は攻撃しなかった。キューバ危機の時は米国は旧ソ連と戦争しようとしていた。しかし、戦争にならなかった。戦争にならなかった理由は突き詰めていけば両国とも核爆弾を所有していて、米国と旧ソ連との戦争は核戦争になる。核戦争になせないために戦争をしなかった。 
北朝鮮が核、ミサイルを持っていれば旧ソ連や中国のように攻撃されることはないが、持っていなければアフガンやイラクのように北朝鮮は米軍に侵略されると金正恩は信じているのだ。だから、金正恩は米国に攻撃されないためには核、ミサイルの開発は絶対に必要だと思っている。

米国と戦争になれば北朝鮮は確実に負ける。北朝鮮が勝つ可能性は0パーセントである。米国との戦争=金正恩の死である。そうなることは金正恩だって思っているだろう。自分が確実に死ぬ戦争をやるはずがない。金正恩は自分が死ぬ戦争にはならないために核、ミサイル開発をしているのだ。だから、核、ミサイル開発をどんどん進めているが、これ以上開発すれば米国に攻撃される手前の段階までの開発はするが、攻撃される段階までの開発はしないだろう。そのことが予想できたのがグアム問題である。

金正恩は、北朝鮮に対するトランプ米政権の軍事的圧迫を非難し、中長距離弾道ミサイルと称する「火星12」で「グアム島周辺への包囲射撃を断行する」と宣言した。
宣言に対してトランプ大統領は、グアム島周辺にミサイルを飛ばせば米国の危機であり、米国が北朝鮮を攻撃する可能性があると警告をした。
今までは有限実行をしてきた金正恩であったが、北朝鮮がグアムの近くまでミサイルを飛ばすことはなかった。飛ばせば米国が北朝鮮を攻撃する危険があったからである。北朝鮮は米国に攻撃されないぎりぎりまでは核、ミサイル実験をやるが、攻撃されてしまうな実験まではしないことがわかったのがグアム問題である。

金正恩は、「ICBM(大陸間弾道ミサイル)を撃ってアメリカのクリスマスを台無しにする」と宣言した。「実際、今年のクリスマスに向けて核弾頭を搭載したICBMを配備しようとしている」という報道もあった。しかし、アメリカのクリスマスを台無しにするようなICBM発射はなかった。発射する気はなかったのだ。発射すれば北朝鮮は米軍に攻撃されて金正恩政権は崩壊するからである。

「正論」12月号は北朝鮮が核、ミサイルによる戦争を起こす危機を問題にして北朝鮮危機に備える必要を主張している評論を載せている。彼らの指摘するような朝鮮危機はない。朝鮮危機は勘違いである。
北朝鮮問題を追及していれば、金正恩の本音は米国に攻撃されないために核、ミサイル開発をしているということが分かってくる。

「正論」の北朝鮮危機を強調している評論家たちは北朝鮮のことを冷静に分析していない。北朝鮮は危険な国であり、戦争をしようとしている国であると決めつけている。決めつけるのは金正恩の本当の心理を分析していないからである。金正恩は本気で米国と戦争しようとはしていない。むしろ、金正恩は戦争をする気はないし戦争になることを避けている。金正恩は米国に攻撃されないために核、ミサイルを開発しているのである。金正恩を冷静に分析すれば分かることである。米国と北朝鮮が戦争することはない。

 「正論」にとっては本の売り上げを優先しなければならない。本の売り上げを伸ばすには北朝鮮危機を煽り立てたほうがいい。商売だから、売上を伸ばすために北朝鮮危機を煽った評論を載せたのだろうと思うのは失礼だろうか。

 緊迫した状態は一年続くか、それとも五年十年と続くか知らないが、戦争になることを金正恩は避けるだろうし、戦争になることはないだろう。
 北朝鮮の本当に深刻な問題は戦争危機ではない。国民の貧困である。
 
日本海沿岸で北朝鮮のものとみられる木造船の漂着が相次いでいる。2017年の件数が83件と、過去5年間で最多である。木造船のほとんどは北朝鮮の漁船である。こんなに多くの漁船が漂流するというのは変であるが、驚かされるのは漂着した木造船から遺体が発見されたことである。一隻ではない。遺体のある木造船が何隻も漂着した。秋田県男鹿市で海岸に漂着していた木造船の中からは一部が白骨化した8人の遺体が発見された。驚くべき事実である。無人の木造船もあり、その船の乗組員も死んだだろう。
日本に漂着するのはごく一部であり、実際の遭難者は数百人に上ると言われている。

なぜ、海に慣れているはずの漁民の船が漂流するのだろうか。それには日本では考えせれない北朝鮮事情、金正恩の独裁政治がある。
北朝鮮は近年自らの排他的経済水域(EEZ)での漁業権を中国に販売しており、北朝鮮漁民の漁場は狭くなってきている。中国船は海産物を乱獲したので北朝鮮漁民の収穫は激減した。
ところが漁場を中国に売った金正恩委員長は「全体で約年間50万ドル(約5550万円)」のノルマを漁民に課している。
北朝鮮漁民は独裁者金正恩のノルマをこなすために日本のEEZまで長距離遠征せざるを得なくなった。漁船は老朽化している上に、米国などの経済制裁によって燃料は不足しているために海難事故が頻発していると言われている。
北朝鮮漁民の漂流と死は独裁者金正恩の過酷なノルマの強制が原因である。

北朝鮮の深刻な問題は核、ミサイルではなく独裁者正恩の過酷な独裁支配に国民が虐げられ困窮していることである。
人道支援として北朝鮮を援助しても、援助物質は困窮している国民には届けられないで金正恩が収奪する事実が過去に明らかになった。
北朝鮮へ人道支援したお金とか物資はミサイル開発に使われているのだ。

大水害の影響で数千人の死者・行方不明者が発生し、中朝国境の川には「大量の死体が浮かび、数万人の人々が住む家もないまま彷徨っている状態になった時に、韓国に住む脱北者は「従来と同じやり方であれば、人道支援は行うべきではない!」と人道支援に反対した。
人道支援の物資は被災者には届かず北朝鮮へ人道支援したお金とか物資は軍隊に奪われ、横流しされ、ミサイル開発に使われていくからである。

人道支援に反対する脱北者Aさんは、
「今、苦しんでいる人々を見殺しにするわけにはいきませんが、支援物資が不正に流れるのであれば支援はするな」
「もどかしくて仕方ありません。激しい憤りを感じています。同胞の窮地を救ってあげたい!。それでも『支援はするな!』と叫ぶしかないのです」
と涙ながらに語った。

金正恩時代になって経済難が深刻化し、扶養家族がいる数多くの女性が売春せざるをえない社会になっている。

政治犯収容所のおおよそ20万人の政治犯は過酷な労働を強いられている。これに加えて、教化所(刑務所)、労働鍛錬隊(強制労働キャンプ)などの拘留施設、そして炭鉱や農場での強制労働を合わすと110万人が奴隷状態にある。それは北朝鮮人口2250万人のうちの4.88%に相当する。。奴隷の人口比率では北朝鮮が世界で1位である。
経済難は朝鮮人民軍にも大きく影響していて兵士の栄養失調が蔓延している。

北朝鮮では韓国の映画を観ただけで逮捕されて罰せられる。韓国映画が保存されたメモリーカードが発見された女子大生は保衛部に連行され、激しい拷問を加えられた。10年の懲役刑が避けられないことを悟った彼女は、いとこの美容室から持ちだしたパーマ液を飲んで、服毒自殺した。

北朝鮮では金正恩に異議を唱えれば一家が処刑される。韓国の国家情報院は金正恩氏に異議を唱えたとして15人の当局者が処刑されたと報告した。

金正恩は恐怖政治を通じ自身の「唯一支配体制」の妨げとなる人物を容赦なく粛清してきた。
軍部のトップに浮上した李英鎬を非協力的な態度を見せたとの理由で突然解任した。李氏を含め、金総書記の葬儀で霊きゅう車に付き添っていた金正覚(キム・ジョンガク)氏、金永春(キム・ヨンチュン)氏、禹東則(ウ・ドンチュク)氏の軍幹部4人は金正恩体制下で粛清されたか一線から退いた。
13年12月には張成沢氏を処刑した。世界に衝撃を与えた張氏の処刑は、ナンバー2の存在を許さない金委員長の唯一指導体制の構築が目的だった。
15年4月には当時の玄永哲(ヒョン・ヨンチョル)人民武力部長(韓国の国防部長官に相当)が裁判も行われないまま機関銃で公開処刑され、同5月には、金委員長が進める山林緑化政策に不満を示したとの理由で崔英健(チェ・ヨンゴン)副首相が処刑された。
16年7月には副首相だった金勇進(キム・ヨンジン)氏が最高人民会議(国会に相当)で「座る姿勢が悪かった」と指摘され、国家安全保衛部(秘密警察、現国家保衛省)の調べを受けた後、処刑された。
金元弘(キム・ウォンホン)国家保衛相が朝鮮労働党組織指導部の調査を受け、大将から少将に降格された後、解任された。
韓国の関係当局の推計によると、金正恩体制で処刑された幹部は12年に3人、13年に約30人、14年に約40人、15年には約60人になるなど急増している。

金正恩は自分の地位を守るために国外対策では核、ミサイル開発を続け、国内対策では国民を弾圧。搾取し、側近を解任、処刑している。
今の北朝鮮はアフガニスタンのタリバン独裁国家やイラクのフセイン軍事独裁国家よりも国民の弾圧・搾取がひどい国家である。
金正恩の独裁政権を倒して北朝鮮国民を「恐怖政治」から解放するために米国や韓国が北朝鮮を攻撃するのに賛成である。しかし、北朝鮮国民を解放するという理由で米国は攻撃することはしない。核、ミサイル開発によって米国が危機に陥るという理由がない限り米国は北朝鮮を攻撃することはないのだ。 
金正恩は米国に攻撃されないようにぎりぎりの緊張感を維持しながら核、ミサイル開発を進めていくだろう。

北朝鮮危機を煽って、日本も核武装するべきであるという主張は北朝鮮との対立をますます高めていく理論であり、北朝鮮問題を解決するのになんの役にも立たない主張である。
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沖縄戦になったのは日本が軍国主義だったから2


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沖縄戦になったのは日本が軍国主義だったから2
 日本は軍国主義国家であったのかなかったのか
5・15事件をきっかけに日本は軍国主義へまい進していった。日本が軍国主義だったために沖縄戦があり10万人の住民が死んだことを説明していこうと思っていたが、戦前は軍国主義国家ではなかったという意見があり、明治からずっと軍国主義だったという意見もあることを知った。戦前は軍国主義国家であったのかそれとも軍国主義国家ではなかったのか。沖縄戦について説明する前に両方の意見を検討してみることにした。

日本は明治から軍国主義であったと言う説
 明治から軍国主義であったとする説の根拠は、
日本は帝国主義・富国強兵を宣言した国家であり、明治維新後、日清戦争、北清事変、日露戦争、第一次世界大戦、シベリヤ出兵、山東出兵、満州侵略、盧溝橋事件とそれに続く中国大陸侵略拡大、張鼓峰事件、ノモンハン事件、海南島侵略、仏印侵略、そして米英に対する開戦と日本は戦争ばかりやっていたし、戦争に反対する者は徹底して弾圧した。戦争、弾圧すべてが軍(主に陸軍)主導でやっていたから日本は軍国主義であったという説である。

 確かに戦前の憲法は大日本帝国憲法であり、日本が帝国主義国家であることを宣言したことは確かである。日本が帝国主義国家であったことは否めない。
富国強兵を掲げていた明治政府は明治6(1873)年に徴兵令を布告した。対象年齢となった男子はすべて徴兵検査を受けなければならなかったし、徴兵検査に合格した男子は日本軍に入隊して軍事訓練を受けなければならなかった。そして、国が赤札で徴兵すると軍隊に入り、戦地に行かなければならなかった。国民は皆兵であった。
明治政府が徴兵令を布告し国民皆兵にしたのは軍隊を強化するのが目的であった。軍隊を強くした理由は軍事力で大陸に進出して植民地を獲得するためであった。植民地を獲得するために軍隊を強くしていったのが憲法を「大日本帝国」と帝国を掲げたことで分かる。しかし、帝国主義、富国強兵だから軍国主義というのは間違いである。
イギリスやオランダなど戦前のヨーロッパの国々はアフリカやアジアに植民地を持っていた。植民地にするために強い軍隊をつくり、アフリカやアジアの国々に武力で侵略したのである。しかし、イギリスは軍国主義国家ではなかった。議会政治国家だった。日本が帝国主義・富国強兵を目指していたから軍国主義国家であると決めつけるのは間違っている。
 軍国主義国家とは軍部が政権を握ることである。帝国主義、富国強兵の国家であっても国家の政権を政治家が握っていたら軍国主義国家ではない。
 
 明治維新の後、立憲政治・議会制度の創設が論議されるなかで、1870年代には福澤諭吉をはじめとする三田派の言論人たちを中心に政党内閣制を採用するように主張され始めた。
明治初期時代は藩閥政治であったが政府内部でも政党政治への動きがあり明治14年(1881年)3月に参議大隈重信がイギリスをモデルとする議会政治の早期実現を主張し、政党内閣による政権運営を求めて意見書を提出した。しかし、右大臣岩倉具視の提出したプロイセンをモデルとする立憲君主制の提案が採用された。
明治政府は軍人が首相になることもあったが、政治家中心の政治であり軍人中心政治にはならなかった。
明治時代には議院内閣制は採用されなかったが、大正時代に入ると、大正デモクラシーを背景に政党の勢力を伸張していき、1912年の第1次護憲運動の後、大正7年(1918年)9月に立憲政友会の原敬が内閣を組閣した。この内閣は閣僚の大半が政党所属であった。原は藩閥ではなく現役衆議院議員であったから現役衆議院議員の初の首相であった。
原敬は右翼少年に暗殺されるが、原内閣以後も政党が政権を握る政党内閣が続いた。
陸軍・海軍や枢密院、官僚などの勢力は強く、政党内閣の政権下でも依然として大きな政治的発言力があり、政党内閣の政権運営に介入していたことは事実であるが、明治から大正、昭和初期まで政治家が政権を握っていたのは確かである。軍部の勢力は強かったが軍国主義国家ではなかった。しかし、1932年5・15事件以後から軍国主義が始まったと私は考えている。

戦前は軍国主義国家ではなかったという説
軍国主義ではなかったという説では、満洲事変前後から軍部が台頭し、政治への強い干与がはじまったことは事実であると認めている。そして、五・一五事件、二・二六事件後、軍中央部が政治への強い発言権を持つようになったことも事実であると認めている。加えて、国家総動員法の成立、大政翼賛会の結成に軍部の強い支持があったことも事実であると認めている。それらを認めた上で日本は軍国主義ではなかったというのである。

軍国主義ではなかった根拠に上げたのが「革新」派の存在である。「革新」派とは満洲事変以後にナショナリズムの昂揚とともに現状打破を主張して台頭してきた勢力である。
「革新」派は軍部だけでなく、政党各派、官僚に加え民間の中にも多数存在した。「革新」派はナチス傾倒者、左翼からの転向者、右翼、民族派など幅広く存在した。
こうした大きな政治潮流の背景をぬきにして軍部の台頭のみを抽出して論じるのは、歴史に対する公正な態度とはいえないというのが戦前は軍国主義国家ではなかったと主張する側の主張である。軍国主義国家ではなかった派は、軍部も含めそれらの勢力を生んだ政治的思想的潮流こそ問題にすべきであるというのである。

軍国主義国家ではなかった派は「軍国主義」とか「ファシズム」の指標とされる大政翼賛会についても取り上げている。大政翼賛会へ向う新体制運動につながる中核グループには「東亜建設国民聯盟」の結成があり、「東亜建設国民聯盟」は軍部ではなく民間「革新」派の結集であったことを強調している。そして、大政翼賛会の結成時には、当初軍がもくろんでいた一国一党の前衛党の形式は民族派や現状維持派から「幕府論」だとの強い非難をうけ、「公事結社」として政府の方針を国民に伝達する機関となった。これは軍の「革新」派のもくろみの失敗であり、その意味でも「軍部支配」とはいいがたいと主張している。
でも、大政翼賛会に結集した民間人は思想的には軍部による政治支配に賛同した連中であり、民間の「革新」派が居たとしても、軍部が政権を握ったのは事実し、軍部が主流となって政治を行ったことを否定できるものではない。だから民間の「革新」派が居たから軍国主義国家ではなかったというのは間違っている。
5・15事件そして、2・26事件によって軍部と対立する政治家は軍部によって排除されるたのは事実である。そのために軍部に対抗する政治家がいなくなったのも事実である。政党政治家のいない軍部による政権は軍事政権であり、軍部の思想が直接政策となる国家は軍国主義国家である。

 犬養首相が暗殺されたのは軍部との対立していたからである。犬養首相を暗殺することによって満州における軍部の政策が実現していった。

 犬養首相は中華民国の要人と深い親交があり、とりわけ孫文とは親友だった。だから犬養首相は満州地方への進軍に反対で、「日本は中国から手を引くべきだ」との持論をかねてよりもっていた。しかし、大陸進出を急ぐ帝国陸軍の一派と、それにつらなる大陸利権を狙う新興財閥は日本が侵略し直接支配するために満州国独立の承認を政府に迫ったのである。犬養首相は軍部の要求を拒否した。
犬養首相としては、満州国の形式的領有権は中国にあることを認めつつ、実質的には満州国を日本の経済的支配下に置くという考えだった。犬養首相は中国国民党との間の独自のパイプを使って外交交渉で解決しようとした。交渉は行き詰まり、結局、犬養首相の満州構想は頓挫したが、政治家は政治交渉を優先させてできるだけ穏便に解決しようとする。しかし、軍部は武力で制圧占領することによって解決しようとする。それが政治家と軍人の違いである。
犬養首相は護憲派の重鎮で軍縮を支持しており、これも海軍の青年将校の気に入らない点だったといわれる。軍部の野望を拒否したから犬養首相は軍人に殺害されたのである。

二つの説は間違っている
明治時代から軍国主義国家だったという説も、戦前の日本は軍国主義ではなかったという説も間違っている。明治時代は政治家が政治をしていたし、政治の近代化は進み、政党政治になつたが、5・15事件で犬養首相が暗殺されてから、軍部が政権を握り軍人が政治をやるようになった。だから日本は軍国主義国家になったのである。
軍国主義国家になると大正デモクラシーと呼ばれるような民主主義の運動も弾圧されていった。

5・15事件以後に軍国主義に向かった
1932年(昭和7年)5月15日に内閣総理大臣 犬養毅を武装した海軍の青年将校たちが殺害した。

昭和天皇は鈴木貫太郎侍従長を通じて、犬養首相の後継の首相は人格の立派な者を選び、内閣は協力内閣か単独内閣かは問わない、しかしファッショに近いものは絶対に不可といった内閣をつくるように指示した。
昭和天皇が希望した内閣はファッショに近い軍部の内閣ではなく、民主主義に近い政党内閣であった。しかし、昭和天皇が指示した政党内閣はつくられないで元海軍大将であった斎藤実が次期首相になり軍部中心の内閣がつくられた。
犬養首相暗殺後の内閣は、昭和天皇が指示した内閣は実現しないで昭和天皇が望まなかった内閣がつくられたのである。戦前の国家は天皇主権と言われているが犬養首相暗殺後の日本はそうではなくなっったのである。天皇よりも軍部が望む政権がつくられたのである。

軍部の勢力が強かったのは、大日本帝国憲法第11条に 「天皇は陸海軍を統帥す」とあり、天皇主権の戦前では法的には軍部は内閣によるシビリアンコントロール下にはなく内閣とは五分五分の立場であった。しかし、明治以降ずっと政治家が軍を主導していて、天皇による統帥権が憲法には銘記されているにも関わらず政治主導されていることが問題にされることはなかった。しかし、昭和に入り、統帥権干犯問題が起こる。

統帥権干犯問題
昭和5(1930)年、ロンドン海軍軍縮条約に調印した浜口雄幸内閣に対して、軍部と野党政治家が政府を激しく攻撃した。

※ワシントン海軍軍縮条約
1921年(大正10年)11月11日から1922年(大正11年)2月6日までアメリカ合衆国のワシントンD.C.で開催されたワシントン会議のうち、海軍の軍縮問題についての討議の上で採択された条約。アメリカ(米)、イギリス(英)、日本(日)、フランス(仏)、イタリア(伊)の戦艦・航空母艦(空母)等の保有の制限が取り決められた。


軍部と野党政治家は、
「明治憲法(大日本帝国憲法)の第11条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」、第12条には「天皇ハ陸海軍ノ編成オヨビ常備兵額ヲ定ム」、とある。これは天皇の統帥権、編成大権であり、陸海軍の兵力を決めるのは天皇と書かれている。天皇をさしおいて、政府が兵力数を決めてきたのは憲法違反である。天皇の統帥権を犯すものだ」
と主張したのである。
これを政争の具にして議会で「統帥権干犯!」と騒ぎ出したのが野党であった政友会の犬養毅や鳩山一郎(鳩山由紀夫・邦夫兄弟の祖父)であった。

犬養毅や鳩山一郎の野党の主張に対して、浜口雄幸首相は、
「一応天皇が最終的な権限を持っているけど、実際上は責任内閣制度なのだから内閣が軍縮条約を結んでもかまわない。これが統帥権干犯ならば、外交を外務大臣がやるのは外交権干犯なのか?」
と答弁をした。鳩山一郎や政友会は浜口首相に言い負かされてしまう。
しかし、これで浜口首相は右翼や海軍から恨みを買うことになり、後日、右翼に狙撃されて重傷を負い、退陣に追い込まれた(浜口は約10ヵ月後に死亡)。

もともとは明治憲法の欠陥なのだが、それまでは元老制度によってこれが問題となることはなかった。しかし、昭和に入ると元老のほとんどは死に絶え、必然的に内閣の権威も衰えてしまった。ここに統帥権干犯問題という軍部の横暴がまかり通ってしまった原因がある。
結局、この問題により内閣は軍に干渉できないことになってしまった。
統帥権にこだわり、勢力拡大の野望に固執した軍部や右翼によって統帥権干犯論を撥ね付けた浜口首相は殺害され、満州問題で軍部と対立した犬養毅も五・一五事件で射殺された。この流れはより強固になっていき二・二六事件へと連なるのである。
統帥権干犯問題あたりを機に、日本の議会政治は徐々に死んでいき軍国主義への道に進んでいくのである。

統帥権干犯問題は、伊藤博文に始まった日本の政党政治の息の根を止めることになった。
五・一五事件で8年間続いた政党内閣は崩壊し、軍部が政権を握る軍国主義へ歩みだしたのである。

軍部の野望
政権を握った軍部の野望は日本国家を掌中に治め、日本を軍部の思い通りの国にしてから、満州の植民地支配を初めとした大陸進出であった。
軍部の野望の最終目的は日本が指導者として欧米勢力をアジアから排斥し、日本・中華民国・満州を中軸とし、フランス領インドシナ(仏印)、タイ王国、イギリス領マラヤ、英領北ボルネオ、オランダ領東インド(蘭印)、イギリス統治下のビルマ、オーストラリア、ニュージーランド、イギリス領インド帝国を含む広域の政治的・経済的な共存共栄を図る大東亜共栄圏構想であった。
軍部は大東亜共栄圏野望を実現するためにアジアに戦場をどんどん広げた。軍政府は日本経済を支える労働者である国民の多くを戦場に送った。そのために日本の生産は落ち、経済は下がり、国民は貧困にあえいだ。それでも軍政府は、
「贅沢しません勝つまでは」
と国民に言わせて、戦場を拡大していった。

帝国主義を宣言したのは明治政府を設立した政治家である。政治家が軍部と同じように大東亜共栄圏の野望を持つ可能性もある。しかし、政治家が軍部と同じ政策で大東亜共栄圏を目指すかというと、満州の植民地化政策で犬養首相と軍部が違ったように政策は違っていたはずである。
 政党政治の政権が、果たして、
「贅沢しません勝つまでは」
と国民に言わせてまで戦場を拡大していったかどうかを検討することは必要だと思う。

軍国主義とは軍部が政権を握り軍人が国の政治をするということである。政治家の政治と軍人の政治が同じであれば問題はない。しかし、軍人の政治と政治家の政治は違う。それが問題である。
沖縄戦になったのは日本が軍国主義だったからであり、太平洋戦争の時でも政治家による政治が続いていたら神風特攻隊はなかったし、沖縄戦にもならなかったはずである。
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沖縄差別の原因は沖縄にある3 地割制度の村は仏壇がなかった


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沖縄差別の原因は沖縄にある3
地割制度の村は仏壇がなかった
 
地割制度とは、ある一定の土地を共有とし、一定期間を限ってその土地の住民に割り当てて使用させ、期間が過ぎると割り当てなおした制度である。

琉球王国時代の土地は王府の所有であり農民の所有ではなかった。農地は百姓地・地頭地・オエカ地・ノロクモイ地・仕明地などの耕地区分があった。地割制度による割替えは、基本的には百姓地・地頭地・オエカ地で行われた。割り替えをするのは土地を所有している王府に使える地頭などがやった。農民の代表がやったのではない。農民は支配者の割り当てによってあてがわれた農地を耕作した。王府に上納する農作物は農民のそれぞれの収穫に応じて上納したのではなく村全体で上納した。
割替基準は村によって違い、人頭割・貧富割・貧富および耕耘(こううん)力割・貧富および勲功割があった。
琉球王国時代は地割制度と村からの移住を禁じた。だから、他の村との交流はほとんどなかった。

最近、地割制度の村には仏壇がなかったという甥の話に大きなショックを受けた。

甥から私の子供の頃に体験した稲作のことを訊きたいという電話があった。甥は高校で社会科の教諭をやっているが、今は休職して、沖縄国際大学に通っている。彼は民俗学に興味があり、沖国大で民俗学を学んでいる。

 甥は姉の子供である。九歳上の姉は結婚をして嘉手納の屋良に住んでいた。屋良は嘉手納の東にあるであり、かでな道の駅がある場所である。姉の家は道の駅の近くにあった。
昭和37年(1962年)12月20日に姉の家から数百メートル離れた住宅に嘉手納飛行場所属のKB‐50空中給油機が墜落炎上した。住宅3棟が全焼し、死者は2人、重軽傷者が8人だった。中学生だった私は事故跡を見たが、家の跡形はなく黒焦げた残骸だけが残っていた。
 屋良に住むのが怖くなった姉夫婦は読谷村比謝の私たちが住む屋敷に引っ越してきた。甥は引っ越してきた比謝で生まれ育った。
大学でレポートを提出することになった甥は生まれ育った比謝の昔の様子を調べてレポートにしようと企画して、私の子供の頃の記憶にある水田について訊くことにしたのだ。比謝で水田をしていたのは私の父だけだったと思う。水田は知り合いから借りたものであり、比謝ではなく嘉手納弾薬庫の山の中にあった。
 水田の多くは川沿いにあるから川から水を引いていると思っている人は多いと思うが、水田は川から水を引いていない。水田の近くを流れている川は陸地の水田より低い。川から水を引くには大量の水を川からくみ上げなければならないがそんな装置はなかった。くみ上げることはしないで、川から水田に水を引くには水田より高い所にある数キロ離れた上流から水路をつくって水を引かなければならない。それは大変な工事であるし、困難である。水路をつくって川から水を引いた水田はなかった。
水田は川ではなく近くの泉から水を引いている。川があるのは川に水が流れ出る泉が多いからである。川沿いに水田が多いのは川沿いには泉があるからである。川から水田に水は流れているのではなく、泉から水田に水は流れ、水田の水が川に流れるのだ。水田は川沿いに多いが父の水田は川沿いではなく、川からかなり離れた場所にあった。水田は山に囲まれていて、山の麓には水の豊富な泉が数か所あった。その泉から水田に水を引いていた。水田や泉から流れ出る水が水路を流れ、小川になり、川に流れ出た。
水田の一角に苗代をつくり種を植え、稲が20センチくらいになった時に、数本ずつ田に植える。田植えの時は母、姉そして小学生の私が手伝った。
水田の場所や泉や田植えのことなど私の記憶にあることを甥に話した。それから旗ズカシーとか家の近くにあったお宮で行う行事なんかの話もした。
私の記憶はあいまいであるから私に聞くよりネットなどで調べたほうがいいのではないかと言うと甥はネットや専門書でも調べるが、生の人間の体験した話を調べるも大切である、話が事実であるか否かは大事ではないと言った。甥の説明に応じて私はあいまいな記憶をたどりながら話した。

数週間後に甥から電話があり、再び私から話を聞きたいと言った。電話があった二日後に彼は私の家に来た。
大阪で起こった沖縄差別は琉球王国の地割制度に関係があることを知った私は甥が民俗学に興味があるのなら琉球王国時代の地割制度について知っているかもしれないと思って、甥の質問に答えながら、地割制度について訊いてみた。甥は地割制度のことを知っていた。
地割制度の村は原始共産社会であり私有財産がなく私有意識が発達していなかった。そのために私有意識が発達していた大阪で沖縄差別があったことを私は甥に話した。
甥は地割制度の村には私有財産制度がなかったことを知っていて、地割制度時代は私有財産のない原始共産社会であったから家族単位の墓はなく、死者は風葬して共同墓に葬っていたと言い、家族の墓はなかったと言った。離島で共同墓があったというのは聞いたことがある。共同墓にしたのは離党には家族別々に墓にするほどの広い土地がなかったから共同墓にしたのだろうと思っていたが、甥は本島にも共同墓はあったといった。共同墓があった原因は地割制度による原始共産社会であったからだと言い、そして、私が予想していなかったことを話した。地割制度の村には仏壇がなかったと言ったのだ。仏壇がなかったという甥の話に私はショックを受けた。

甥は仏壇がなかった原因を地割制度の社会は私有財産なかったからだと言った。私有財産と仏壇が関係しているとは今まで考えたことがなかった。
甥は、親の所有する土地を引き継いだから長男が親の墓と仏壇を引き継いだのであり、地割制度の社会では私有財産としての土地はなかったから土地を長男が引き継ぐという習慣はなかった。だから墓はなかったし仏壇もなかったと説明した。甥の話では私有財産制度ができたから墓や仏壇かできたというのである。意外な話であるが、確かに仏壇を継ぐのは長男である。戦前は長男が親の財産を継いだ。戦後になって親の財産は子どもみんなで分割するようになったが、元々は財産は長男が継いだ。だから、仏壇も継いだのだ。私有財産制度になったから仏壇ができたという甥の説明に私は驚きながらも納得した。
とすると仏壇ができたのは地割制度があった琉球王国時代ではなく明治時代になってからということになる。歴史的には仏壇ができたのは近代社会になった最近ということになる。琉球王国時代の昔から仏壇はある思い込んでいた私には衝撃的な話だった。なぜ、衝撃を受けたかというと、私は長男であり、子供の頃から仏壇やあの世の話を母からしつこく聞かされて仏壇に対する思いが色々な意味で強かったからだ。

沖縄では旧盆のウークイの日の夜に「うちかび」と呼ばれる紙を燃やす風習がある。「うちかび」とは銭型が打ちつけられている紙のことである。「うちかび」を燃やすのは死後の世界のあの世もこの世と同じようにお金がないと生活できないから、ご先祖様があの世でお金に困らないようにするためであると母は「うちかび」を燃やす理由を教えた。私は長男であるので「うちかび」を燃やすのが私の役目だった。子供の頃は母の話を信じて、先祖にお金が渡ることを願いながら「うちかび」を燃やした。しかし、中学生になると母の話に疑問を持つようになった。
死んだら肉体はなくなり魂だけになるのだからお腹が減ることはないから食べる必要はない。魂だから自由に移動できるから車のようなものも必要がない。魂には娯楽も必要ないだろう。あの世ではお金を使う必要はないのではないだろうかという疑問を持つようになった。疑問は私の胸に納め、母には話さなかった。私は旧盆の三日目のうーくいの夜に黙って「うちかび」を燃やした。
大昔の人はあの世もこの世と同じだろうと想像したから「うちかび」を燃やしたのだろうと私は考えるようになった。この「大昔」の人を想像していたから琉球王国時代に「うちかび」を燃やす風習があったのだろうと思っていたら、甥が私の思いを否定した。「うちかび」を燃やすには仏壇がなければならない。しかし、仏壇は明治以後に置くようになったのだから、琉球王国の昔に「うちかび」を燃やすことはあり得ないことである。
そういえば「うちかび」はあの世のお金である。お金は那覇や首里などの身分の高い層の間では流通していたはずだが、地割制度の村では流通していなかったはずである。お金が流通するようになったのは明治時代からであるから、あの世のお金である「うちかび」があることから考えても仏壇ができたのは明治時代であるのだろう。仏壇が明治時代に登場したというのは私には驚きであった。

私は長男であり、小学校の時から仏壇の儀式をやらされていた。仏壇は先祖代々長男が引き継がれているから長男の私は仏壇を引き継がれなければならないと教えられたし、私も引き継がなければならないと観念した。父母が死に、一人暮らしをしている私であるが私の家には仏壇がある。
仏壇は「先祖代々」引き継がれてきたと子供の頃から聞いていたので昔から仏壇あると思っていた。少なくとも琉球王国時代には仏壇があったと思っていた。しかし、地割制度は琉球王国時代にあったのだから仏壇はなかった。明治時代になって琉球王国が滅んだから地割制度はなくなり、仏壇を置くようになった。仏壇を置くようになったのは明治以降であり、「先祖代々」ではなかったのである。

沖縄の民俗学に精通している友人が居るが、彼に地割制度時代は仏壇があったかどうかを訊いたが、彼は知らなかった。琉球王国時代は仏壇がなく、私有財産制ができた明治以後に仏壇を置くようになったという甥の話を彼に話したら、彼も初耳であると驚いていた。私の話に興味を持った彼は、沖縄の信仰に詳しい95歳になる女性に、沖縄で仏壇を置くようになったのはいつ頃なのかと聞いたらしい。すると彼女は明治の頃であると答えたという。私の話は信憑性が高いことを彼は認めた。
地割制度と口唇口蓋裂
地割制度というのは一定期間に土地を割り当てる制度であるが、一万戸と戸数の多い村であるなら割り当てすることは難しいだろう。不満や争いが起こる可能性も高い。数千戸でも輪り当てするのは大変である。割り当ては数百戸くらいの村でできることである。地割制度は小さな村単位で行っていたのはその性だろう。そして、農民が自由に移住すると割り当てが困難なので地割制度を維持するために移住も禁じたのである。隣村との交流を禁じていたから、地割制度制度の村では同じ村人同士で結婚する親族婚が多かった。
あなたは口唇口蓋裂という障害を知っているだろうか。生まれた時から唇が割れている障害である。知人の話によると沖縄には口唇口蓋裂の人が多かったらしい。私が子供の頃にも同い年に口唇口蓋裂の男の子がいた。大人にも口唇口蓋裂の人がいた記憶がある。知人が医者から聞いた話では親族婚をするとこのような障害になる確率が高いらしい。そのことが本当であるかどうかをグーグルで調べたが、口唇口蓋裂の原因が親族婚にあるという説明を見つけることはできなかった。
ただ、沖縄に口唇口蓋裂が多かったのは事実であるようだ。そして、東南アジアやアフリカなどの後進国にはまだ口唇口蓋裂の子供が多いという。知人の知り合いの医者の話では後進国では、沖縄と同じように親族婚が多いかららしい。
口唇口蓋裂は手術で治すことができる。日本で手術の技術が優れているのは琉球大学病院であるらしい。米国はすでに手術で口唇口蓋裂を治す技術があったので米民政府統治時代に沖縄は米軍医から手術を習った。
東南アジアやアフリカなどの後進国にはまだ口唇口蓋裂の子供が多いので沖縄で口唇口蓋裂を治す医療チームを結成してアジアに派遣するという報道を数か月前に見たことがある。

せんする節と地割制度
沖縄民謡にせんする節というのがある。村というよりごとに言葉が違うことをおもしろおかしく歌っている民謡である。本部の備瀬、名護市の津田、恩納村のンジャトゥのヒジャオンナ、うるま市の屋慶名などの言葉の違いのおもしろさを歌にしている。せんする節の特徴は市や村単位の言葉の違いではなく、今の字単位での言葉の違いを歌にしていることである。琉球王国時代は村の規模は今の字くらいの規模であっただろう。
地割制度は小さな村が他の村と隔絶していて交流や移住が禁じられていた。沖縄本島は小さな島であるが、村ごとに言葉が違っているのは地割制度が原因である。

琉球王国時代の人口はおよそ17万人であった。
有力士族425人
下級士族8075人 
農民・漁民16万1500人
17万人だったら村と村は随分離れていただろうし交流も少なかっただろう。その時に琉球王国は沖縄を支配し、村に地割制度を敷いたのである。17万人から徐々に人口は増加して明治直前の琉球王国の人口は40万人であったが、人口が17万人から40万人に増加していっても地割制度はそのまま琉球王国の農民支配制度として維持した。多分人口が増えていくと地割制度を維持するために別の場所に新しい村をつくり移住させていたのではないだろうか。

地割制度は生産性が低かった
 地割制度は沖縄独特の制度というより、交通が発達していない時代で小さな村が点在していた頃に小さな国が誕生して村々を支配するようになった時代の制度だったと考えられる。本土や他の国でも小さな国が点在していた時代には沖縄のような地割制度があっただろう。
 地割制度には生産性が低いという欠点がある。畑を定期的に割り当てしていたら、畑を改良して肥沃にしていっても次の割り当てには自分が耕作する畑ではなくなる可能性がある。だから、畑の収穫を多くするための土地改良をする意欲は湧かない。地割制度の村では土地を改良して生産を高めようとする意欲はなかったと考えられる。地割制度は生産を高めるのには向いていない制度であったのである。
本土では江戸時代には生産を向上させるために割り当てた土地をずっと同じ農民に耕作させるようになっていた。そのほうが生産意欲が高まり、生産が向上するということを江戸幕府は知っていたからである。

明治維新の時、沖縄の人口は約40万人であった。現在の人口は142万人だから明治初期の沖縄は現在より100万人以上少ない三分の一の人口であったのだ。明治に入ると人口が急激に増えていき昭和には約60万人になる。そして、60人からはソテツ地獄が続き、増加しない状態が続く。
明治時代になると地割制度から私有制度になり、村から解放されて沖縄内だけでなく本土にも自由に移動できるようになるが、ほとんどの農民は同じ村に住み、生活も文化も急激に変わることはなかったと考えられる。だから沖縄には地割制度時代の文化が根強く残っていたはずである。

明治以後も小さな村が点在していた沖縄ではお金の流通は発展しなかった。生活に必要な物は村で生産し村で消化していた。戦前は芭蕉布でつくった着物をつけていたが、村には何軒かの機織り機のある家庭があり、そこで村の人たちが着ける布を織っていた。戦後でも私が子供の頃、機織りをしている家が数件あった。

農業はお金の流通に向いていない。父は米、さつま芋、田芋や野菜を栽培し、豚と山羊を飼っていた。米からの収入は年に二回、田芋は年一回、さつま芋や野菜は家族と豚が食べた。豚や山羊は業者に売ってお金が入ってくるが山羊や豚からの収入は年に数回であった。農業には月収入はない。だから月単位でお金を払う生活には向いていない。
商店から買う商品は買った時に払わなければならない。電気料金や水道料金は毎月支払わなければならない。子供が学校に通うと服やカバンや教科書を買わなければならないし、給食費やPTA会費などを払わなければならない。
私の家は商店から買った商品の値段をノートに記録して収入がある時に払った。しかし、電気料金や水道料金は毎月支払らなければばならないし、学校への支払いも収入があった時に支払うわけにはいかない。母は学校に支払わなければならない時には、「お金を探してこようね」と言って家を出て、暫くするとお金を持って帰って来た。隣近所から借りたのだ。私が「どこで探したのか」と聞くと母は「道に落ちていた」と言った。小学生の時は母の言葉を信じ、歩くときは下を向いてお金を探しながら歩いたものだ。

農民は毎月の収入がないので、生活を維持するために借金をしなければならない。お金経済になった明治時代になると高利貸しからお金を借りる農民は多かっただろう。借金を返すことができなくて土地を手放した農民も多かったはずである。
農業は近代化が進んだお金経済には不向きな産業である。
貧しさを淡々と生きていた農父
小学三年生の卒業写真である。


写真を見て分かる通り男子生徒は学生服を、女子生徒はセーラー服を着けている。私たちは小学生の時から制服を着なければならなかったのだ。父は専業農家であったために家は貧しく子供を小学校に通わすのためのお金負担は大きかった。

嘉手納で祖母と孫の二人で生活しながら商店をしている親戚が居て、その家の家事手伝いをする条件で住み込みをして9歳年上の姉は高校の費用を出してもらった。私の家では姉を高校に通わすお金はなかった。
父が農業ではなく軍作業員であったら姉が親戚の家の家事手伝いをすることはなかった。

なぜ、農業は貧しいのかを高校生の時に考えた。

幼稚園の時、比謝の隣に広がっているススキや木が生い茂っている原野をブルドーザーで整地して、道路をつくり、どんどん住宅ができて、原野だった場所に渡具知ができた。
もし、父のような農民たちが原野を整地すると、鎌でススキを刈り、のこぎりで木を倒し、つるはしで木の根を掘り起し、鍬で整地していかなければならない。何百人もの人間が整地に参加し、何年もかかるだろうがブルドーザーなら数か月でできた。機械のすごさをまざまざと見せられたのが渡具知の整地だった。
古堅にはモーガンマナーという外人住宅街があり、中学生になると私はモーニングスターというアメリカ人向け新聞の配達をするようになった。外人住宅はコンクリート造りで、庭は広く芝生が植わっていた。鎌で伸びた芝生や雑草を刈るのは大変であるが、どの家庭にも芝刈り機があり草を刈るのは芝刈り機を押すだけで楽に早く草を刈ることができた。
沖縄の家の庭は土であり、雑草が生えると鎌で刈り取っていた。鎌や鍬で手作業をする沖縄と機械を使うアメリカとの違いを子供の頃から見てきた私は沖縄とアメリカの差を感じていた。
アメリカでは機械を使った大規模農場をやって大量生産をしていることを学校で習う。機械を使って大規模農場で大量生産をすれば農民でも金持ちになれる。父の鍬と鎌の農業では大規模農業はできない。父の農業は時代遅れであり、それが貧しさの原因であるというのが私の考えだった。
沖縄は小さい。アメリカのように広大であれば大農場が確保することができるが、小さな沖縄では小さい畑しか確保できない。父だけでなく小さい畑しかない沖縄の農民は皆貧しかった。農業だけでは生活できないから農民の多くは月給がもらえる別の仕事をするようになっていた。そして、土、日曜日の仕事が休みの日に農作業をやっていた。本土でもそういう農家が多かった。そういう農家を兼業農家といった。兼業農家は社会現象にもなっていて教科書にも載っていた。
隣近所の家も兼業農家が多かった。近所で専業農家は私の家だけだった。だから私の家は貧しかった。

私は貧しかったと言ったが貧しい家庭にした本人の父は貧しいと思っていたか。
朝早く山羊の草を刈りにいって、山羊や豚に餌を上げてから朝食を取り、それから畑に行き、昼に帰ってきて昼食を食べた後に30分くらい昼寝をしてから再び畑に行く。そして、夕方に帰って来る。土曜日の半ドンとか日曜日の休日というのは父には関係がなかった。土、日も畑に行った。雨がふったり暴風の日に畑仕事を休んだ。農父は淡々と畑仕事をしながら淡々と生きていた。
子どもの学費や生活費の工面をしていたのは全て母だった。父は生活費に関しては全然関心がなかった。母が豆腐屋を始めたのは四人の子供を養うには父の収入だけでは足りなかったからである。しかし、父はそのことに無頓着であり、戦前と同じやり方の農作業を淡々と続けるだけであった。
父の楽しみは毎晩のあわもり一杯を飲むことと、月曜日に放映する水戸黄門や大岡越前の時代劇を見ることだった。他の番組は興味がなく見なかった。父には趣味はなかった。
お金と無縁に生きている父には家が貧しいという意識はなかっただろう。
大阪の沖縄差別の原因
琉球王国時代の地割制度を調べていくと原始共産社会のような生活をしていた農民のイメージと父が重なった。地割制度の村には学校はない。電気も水道などもない。生活維持にかかる費用が非常に少ない。食べ物は自分がつくった野菜を食べればいい。生活費のためのお金がほとんど必要のない社会が地割制度の村である。
私有財産制度のない原始共産社会の小さな村は当然競争もない。金持ちになろうとか出世しようという欲はない。将来の夢も持っていない。地割制度の村人は父のように淡々と農作業をやり、心配も悩みもなく淡々とその日その日を生きていたのだろう。
しかし、明治時代に地割制度は廃止になり、畑は私有財産になった。税金はお金で払わなければならなくなった。大地主は収入が増えたが、小さな畑の農民は税金を払うことができないくらいに生活が困窮した。
沖縄は世界恐慌などの影響があり経済を支えていた砂糖は売れなくなってソテツ地獄に陥った。生活することができなくなった貧しい農民が生き延びるために仕事を求めて大阪に移住したのである。江戸時代から商業が発達していた大阪は私有財産の意識が高かったし、社会の規律も確率していた。そんな大阪に原始共産社会で生き、近代教育を満足に受けていない時代遅れの沖縄農民が移住したのである。
沖縄農民と大阪の住民とは労働や生活習慣に格段の差があったのは当然である。その差から差別が生じたのである。
沖縄差別の原因は沖縄と大阪の習慣や文化の違いであるが、その違いの原因は近代化が進んでいるか遅れているかの差であった。
沖縄差別を解消する方法は大阪の人たちに人間は平等であり差別をしてはいけないと教えることよりも沖縄の人たちに近代化教育をすることであった。
第一に共通語教育である。ウチナー口と共通語は大きな違いがある。ウチナー口しか分からない沖縄の人は共通語が分からないし話せない。それは大阪で生活や仕事をするのに大きなハンディになる。生活や仕事で大阪社会に溶け込むことができなかった沖縄出身者が大阪の人に敬遠され差別されたのである。

言葉の問題は沖縄だけでなく日本全体の問題でもあった。明治時代になり国内移住が自由になると地方から東京にどんどん人々が流れた。方言は地方によって違う。方言によるトラブルが多くなった。トラブルをなくすために明治政府が行ったのが共通語の作成と流布であった。
共通語励行は全国で行った政府の教育政策であった。沖縄だけ特別に共通語励行をやったわけではない。
沖縄がやるべきことは理想的にいえば本土に移住する県民に共通語を徹底して教え、本土での仕事や生活のやり方を習得させることであった。習得させた上で本土に移住させるシステムがあったなら大阪の沖縄差別はなかっただろう。現に共通語が話せ、教養のある県民は大阪に移住しても差別されることはなかった。

学校で共通語励行を実施した政府は沖縄差別をなくす努力をしていたのである。共通語励行は沖縄差別であると共通語励行を否定している連中の方が沖縄差別を助長する考えの持ち主なのである。
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