沖縄差別の原因は沖縄にある3 地割制度の村は仏壇がなかった


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沖縄差別の原因は沖縄にある3
地割制度の村は仏壇がなかった
 
地割制度とは、ある一定の土地を共有とし、一定期間を限ってその土地の住民に割り当てて使用させ、期間が過ぎると割り当てなおした制度である。

琉球王国時代の土地は王府の所有であり農民の所有ではなかった。農地は百姓地・地頭地・オエカ地・ノロクモイ地・仕明地などの耕地区分があった。地割制度による割替えは、基本的には百姓地・地頭地・オエカ地で行われた。割り替えをするのは土地を所有している王府に使える地頭などがやった。農民の代表がやったのではない。農民は支配者の割り当てによってあてがわれた農地を耕作した。王府に上納する農作物は農民のそれぞれの収穫に応じて上納したのではなく村全体で上納した。
割替基準は村によって違い、人頭割・貧富割・貧富および耕耘(こううん)力割・貧富および勲功割があった。
琉球王国時代は地割制度と村からの移住を禁じた。だから、他の村との交流はほとんどなかった。

最近、地割制度の村には仏壇がなかったという甥の話に大きなショックを受けた。

甥から私の子供の頃に体験した稲作のことを訊きたいという電話があった。甥は高校で社会科の教諭をやっているが、今は休職して、沖縄国際大学に通っている。彼は民俗学に興味があり、沖国大で民俗学を学んでいる。

 甥は姉の子供である。九歳上の姉は結婚をして嘉手納の屋良に住んでいた。屋良は嘉手納の東にあるであり、かでな道の駅がある場所である。姉の家は道の駅の近くにあった。
昭和37年(1962年)12月20日に姉の家から数百メートル離れた住宅に嘉手納飛行場所属のKB‐50空中給油機が墜落炎上した。住宅3棟が全焼し、死者は2人、重軽傷者が8人だった。中学生だった私は事故跡を見たが、家の跡形はなく黒焦げた残骸だけが残っていた。
 屋良に住むのが怖くなった姉夫婦は読谷村比謝の私たちが住む屋敷に引っ越してきた。甥は引っ越してきた比謝で生まれ育った。
大学でレポートを提出することになった甥は生まれ育った比謝の昔の様子を調べてレポートにしようと企画して、私の子供の頃の記憶にある水田について訊くことにしたのだ。比謝で水田をしていたのは私の父だけだったと思う。水田は知り合いから借りたものであり、比謝ではなく嘉手納弾薬庫の山の中にあった。
 水田の多くは川沿いにあるから川から水を引いていると思っている人は多いと思うが、水田は川から水を引いていない。水田の近くを流れている川は陸地の水田より低い。川から水を引くには大量の水を川からくみ上げなければならないがそんな装置はなかった。くみ上げることはしないで、川から水田に水を引くには水田より高い所にある数キロ離れた上流から水路をつくって水を引かなければならない。それは大変な工事であるし、困難である。水路をつくって川から水を引いた水田はなかった。
水田は川ではなく近くの泉から水を引いている。川があるのは川に水が流れ出る泉が多いからである。川沿いに水田が多いのは川沿いには泉があるからである。川から水田に水は流れているのではなく、泉から水田に水は流れ、水田の水が川に流れるのだ。水田は川沿いに多いが父の水田は川沿いではなく、川からかなり離れた場所にあった。水田は山に囲まれていて、山の麓には水の豊富な泉が数か所あった。その泉から水田に水を引いていた。水田や泉から流れ出る水が水路を流れ、小川になり、川に流れ出た。
水田の一角に苗代をつくり種を植え、稲が20センチくらいになった時に、数本ずつ田に植える。田植えの時は母、姉そして小学生の私が手伝った。
水田の場所や泉や田植えのことなど私の記憶にあることを甥に話した。それから旗ズカシーとか家の近くにあったお宮で行う行事なんかの話もした。
私の記憶はあいまいであるから私に聞くよりネットなどで調べたほうがいいのではないかと言うと甥はネットや専門書でも調べるが、生の人間の体験した話を調べるも大切である、話が事実であるか否かは大事ではないと言った。甥の説明に応じて私はあいまいな記憶をたどりながら話した。

数週間後に甥から電話があり、再び私から話を聞きたいと言った。電話があった二日後に彼は私の家に来た。
大阪で起こった沖縄差別は琉球王国の地割制度に関係があることを知った私は甥が民俗学に興味があるのなら琉球王国時代の地割制度について知っているかもしれないと思って、甥の質問に答えながら、地割制度について訊いてみた。甥は地割制度のことを知っていた。
地割制度の村は原始共産社会であり私有財産がなく私有意識が発達していなかった。そのために私有意識が発達していた大阪で沖縄差別があったことを私は甥に話した。
甥は地割制度の村には私有財産制度がなかったことを知っていて、地割制度時代は私有財産のない原始共産社会であったから家族単位の墓はなく、死者は風葬して共同墓に葬っていたと言い、家族の墓はなかったと言った。離島で共同墓があったというのは聞いたことがある。共同墓にしたのは離党には家族別々に墓にするほどの広い土地がなかったから共同墓にしたのだろうと思っていたが、甥は本島にも共同墓はあったといった。共同墓があった原因は地割制度による原始共産社会であったからだと言い、そして、私が予想していなかったことを話した。地割制度の村には仏壇がなかったと言ったのだ。仏壇がなかったという甥の話に私はショックを受けた。

甥は仏壇がなかった原因を地割制度の社会は私有財産なかったからだと言った。私有財産と仏壇が関係しているとは今まで考えたことがなかった。
甥は、親の所有する土地を引き継いだから長男が親の墓と仏壇を引き継いだのであり、地割制度の社会では私有財産としての土地はなかったから土地を長男が引き継ぐという習慣はなかった。だから墓はなかったし仏壇もなかったと説明した。甥の話では私有財産制度ができたから墓や仏壇かできたというのである。意外な話であるが、確かに仏壇を継ぐのは長男である。戦前は長男が親の財産を継いだ。戦後になって親の財産は子どもみんなで分割するようになったが、元々は財産は長男が継いだ。だから、仏壇も継いだのだ。私有財産制度になったから仏壇ができたという甥の説明に私は驚きながらも納得した。
とすると仏壇ができたのは地割制度があった琉球王国時代ではなく明治時代になってからということになる。歴史的には仏壇ができたのは近代社会になった最近ということになる。琉球王国時代の昔から仏壇はある思い込んでいた私には衝撃的な話だった。なぜ、衝撃を受けたかというと、私は長男であり、子供の頃から仏壇やあの世の話を母からしつこく聞かされて仏壇に対する思いが色々な意味で強かったからだ。

沖縄では旧盆のウークイの日の夜に「うちかび」と呼ばれる紙を燃やす風習がある。「うちかび」とは銭型が打ちつけられている紙のことである。「うちかび」を燃やすのは死後の世界のあの世もこの世と同じようにお金がないと生活できないから、ご先祖様があの世でお金に困らないようにするためであると母は「うちかび」を燃やす理由を教えた。私は長男であるので「うちかび」を燃やすのが私の役目だった。子供の頃は母の話を信じて、先祖にお金が渡ることを願いながら「うちかび」を燃やした。しかし、中学生になると母の話に疑問を持つようになった。
死んだら肉体はなくなり魂だけになるのだからお腹が減ることはないから食べる必要はない。魂だから自由に移動できるから車のようなものも必要がない。魂には娯楽も必要ないだろう。あの世ではお金を使う必要はないのではないだろうかという疑問を持つようになった。疑問は私の胸に納め、母には話さなかった。私は旧盆の三日目のうーくいの夜に黙って「うちかび」を燃やした。
大昔の人はあの世もこの世と同じだろうと想像したから「うちかび」を燃やしたのだろうと私は考えるようになった。この「大昔」の人を想像していたから琉球王国時代に「うちかび」を燃やす風習があったのだろうと思っていたら、甥が私の思いを否定した。「うちかび」を燃やすには仏壇がなければならない。しかし、仏壇は明治以後に置くようになったのだから、琉球王国の昔に「うちかび」を燃やすことはあり得ないことである。
そういえば「うちかび」はあの世のお金である。お金は那覇や首里などの身分の高い層の間では流通していたはずだが、地割制度の村では流通していなかったはずである。お金が流通するようになったのは明治時代からであるから、あの世のお金である「うちかび」があることから考えても仏壇ができたのは明治時代であるのだろう。仏壇が明治時代に登場したというのは私には驚きであった。

私は長男であり、小学校の時から仏壇の儀式をやらされていた。仏壇は先祖代々長男が引き継がれているから長男の私は仏壇を引き継がれなければならないと教えられたし、私も引き継がなければならないと観念した。父母が死に、一人暮らしをしている私であるが私の家には仏壇がある。
仏壇は「先祖代々」引き継がれてきたと子供の頃から聞いていたので昔から仏壇あると思っていた。少なくとも琉球王国時代には仏壇があったと思っていた。しかし、地割制度は琉球王国時代にあったのだから仏壇はなかった。明治時代になって琉球王国が滅んだから地割制度はなくなり、仏壇を置くようになった。仏壇を置くようになったのは明治以降であり、「先祖代々」ではなかったのである。

沖縄の民俗学に精通している友人が居るが、彼に地割制度時代は仏壇があったかどうかを訊いたが、彼は知らなかった。琉球王国時代は仏壇がなく、私有財産制ができた明治以後に仏壇を置くようになったという甥の話を彼に話したら、彼も初耳であると驚いていた。私の話に興味を持った彼は、沖縄の信仰に詳しい95歳になる女性に、沖縄で仏壇を置くようになったのはいつ頃なのかと聞いたらしい。すると彼女は明治の頃であると答えたという。私の話は信憑性が高いことを彼は認めた。
地割制度と口唇口蓋裂
地割制度というのは一定期間に土地を割り当てる制度であるが、一万戸と戸数の多い村であるなら割り当てすることは難しいだろう。不満や争いが起こる可能性も高い。数千戸でも輪り当てするのは大変である。割り当ては数百戸くらいの村でできることである。地割制度は小さな村単位で行っていたのはその性だろう。そして、農民が自由に移住すると割り当てが困難なので地割制度を維持するために移住も禁じたのである。隣村との交流を禁じていたから、地割制度制度の村では同じ村人同士で結婚する親族婚が多かった。
あなたは口唇口蓋裂という障害を知っているだろうか。生まれた時から唇が割れている障害である。知人の話によると沖縄には口唇口蓋裂の人が多かったらしい。私が子供の頃にも同い年に口唇口蓋裂の男の子がいた。大人にも口唇口蓋裂の人がいた記憶がある。知人が医者から聞いた話では親族婚をするとこのような障害になる確率が高いらしい。そのことが本当であるかどうかをグーグルで調べたが、口唇口蓋裂の原因が親族婚にあるという説明を見つけることはできなかった。
ただ、沖縄に口唇口蓋裂が多かったのは事実であるようだ。そして、東南アジアやアフリカなどの後進国にはまだ口唇口蓋裂の子供が多いという。知人の知り合いの医者の話では後進国では、沖縄と同じように親族婚が多いかららしい。
口唇口蓋裂は手術で治すことができる。日本で手術の技術が優れているのは琉球大学病院であるらしい。米国はすでに手術で口唇口蓋裂を治す技術があったので米民政府統治時代に沖縄は米軍医から手術を習った。
東南アジアやアフリカなどの後進国にはまだ口唇口蓋裂の子供が多いので沖縄で口唇口蓋裂を治す医療チームを結成してアジアに派遣するという報道を数か月前に見たことがある。

せんする節と地割制度
沖縄民謡にせんする節というのがある。村というよりごとに言葉が違うことをおもしろおかしく歌っている民謡である。本部の備瀬、名護市の津田、恩納村のンジャトゥのヒジャオンナ、うるま市の屋慶名などの言葉の違いのおもしろさを歌にしている。せんする節の特徴は市や村単位の言葉の違いではなく、今の字単位での言葉の違いを歌にしていることである。琉球王国時代は村の規模は今の字くらいの規模であっただろう。
地割制度は小さな村が他の村と隔絶していて交流や移住が禁じられていた。沖縄本島は小さな島であるが、村ごとに言葉が違っているのは地割制度が原因である。

琉球王国時代の人口はおよそ17万人であった。
有力士族425人
下級士族8075人 
農民・漁民16万1500人
17万人だったら村と村は随分離れていただろうし交流も少なかっただろう。その時に琉球王国は沖縄を支配し、村に地割制度を敷いたのである。17万人から徐々に人口は増加して明治直前の琉球王国の人口は40万人であったが、人口が17万人から40万人に増加していっても地割制度はそのまま琉球王国の農民支配制度として維持した。多分人口が増えていくと地割制度を維持するために別の場所に新しい村をつくり移住させていたのではないだろうか。

地割制度は生産性が低かった
 地割制度は沖縄独特の制度というより、交通が発達していない時代で小さな村が点在していた頃に小さな国が誕生して村々を支配するようになった時代の制度だったと考えられる。本土や他の国でも小さな国が点在していた時代には沖縄のような地割制度があっただろう。
 地割制度には生産性が低いという欠点がある。畑を定期的に割り当てしていたら、畑を改良して肥沃にしていっても次の割り当てには自分が耕作する畑ではなくなる可能性がある。だから、畑の収穫を多くするための土地改良をする意欲は湧かない。地割制度の村では土地を改良して生産を高めようとする意欲はなかったと考えられる。地割制度は生産を高めるのには向いていない制度であったのである。
本土では江戸時代には生産を向上させるために割り当てた土地をずっと同じ農民に耕作させるようになっていた。そのほうが生産意欲が高まり、生産が向上するということを江戸幕府は知っていたからである。

明治維新の時、沖縄の人口は約40万人であった。現在の人口は142万人だから明治初期の沖縄は現在より100万人以上少ない三分の一の人口であったのだ。明治に入ると人口が急激に増えていき昭和には約60万人になる。そして、60人からはソテツ地獄が続き、増加しない状態が続く。
明治時代になると地割制度から私有制度になり、村から解放されて沖縄内だけでなく本土にも自由に移動できるようになるが、ほとんどの農民は同じ村に住み、生活も文化も急激に変わることはなかったと考えられる。だから沖縄には地割制度時代の文化が根強く残っていたはずである。

明治以後も小さな村が点在していた沖縄ではお金の流通は発展しなかった。生活に必要な物は村で生産し村で消化していた。戦前は芭蕉布でつくった着物をつけていたが、村には何軒かの機織り機のある家庭があり、そこで村の人たちが着ける布を織っていた。戦後でも私が子供の頃、機織りをしている家が数件あった。

農業はお金の流通に向いていない。父は米、さつま芋、田芋や野菜を栽培し、豚と山羊を飼っていた。米からの収入は年に二回、田芋は年一回、さつま芋や野菜は家族と豚が食べた。豚や山羊は業者に売ってお金が入ってくるが山羊や豚からの収入は年に数回であった。農業には月収入はない。だから月単位でお金を払う生活には向いていない。
商店から買う商品は買った時に払わなければならない。電気料金や水道料金は毎月支払わなければならない。子供が学校に通うと服やカバンや教科書を買わなければならないし、給食費やPTA会費などを払わなければならない。
私の家は商店から買った商品の値段をノートに記録して収入がある時に払った。しかし、電気料金や水道料金は毎月支払らなければばならないし、学校への支払いも収入があった時に支払うわけにはいかない。母は学校に支払わなければならない時には、「お金を探してこようね」と言って家を出て、暫くするとお金を持って帰って来た。隣近所から借りたのだ。私が「どこで探したのか」と聞くと母は「道に落ちていた」と言った。小学生の時は母の言葉を信じ、歩くときは下を向いてお金を探しながら歩いたものだ。

農民は毎月の収入がないので、生活を維持するために借金をしなければならない。お金経済になった明治時代になると高利貸しからお金を借りる農民は多かっただろう。借金を返すことができなくて土地を手放した農民も多かったはずである。
農業は近代化が進んだお金経済には不向きな産業である。
貧しさを淡々と生きていた農父
小学三年生の卒業写真である。


写真を見て分かる通り男子生徒は学生服を、女子生徒はセーラー服を着けている。私たちは小学生の時から制服を着なければならなかったのだ。父は専業農家であったために家は貧しく子供を小学校に通わすのためのお金負担は大きかった。

嘉手納で祖母と孫の二人で生活しながら商店をしている親戚が居て、その家の家事手伝いをする条件で住み込みをして9歳年上の姉は高校の費用を出してもらった。私の家では姉を高校に通わすお金はなかった。
父が農業ではなく軍作業員であったら姉が親戚の家の家事手伝いをすることはなかった。

なぜ、農業は貧しいのかを高校生の時に考えた。

幼稚園の時、比謝の隣に広がっているススキや木が生い茂っている原野をブルドーザーで整地して、道路をつくり、どんどん住宅ができて、原野だった場所に渡具知ができた。
もし、父のような農民たちが原野を整地すると、鎌でススキを刈り、のこぎりで木を倒し、つるはしで木の根を掘り起し、鍬で整地していかなければならない。何百人もの人間が整地に参加し、何年もかかるだろうがブルドーザーなら数か月でできた。機械のすごさをまざまざと見せられたのが渡具知の整地だった。
古堅にはモーガンマナーという外人住宅街があり、中学生になると私はモーニングスターというアメリカ人向け新聞の配達をするようになった。外人住宅はコンクリート造りで、庭は広く芝生が植わっていた。鎌で伸びた芝生や雑草を刈るのは大変であるが、どの家庭にも芝刈り機があり草を刈るのは芝刈り機を押すだけで楽に早く草を刈ることができた。
沖縄の家の庭は土であり、雑草が生えると鎌で刈り取っていた。鎌や鍬で手作業をする沖縄と機械を使うアメリカとの違いを子供の頃から見てきた私は沖縄とアメリカの差を感じていた。
アメリカでは機械を使った大規模農場をやって大量生産をしていることを学校で習う。機械を使って大規模農場で大量生産をすれば農民でも金持ちになれる。父の鍬と鎌の農業では大規模農業はできない。父の農業は時代遅れであり、それが貧しさの原因であるというのが私の考えだった。
沖縄は小さい。アメリカのように広大であれば大農場が確保することができるが、小さな沖縄では小さい畑しか確保できない。父だけでなく小さい畑しかない沖縄の農民は皆貧しかった。農業だけでは生活できないから農民の多くは月給がもらえる別の仕事をするようになっていた。そして、土、日曜日の仕事が休みの日に農作業をやっていた。本土でもそういう農家が多かった。そういう農家を兼業農家といった。兼業農家は社会現象にもなっていて教科書にも載っていた。
隣近所の家も兼業農家が多かった。近所で専業農家は私の家だけだった。だから私の家は貧しかった。

私は貧しかったと言ったが貧しい家庭にした本人の父は貧しいと思っていたか。
朝早く山羊の草を刈りにいって、山羊や豚に餌を上げてから朝食を取り、それから畑に行き、昼に帰ってきて昼食を食べた後に30分くらい昼寝をしてから再び畑に行く。そして、夕方に帰って来る。土曜日の半ドンとか日曜日の休日というのは父には関係がなかった。土、日も畑に行った。雨がふったり暴風の日に畑仕事を休んだ。農父は淡々と畑仕事をしながら淡々と生きていた。
子どもの学費や生活費の工面をしていたのは全て母だった。父は生活費に関しては全然関心がなかった。母が豆腐屋を始めたのは四人の子供を養うには父の収入だけでは足りなかったからである。しかし、父はそのことに無頓着であり、戦前と同じやり方の農作業を淡々と続けるだけであった。
父の楽しみは毎晩のあわもり一杯を飲むことと、月曜日に放映する水戸黄門や大岡越前の時代劇を見ることだった。他の番組は興味がなく見なかった。父には趣味はなかった。
お金と無縁に生きている父には家が貧しいという意識はなかっただろう。
大阪の沖縄差別の原因
琉球王国時代の地割制度を調べていくと原始共産社会のような生活をしていた農民のイメージと父が重なった。地割制度の村には学校はない。電気も水道などもない。生活維持にかかる費用が非常に少ない。食べ物は自分がつくった野菜を食べればいい。生活費のためのお金がほとんど必要のない社会が地割制度の村である。
私有財産制度のない原始共産社会の小さな村は当然競争もない。金持ちになろうとか出世しようという欲はない。将来の夢も持っていない。地割制度の村人は父のように淡々と農作業をやり、心配も悩みもなく淡々とその日その日を生きていたのだろう。
しかし、明治時代に地割制度は廃止になり、畑は私有財産になった。税金はお金で払わなければならなくなった。大地主は収入が増えたが、小さな畑の農民は税金を払うことができないくらいに生活が困窮した。
沖縄は世界恐慌などの影響があり経済を支えていた砂糖は売れなくなってソテツ地獄に陥った。生活することができなくなった貧しい農民が生き延びるために仕事を求めて大阪に移住したのである。江戸時代から商業が発達していた大阪は私有財産の意識が高かったし、社会の規律も確率していた。そんな大阪に原始共産社会で生き、近代教育を満足に受けていない時代遅れの沖縄農民が移住したのである。
沖縄農民と大阪の住民とは労働や生活習慣に格段の差があったのは当然である。その差から差別が生じたのである。
沖縄差別の原因は沖縄と大阪の習慣や文化の違いであるが、その違いの原因は近代化が進んでいるか遅れているかの差であった。
沖縄差別を解消する方法は大阪の人たちに人間は平等であり差別をしてはいけないと教えることよりも沖縄の人たちに近代化教育をすることであった。
第一に共通語教育である。ウチナー口と共通語は大きな違いがある。ウチナー口しか分からない沖縄の人は共通語が分からないし話せない。それは大阪で生活や仕事をするのに大きなハンディになる。生活や仕事で大阪社会に溶け込むことができなかった沖縄出身者が大阪の人に敬遠され差別されたのである。

言葉の問題は沖縄だけでなく日本全体の問題でもあった。明治時代になり国内移住が自由になると地方から東京にどんどん人々が流れた。方言は地方によって違う。方言によるトラブルが多くなった。トラブルをなくすために明治政府が行ったのが共通語の作成と流布であった。
共通語励行は全国で行った政府の教育政策であった。沖縄だけ特別に共通語励行をやったわけではない。
沖縄がやるべきことは理想的にいえば本土に移住する県民に共通語を徹底して教え、本土での仕事や生活のやり方を習得させることであった。習得させた上で本土に移住させるシステムがあったなら大阪の沖縄差別はなかっただろう。現に共通語が話せ、教養のある県民は大阪に移住しても差別されることはなかった。

学校で共通語励行を実施した政府は沖縄差別をなくす努力をしていたのである。共通語励行は沖縄差別であると共通語励行を否定している連中の方が沖縄差別を助長する考えの持ち主なのである。
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